57.「――私!?」
――どうなったんだろう、私は。8層で、誰かに後ろから襲われたのは憶えている。全身に電撃のような痛みが走って――そこから、記憶が無い。
いや、違う。途切れ途切れだけれど、何となく憶えている。8層でのおじさん達の戦い、フオフアの乱入と、その正体。……正直、ショックだった。守ってくれていたのは事実だとしても。
「あら、ヒドい。あたし、別にあなたに何もしてないでしょう? ただ見ていただけ。見守って、いただけ」
その声は――シビル!?
周りを見渡そうとしたが、自身の体すら見えない。完全な暗闇だ。体が動かないと思っていたが、動かそうとする体を認識出来ない、というのが正しい状態だと気づいた。
……落ち着け。私は今、ここにいる。だから死んではいない、筈だ。そう。シビルが私をさらったのなら、なおさら死なれては困る筈。
心臓の鼓動が早くなり、息が荒くなる――ような気がした。だが呼吸の音も、心臓の音も聞こえない。と、再び、声が聞こえた。
「よく来たね。――沢山、怖い思いをしてきただろう」
――シビル!
「けど、もう大丈夫だよ。あんたは、あたしになるんだからね」
何? 一体何を言って——。
そこから、再び意識が途切れる。気付いた時には、アキルの顔がすぐそこにあった。
お父さん!
「待ってろ。今、出してやる」
必死の形相で呟く父に、声は届いていないようだった。魔素剣の刃を短くして、自分を包んでいる何かをそぎ落としていく。それで、自分の体が今どうなっているのかを理解できた。全身を黒い粒子に包まれ、顔だけが露出している。
……何だろう、この感じ。
背筋を、生身の肌どころでなく真皮を直接撫でられ続けているかなような、寒気を感じる刺激。それが絶え間なく続いている。そして、気付いた。
私の中に、何か、ある。
いや――違う。誰かが、いる。誰か? 考えるまでもない。シビルだ。私の中に、シビルが注ぎ込まれている。
「あんたは、あたしになるんだからね」
シビルの言葉を思い出す。
――嫌だ! そんなの——シビルなんかに、なりたくない! 助けて、お父さん——。
粒子が削がれてアイシャの上半身が露出すると同時に、ゆっくりと傾く。アキルはそれを片腕で丁寧に受け止めると、もう片方で下半身を引き剥がしにかかる。
「良かった……生きてるな。体も無事なようだ」
アキルはアイシャを地面に横たえて全身を確認すると、ほっと息をついた。ネジドの昔の話を聞いて、体の一部が欠損している事も覚悟していたのだ。
「……待ってろ。絶対に助けてやる」
重いなチクショウ、と呟きつつアキルはアイシャを担ぎ上げた。「ホントなら、もっと小さい筈なんだがな」
それは私に言われても困る。――いや、そうじゃない。粒子から解放されたにも関わらず、体内の異物感が消えていない。それどころか、これまで以上の勢いで侵食が進んでいる。だがそれを父に伝える事が出来ない。意識はあるが体を一切動かすことの出来ないもどかしさ。
リドワンはドナホゥの元に辿り着き、アイシャをミルサークの隣に横たえた。アイシャは真っ青な顔で意識を失っているミルサークを見て何があったのかとうろたえるが、次の瞬間、それ以上の事実に気付いて愕然とした。
――いつの間にか自分の体を、外から眺めている。
まるで、他人のように。今、眼の前には自分とミルサークの二人が横たわっているのが見えているのだ。どういう事? 既にシビルに乗っ取られてしまったという事? だから体を動かせない? そんな――。
地面に接触している背中から、絶え間なく感じ続けている悪寒。体は別に見えているのに、その感覚は感じている。父が額をそっと撫でた。それもしっかり、感じられた。アイシャは一度、深く息をついた。
——落ち着くんだ、私。感覚があるという事はまだ、繋がっている。ならば、何とかなる筈だ。何とかするのだ。手遅れになる前に。
とはいえ、どうすれば良いのか。父とネジドが交代しつつ戦っているのが見える。あの2人に託すしか無いのか。そんなのは、嫌だ。何かしなくては。何か、出来る筈だ。何かとは……考えるまでもない。体を取り戻す事だ。
アイシャは眼を閉じる。少しでも強く感じるのだ。自分の体を。自身の存在を。全てでなくていい。指の一本でも動かせれば。
体内を、これまで経験したことの無い凄まじい量の魔素が巡っている。……落ち着け。この流れは、止められない。魔素の中には、シビルのものに混ざって本来の自分のものが流れている。ほんの僅かになってしまったそれを感じて、集めるのだ。
悲鳴が上がって、目を開ける。その眼に映ったのは、2本の刃に貫かれた父の姿。
――お父さん!
集中が途切れる。吹き飛ばされたネジドが父を回収して、後退してくる。自身の隣に横たえられた父の姿を、アイシャは息をのんで見つめた。心臓を貫かれている。どうしようも無い。体内の魔素の流れが完全に止まってしまっているのが分かる。
「……まるで、死体置き場だな」
ネジドが呟く。無神経のように聞こえるその言葉の語尾が震えていた。父の体から使える物を回収して、再びシビルへと向かう。瞬時帰還をいつでも使えるようにしておけ、と言い残して。
……ああ、あの人は、死ぬつもりだ。
いや、自分を連れて迷宮に潜った時から、彼の中で覚悟は出来ていたのだろう。だがこれまではネジドが死ぬ、という事など全く想像出来なかった。全くブランクを感じさせない体の動き、蓄積された知識。両親と一緒に暮らしていた頃に感じていたのと同じ、いや、もしかひたらそれ以上の、無条件の安心感。
だが今は違う。死が――圧倒的な現実として周囲に蔓延し、ネジドもその中にいる。
ドナホゥが瞬時帰還の刺さった腕輪を握りしめている。それが、既に自分には意味が無い事は解っていた。せめて、3人は一緒に。
自分の中の魔素が、揺れた。ハッとして見ると、ネジドが自分と対峙していた。
――私!?
いや、自分の体はここにある。しかし魔素が、自分の中の魔素の殆どが、シビルと同化していた。だが、今の揺れ。
……チャンスだ。
ネジドがシビルを消耗させて、つくってくれた好機。再度、集中する。心臓だ。自分の魔素を、そこに集める。中にあったシビルの魔素を追い出して、死守する。
――出ていけよっ!
再度、魔素が揺らいだ。間違い無い。シビルも、弱っている!
「~~悪い子ね、あなた」
突然頭の中で、声がした。
「少し、大人しくしてなさい。すぐ、終わるからね」
次の瞬間、ネジドの体が吹き飛ばされるのが見えた。だが、今度は集中を途切らせない。ミルサークが立ち上がり、シビルへと向かって行く。
「……何をしてるの?」
再び、シビルの声がした。「何をしてるの!」
「おじさんに、力を送ってる。地面を通じて。――あなたの力を使って」
そうだ。シビルと自分が同化するということは、自分にも、地の魔女であるシビルの力が使えるという事なのだ。とはいえ出来るのは、僅かに地面を動かせる程度。――そしてそれを利用して、ネジドに魔素剣を届ける事位だ。
ネジドが立ち上がるのが見える。そう、眼の前に見える。両手に持った魔素剣の刃を光らせて、振り上げた。
「……ごちゃごちゃうるせぇよ」
その瞬間、アイシャにも見えた。魔素剣の刃だけでは無い。ネジドの両眼も、金色に輝いているのを。
おじさん、心臓をっ!
声無き声に応えるように、ネジドはその刃をシビルの心臓に突き立てた。悲鳴が空気を切り裂く。同時に、アイシャの意識も霧散した。




