535.二人の姿と決意
私には、朝の楽しみが幾つかある。
一つ目は、庭で剣の稽古をしているお兄ちゃんを見る事……今日は残念。
戦うお兄ちゃんの一面が見れて、嬉しいのにな。
ならば部屋に――居た。お兄ちゃんは、まだ寝ている。
二つ目は、眠るお兄ちゃんの寝顔を見る事……可愛い。
いつもの様に、起こさないよう、そっと手を伸ばす。
金の髪から、少しだけゴワッとした感触が手に返って来る。
それも、気持ちいい。
だから、何度でも撫でたくなる、触れたくなる。
三つ目は、お兄ちゃんの髪を撫でる事……えへへ。
アムには悪いけど、これは、これだけは、私だけの楽しみだ。
一つ……二つ……三つ……。
薄い寝息を立てながら、お兄ちゃんは眠ったままだ。
尖るようにも見える鋭い目も、今は閉じている。
開いてる方が好きだけど、これもまた可愛いお兄ちゃんだ。
頬にも触れたくなる……我慢して、そろそろ朝ごはんを作ろう。
四つ目は、お兄ちゃんのご飯を用意する事……一緒に作れたら、もっと良い。
でも今日は、お兄ちゃんを堪能出来たから、良し。
手をそっと離し、起こさぬ様に抜き足差し足で部屋の外へ向かう。
「またね」
小さく呟き、扉を閉める。
そう、もう一度来れたら嬉しい。
五つ目の楽しみ。目を覚ました瞬間のお兄ちゃんを見るのも、私の楽しみだ。
さて、台所へ――行く前に氷室から野菜を持ってこないと。
氷室の中は、少し冷えるから、あんまり好きじゃない。
贅沢な話だよね。
たぶん、お兄ちゃんが、私の為に動かしてくれた氷室だ。
有効活用しないと。
あっ。もう一つ楽しみがあった。
朝食を作っていたら、起きて来るだろう。
テラさんの、眠そうな可愛らしい顔を見るのも、私の楽しみの一つ。
さぁ、大好きな二人の為に、ごはん作らないと。
「――てよ、お――朝だよ、お兄ちゃん」
揺れと声を感じ目覚めると、そこには朝日に負けぬ輝きを持った笑顔があった。
明るい茶の髪が、俺を覗き込むように垂れている。
クリッとした目も、元気そうに輝いていた。
全く、朝から嬉しい光景である。
「おはよう、シャーリー」
「おはよう、お兄ちゃん……あれ? 何か嬉しそう」
「一番にシャーリーに会えたからな」
「それ、最近はいつもだよ」
「んー。だな」
体を起こすと同時に、シャーリーも後ろに下がる。
そのまま体を伸ばし――「≪癒しの水≫」――右手に生み出した冷たい水を顔へと押し当てる……冷たい水が顔に張り付き、目覚めへ促してくれる。
嗚呼、心地良い。
父と母が、こんなことに魔法を使う俺を見たらどう思うだろう……何で父と母の事を考えたのだろうか……まぁ良いか。
シャーリーから布を受け取り、癒しの水を拭い去る。
シャーリーが俺を見ながら「えへへ」と笑っていた……意味は分からないが、可愛いからいいか。
「ありがと、行こうか」
「うん。テラさんも起きてるよ」
昨夜の件が恥ずかしいので、テラさんとは顔を合わせ辛い……まさか、風呂で寝てしまうとは……それをテラさんに叩き起こされるとは……。
「ん? どうしたの、お兄ちゃん?」
「何でも無いよ……」
「んー? ま、いっか。朝ごはん冷めちゃうよ」
そうだな。シャーリーの朝食を最高の状態で食べないなんて、冒涜的だ。
部屋を出るシャーリーを追って、俺も食堂へ向かった。
食堂には、背もたれに体を預け、ぼぉーとしているテラさんが居た。
首を捻り、こちらを見たテラさんの目は、トロンと眠そうである。銀の髪からはみ出す長い耳も、今は先端が下へ垂れ下がっていた。
最後の仕上げに向かうシャーリーを見送り、俺は定位置へ座る。
「おはよう、テラさん」
「マルクや、おはようなのじゃ。しかし、湯船で寝とったわりに、今日はお寝坊さんじゃのぅ」
「うっ。それは、シャーリーには内緒にして――」
「もう知ってるよ。お兄ちゃん」
野菜スープを持ったシャーリーが、そう言いながら戻って来た……テラさんを見ると、大きく頷いている……テラさん、何て事を。
俺にスープの皿を渡すシャーリーの口元は、ニヤリと弧を描いていた。
「お兄ちゃんも、裸見られて恥ずかしいんだね」
「まぁ、そっちは別に良いんだが……すぐ上がるって言って、そのまま寝るなんて……その、子供みたいだろ?」
「えー? そっちなんだ」
「そっちだよ」
俺の正面に座りながら不満そうに口を尖らせるシャーリーに、俺は大きく頷く。
別に裸を見られて平気って訳ではない。
俺も男だ。
女性に裸体を直視されて恥ずかしがらない程、神経図太くはない。
だが、それよりも守るべき矜持と言うものがあるのだよ、シャーリー。
「風呂で寝るのは危険じゃからな。以後、気を付けるのじゃぞ」
「反省してます」
「うむ、ほれ、飯にしようぞ」
「はい」「うん」
目の前には、白いパン。
半分に切った断面に、赤い苺のジャムが塗られている。
皿には、良い焼き色の付いた厚切りの燻製肉と目玉焼きが。
その隣には、先程受け取り、置いた窪んだ皿が一枚。野菜スープがである。
見ただけで玉葱、人参、キャベツと定番の野菜が見て取れる。
駄目だ、お腹が空いて来た。
正面を見ると、シャーリーが俺を見て微笑んでいた。
その隣には、少し目がパッチリしてきたテラさんの姿が。
言葉の前から、今日の朝食が良い物だと確信できる。
「「「いただきます」」」
重なる声。鼻をくすぐる燻製肉。少し甘い野菜スープ。朝を届けるパン。
そして、二人の笑顔と、耳に心地良い声。
なぜだろう?
お茶を飲む父と母の姿が、シャーリーとテラさんに重なる様に現れた。
穏やかに笑う、二人の姿が。
俺は、楽しく過ごせているよ……二人の……皆のお陰でさ。
首を傾げるシャーリーに「何でもないよ」と伝え、俺はパンを口へ放り込んだ。
今日の食後の茶は、どうしようか?
猫の日向の茶葉で淹れる? 魔法で出す?
考えるまでもなく、答えは決まっていた……今日は、魔法の茶にしよう。
俺は独り、炎の訓練を行っていた。
シャーリーは、今日も店番である。
何やら冒険者が慌ただしいらしい……まぁ、事が動いたのだ。仕方の無い話か。
戦いの準備か、逃げる準備か、今後の備えか……俺にあれこれ言う資格はない。
テラさんは、探し物があると言って、朝一番からお出かけである。
心配なので付いて行こうとしたら、迷いなく断られてしまった……少し寂しい。
まぁ、今は訓練だ。
邪竜との戦い。
自分でも不思議に思うが、もう、進む決心はついた。
だからこそ、僅かでも炎の力を強めておくべきだ。
一朝一夕で、どうにかなるものでも無いが、微々たるものでも、今は欲しい。
右手で燃え上がる炎を注視し、魔力を流し込む。
もっと熱く、もっと激しく。
邪竜の力は、分からない。
それでも、邪竜を……黒い炎を燃やし尽くすだけの、炎を。




