534.たとえそれが夢幻であれど
独り自室にて、お茶の香りで目を覚ました俺は、食堂へと向かった。
そこにはいつもの様に、サラリとした美しい金の髪を靡かせ、柔らかに緩めた目で父を見るマリア母さんの姿があった。
母の隣に座るのは、黒い髪に端整な顔つき、その中にひときわ目立つ鋭い目を持ったセツナ父さん……並んで座ると、絵になる二人だ。
父と母の前には、カップが二つ。
湯気立つお茶が、香りを俺の鼻にまで届けてくれる。
僅かに憶えている、母のお茶の香りを。
「今日は遅かったな。おはようマルク」
「フフッ。お寝坊さんね。おはよう、マルク」
「うん。昨日、炎の魔法の訓練をし過ぎてね。ちょっと疲れたのかもしれない……おはよう、父さん、母さん」
分かっている。
これが夢だと言う事は。
この卓と椅子しかない殺風景な食堂に、父と母が居る筈がないのだから。
とうの昔に、死んでいるのだから。
塵一つ残ることなく……。
それでも俺は、二人の前に座る。
丁度、毎朝シャーリー達と朝食を取る、いつもの席に。
座った俺の前には、いつの間にかお茶が出されていた。
母を見ると、口角を上げ、笑っていた。
「いただきます」
俺は一言告げ、カップを取る。
鼻をくすぐる香りは、柔らかで、甘い。
だが、口に含むと、広がるのは香りだけで、味は無味であった。
これは、母のお茶がこうである訳ではない。
俺の記憶が、味を作り出せなかったのだろう。作り出したくないのだろう……。
「あったかい」
「そう、よかったわ。ねぇ、マルク。あなたのお茶を飲ませて」
「そうだな。母さんの茶も美味いが、マルクのも飲みたいな」
「ちょっと待って」
夢なんだから、普段より速く出来る筈だ。
魔力の準備と共に、想像の中で茶を用意する。
三杯分の湯の中で、とっておきの茶葉を躍り踊らせる。
時を加速させるかのように、抽出を早め、それでも美味しく出来る様に。
丁寧に、丁寧に。
父と母に、雑な茶は出せない……良し。
「≪自然の息吹≫よ」
態々指で指し示さず、カップの上から直接茶を注ぎ入れる。
何もない空間から流れ出る茶が、カップを満たしていく。カップを反射するように、周囲に香りを広げながら。
カップの七割ほどで魔法を止め、俺は口を開いた。
「召し上がれ」
父と母は、無言でカップを掴み、喉が一度だけ動く。
「ふっー、美味しい」
「あぁ、美味い。母さんの茶には、まだ届かないけどな」
「もぅお父さんったら、素直に褒めなさいよ」
「別に良いよ。俺の望みは、叶ったから」
柔らかに微笑む母も、鋭い目を緩める父も、全て自分の夢の幻だ。
それでも、こんな光景を、見てみたかったな。
俺も一口、茶を飲む。
温かで、薄い酸味と渋味。そして、口に広がる果物の様な芳醇な香り。
美味しい茶を、父と、母と共に。
ただ、暫く……ゆっくりと……。
茶を飲み終えた母が、穏やかな声で、言った。
「ねぇ、マルク。考えはまとまったの?」
「まだ、かな?」
「時は、待ってはくれないぞ」
父の言葉と共に、唐突に光景が様変わりする。
殺風景な食堂で、座って茶を飲んでいた筈が……今は、遠くに見える戦場を眺めながら、俺は独り立ち尽くしていた。
視線の先には、竜を模った黒い影……実像は見えない。
そして、その前で言葉を紡ぐ母。剣を構える父の姿があった。
銀の刀身を煌めかせ、ただ敵を見据える父。
普段着ない黒のローブを身に纏った母。
それは、最後に町で見た、二人の姿と一致している。
夢なんだから、当然か。
この後どうなるかは、ダニエルさんとジギさんから聞いた。
父も母も、死ぬ。
黒い炎に飲まれて。
俺は、どうするべきなんだ?
守りの魔法を? それは誰の為に?
自分? それとも父と母に?
それとも、周囲で倒れる顔が黒く塗りつぶされた冒険者達の為に?
俺の体は、自然と走り出していた。
竜へ、真っ直ぐに。
それは、己の死を意味する行動だ。分かってる。
それでも……夢でも……見捨てられる訳が無い。
そこに居るのが、父でなくとも、母でなくとも。
俺の手には、いつの間にか燃え盛る炎の剣が一本。
母から受け継いだ、一本の剣が、赤々と燃え上がっていた。
今一度、強く握りしめ、俺は呪文を唱えた。
「≪獣王の跳躍≫」
放った魔力が地を抉る。
代わりに、俺の体は、黒い影の竜へ向け、跳んでいた。
そして、迫る竜へ向け、炎の剣を振り下ろした。
体の進む勢いのまま、炎の剣は、竜の肉を焼き切る。
そして黒い影は、炎の浸食されるかの様に食われ、塵も残さずに消えていった。
本物も、こんな弱ければいいのにな。
こんな弱ければ、父も母も死なずに済んだのに……。
「何をしたいのか、決めたのね」
「さぁ? どうだろう……それでも、俺は守りたいんだ……俺が好きな人達を」
「ああ、俺達二人の意思は、思いは、俺達のものだ。マルクは、自分の道を進め」
「あはは。夢だからさ。言って欲しい言葉を、自分に言ってるだけなんだよね」
俺がそう言うと、母がクスクスと楽しそうに笑い出した。
「夢だからって、何でも思い通りにはならないのよ」
「俺達は幻でも、お前の心の中で、響く声は本物さ。胸を張って、真っ直ぐ行け」
笑う母と、目に弧を描く父。
その姿は、本物であって欲しい。
「第一な、俺達はお前が邪竜に戦いを挑むのは、反対なんだぞ」
「そうそう。態々危険な真似をしなくても、世界なんて、どこかの誰かが救ってくれるんだから、マルクは、お茶でも飲んでゆっくりしてる方が似合ってるわよ」
「そっか……ありがとう」
もっと多くの言葉を返さないといけないのに、それしか言えない。
「マルク。まぁ、お前は、俺達の息子だからな……育て方間違ったかな?」
「間違ってないわよ。どんな風に生きたって、私達の息子なんだから。大丈夫よ」
「いま、無職だけどね」
「マルク。自分なりで良いから、稼ぎ口は見つけなさいよ」
「甲斐性が無いと、その、後で困るぞ……」
父の目が、母から離れる様に明後日の方向を向いた……何故?
まぁ、良いか。気にする事ではないだろう。
言葉は、胸に。
何になれるかなんて分からないが、約束しておかないとな。
「分かった。まぁ、取りあえず邪竜倒してから考えるよ」
「ええ。そうしなさい」
「俺達は、お前の中で、見守ってるからな」
「俺の心配性は……父さん譲りかもね」
そう言いながら、俺は炎の剣を消した。
炎の照らす赤が消えると同時に、世界は消える。
父の姿も、母の姿も。
俺は独り、真っ暗闇の中で、ただ、立っているだけだ。
光も、音も、何もない。
俺は力を抜き、ゆっくりと待った。
目覚めをもたらす、穏やかな揺れを。
そして、想像する。
目覚めた時に見える光景を……眩しくて、明るい、シャーリーの笑顔を。
この夢は、目覚めと共に消えるだろう。
それでも、この意思は、消えない。




