506.思い出と励むトーマス
トーマス少年が机に向かって、頭と羽根筆を動かしていた。
今、俺とバッツさんは、それを後ろで眺めているだけである。
エルと同じく家庭教師が付いているらしいが、今日は不在の日らしい。
「えっと……こっちの領地が……収穫量が……」
各領地の収入予想から税収を導き出し、国の収入支出を計算している、らしい。
バッツさん曰く、正しいのは領地と家名だけらしく、数字は適当だそうな。
特別な計算も必要とせず、足す、引く、掛ける、割るを根気よく使い分ければ、計算できる問題らしい。
「先生方の来ぬ日は、こういった素振りを行っているのです」
「あぁ……なるほど。数字に対する『素振り』なんですね」
「はい。算術の先生曰く『数の学問は四則演算が全て』という方でしてな」
計算を繰り返して、頭を鍛えているのだな。
剣の基本が素振りなら、算術の基本は、単純な計算であると。
武も魔法も知も、基本が大事なのは変わらないのだろう。
机に向かって算術の素振りをするトーマス少年は、軽快に羽根筆を動かす。
順調な様である……俺だと、熱を出して倒れているかもしれないな……。
「しかし、何故、領地のあれこれを」
「馴染み深いから、でしょうな」
「馴染み深い……フフ。少し、思い出してしまいました」
「ほぅ。マルク殿も算術を?」
「いえ。生活の知恵として、母に読み書きと共に教わったくらいです」
母には、読み書きと簡単な計算を、小さい頃から教えて貰っていた。
母が銀貨袋をドサッと置き、俺に問題を出す姿を今でも憶えている。
『さぁ、マルク。人参三本とキャベツ一玉、玉葱五個に、ニンニク二つ。鶏肉三枚、白パン二つ。さーて八百屋さんには、いくら払えばいいでしょうか?』
『えっと、にんじんが……』
実際の銀貨を数えながら、母と買い物ごっこをしながら勉強していた。
あれが四つの頃だったか。その頃は、まだ指を折れば計算出来る内容だった。
少しずつ数が増え、事柄も増えていった。
八人分の料理を作るには、あれとこれとそれ、材料が各いくつ必要なのか?
買って来た果物を六人で分けると、一人何個になるのか?
母が出すのは、どれも生活の中に紛れ込んだ、馴染み深い問題であった。
あれが、計算の基礎練習だったのだろう。
そして、正解すれば――
『流石、私のマルク。偉いぞー』
頭を撫でながら、褒めてくれた……懐かしい思い出だ。
ただ、学問として教わった訳ではないので、俺がトーマス少年の力になれる事は、無いだろう。大人しく見守っていよう。
バッツさんも、視線柔らかに、頑張るトーマス少年を見ていた。
その表情は、子を、いや孫を見守るお爺ちゃんの様であった。
暫く羽根筆の動く音を聞いていると、トーマス少年が声を上げた。
「出来たよ。バッツ」
「どれどれ、では暫しお待ちください」
バッツさんがトーマス少年から紙を受け取り、別の紙と見比べ始めた。
計算途中の数字も含めて、答え合わせをしているのだろう。
トーマス少年のパッチリした目は、少し心配そうにバッツさんを見ている。
バッツさんが大きく頷くと、トーマス少年の表情から力が抜けていった。
「全て正解です。トーマス様」
「この程度は当然だよ、バッツ」
そう言いながらも、答え合わせに緊張していたのは、分かっている。
なので俺からも、言葉と行動を。
「いえ。流石ですトーマス様。少し失礼を」
「ん? マルクさん?」
俺は、トーマス少年に近付き、頭をゆっくりと撫でた。
ぐしゃぐしゃには、しない。
滑らかな金の糸が、柔らかに手の平を刺激する。
トーマス少年の表情に、困惑の色が見えた。当然か。
さらに一撫でし、手を頭から放す。
「褒められるような事ではないですから」
「トーマス様。私が褒め、撫でたかっただけですので。ご容赦を」
トーマス少年とバッツさんのお陰で、母の事が頭に浮かんだからだろう。
そうしたかった。ただ、それだけだ。
俺の言葉を聞いたトーマス少年は、困惑顔を崩し、少しだけ嬉しそうに口角を上げた。コロコロ変わる表情は、子供らしく、可愛らしい。
「許します。では、算術も終わったので――」
「まだです、トーマス様。次の問題がこちらに」
嫌そうに眉間に皺を寄せるトーマス少年の顔もまた、良き子供の顔であった。
勉強中のトーマス少年を眺めている中、変化が起こったのは、突然であった。
突如、室内に生み出される見知った魔力。
転移を感知し視線を送ると、瞬間、透き通るような青い髪が靡いた。
ミュール様の登場に、いち早く動いたのはバッツさんであった。
トーマス少年とミュール様の間を割る様に、立ち塞がったのだ。
「バッツさん。驚かせてすみません。現れたのはミネル――ゴホン。ミュール様でのでご安心下さい」
ミュール様から俺へ放たれた銀の視線に耐えきれず、言い直してしまった。
侵入者を睨みつけていたバッツさんが、ホッと胸を撫で下ろす。
「ミネルヴァ様、肝が冷えますぞ」
「あら、御免なさい。トーマス様も、お勉強中に失礼を致しました」
「そうか、ミネルヴァ様が来てしまったのですね……」
椅子から立ち上がったトーマス少年は、バッツさんと共にこちらへ歩み寄った。
その姿は、一目で分かるほど、ガックリと肩を落としている。
「嫌われてしまったのかしら?」
「いえ。マルク殿との別れの刻限ゆえ」
バッツさんの言葉に、ミュール様が微笑んだ。
だが、ミュール様の表情は、どこか作り物じみた微笑みであった。
お綺麗なのは、変わらないのだけどな……。
「ウフフ。トーマス様と仲良くなったのですね、マルク」
「はい。トーマス様は、快き御方でしたので」
出会ったのは『王の孫』だからであるが、だからと言って、俺は『王の孫』と交友を持とうとは思わない。
むしろトーマス少年が、真っ直ぐな子供でなければ、王の孫など俺にとっては面倒の種でしかない。逆に逃げる理由になる。
少しの言葉を交わし、剣を交わし、知った少年の姿は、良きものであった。
仲良くしたい理由なんて、それだけで十分だ。
トーマス少年に目を向け、そう考えが浮かんだ。
視線の先のトーマス少年は、俺とミュール様を交互に見ている。
そして彼は、小さく頷き、口を開いた。
「ミネルヴァ様。今度また、マルクさんをお借りしても宜しいでしょうか?」
ん? トーマス少年? 何故それをミュール様に聞くんだい?
驚いたのは、俺だけでは無かったらしい。
トーマス少年の言葉を聞いたミュール様の口元が、柔らか曲がっている。
微笑の仮面の裏が、少しだけ見えた。
「はい。ですが、私のマルクは多忙ですので、また、いつか」
「はい! ありがとう御座います」
折り目正しく腰を曲げるトーマス少年を見て、ミュール様は尚も微笑んでいた。
勝手に話が進んで行く……内容に不服は一つも無いのだが、少し困る。
「あの、トーマス様? そういう事は、私本人に聞くべきではないでしょうか?」
「駄目でしょうか?」
うっ! 純真な顔で見つめられると、非常に困る。
まぁ、元より答えは一つなのだが。
俺は、膝を床に突き、トーマス少年と目線を合わせた。
俺を見上げていた視線が、正面を向き、俺の視線と重なる。
「構いませんよ。本当に、いつになるかは分かりませんが。必ず、また」
「はい!」
ミュール様の転移の魔法で訪れているから良いが、本来ならば、王都とピュテルは一日二日掛けて行き来するものだ。
気軽に訪れる事は、出来ない。
それでも、再会を約束するのが正しい事だと、確信が持てる。
目の前に広がる、トーマス少年の笑顔を見れば、当然の事だ。
嬉しそうににっこりと笑う子供には、俺は勝てない。




