気持ちの乱気流
「あ、お疲れさまです」
祥順が振り返った。丁度ミーティングルームから出てくるところで偶然にも浩和を見かけたのだ。浩和は思いも寄らない場所での遭遇に首を傾げている。
「追加資料の依頼があったので対応してました。伊高さん、なかなかに仕事熱心ですね」
祥順の言葉に浩和は笑顔を見せる。
「書類はああでも仕事はすごいんだよ」
「そうですね。一番の難関である書類さえ書ければ、人懐っこくて雰囲気も良いし……」
「何だ、べた褒めじゃないか」
さっきまで自分の相棒が褒められているのを喜んでいた浩和が、わざとらしく驚いた表情をしてきた。意外な事に、彼の気に障ったらしい。
「べた褒めではないと思いますけど」
浩和の眉間に一瞬しわが寄る。本当に珍しい。祥順は自分の目に映った光景が本当の事なのか信じられず、彼の言葉を否定しながら瞬きを繰り返した。
「あと五年くらいしたら伊高さんの苦手部分も克服されて滝川さんのようになるのかなあ、なんて」
「カジくんもそんな妄想するのか……」
とりあえず思っていた事を最後まで言い切ったが、戸惑ったような声が耳に残る。何だか今の浩和は普段とは違うようだ。
浩和を見つめていると、ふと目が合った。
「いや、気にしないでくれ。ちょっと意外だっただけだから」
「そうですか?」
さっきまでの変な雰囲気と打って変わり、苦笑してみせる浩和はもうこの話を続ける気はないようだった。
「それより、俺と話してて大丈夫?」
「あ、いや、仕事戻ります!」
今度こそにこやかに手を振りながら、焦った様子を見せて立ち去る祥順を浩和は見送った。
階段を上り始め、ようやく祥順は焦りの演技を止める。小さな溜息が出た。
「――よく分からないけど、気まず……」
祥順の喉の奥に何かがつっかえたような変な感じがしている。ただ浩和の相棒となりつつある寛茂を褒め、いつかは彼のようになるだろうと言っただけなのに。どうしてそれだけの事で浩和の感情がああも動いたのだろうか。
変な事は言っていないのに、不安になる。祥順は他者との距離感をうまくやりくりするのが不得手な自覚があった。もしかしたら、距離感を間違えたのかもしれない。
今頃「お前になんか言われたくない」とか思われていたら嫌だ。中高生のような悩みを抱えながら祥順は仕事へと戻るしかなかった。
仕事で初めての失敗をしてしまった時のような不安感がつきまとう。だが、それは祥順がしている仕事とは全く関係がない。可能な限り仕事の事しか考えないように、目の前の受注へと集中した。
「カジくん、根詰めてない?」
「わっ」
耳元を突然くすぐられて肩をびくつかせる。驚いた拍子に声がした方へと顔を向ければ頬に何かが突き刺さり、予想よりも間近に浩和の顔があった。というよりも、視界は浩和の顔で埋まった。
多分頬に突き刺さったのは浩和の指だ。子供の頃にそういう遊びが流行った気がする。でも、どうしてそんな事をしたのか分からない。
「そんなに忙しいの?」
浩和は爽やかな笑みで話しかけてくる。さっきの事は何もなかったかのようだ。いたずらといい、この笑顔といい、一体何が起きたというのだろうか。
「カジくんがこんな古典的なのに引っかかるの、案外楽しいけど痛くなかった?」
「あ、や……痛くは。ただ、すごくびっくりした……」
頭が真っ白になるくらいには驚いた。浩和はその言葉を聞いて満足そうに頷いた。そして祥順の頭をぽんぽんと軽く叩くようにして撫でてくる。
「うん。それは良かった。眉間にしわが寄っていたよ。さ、今日は俺おすすめのコンビニスイーツ」
がさりと音を立てながら白い袋が目の前に現れた。
「一緒に休憩しよう」
「……はい」
祥順は浩和に連れられるままにいつものミーティングスペースへと向かった。ミーティングスペースには既にコーヒーが揃って置いてあり、浩和が祥順をすぐに呼び寄せて休憩をさせる気満々だった事が分かる。
……嫌われて、ない。むしろ気遣ってもらえている。
じわじわと喜びが広がっていった。
「どうしたの。急いでゆっくりしたら? あんまり時間なさそうだったから、短くても充実した休憩ができるようにしておいたんだ」
すとんと落ちるように椅子へ座る。酸味のある香りが鼻腔をくすぐった。いつもと違うものだ。すん、と鼻で香りを確かめながらコーヒーを見つめる。
「カナリオって豆をドリップしたものだよ」
「何で分かったんですか」
「えー、何となく」
たまにこうして考えている事を当てられてしまう。
浩和はさとりみたいに、不思議なくらいピンポイントの返事をしてくる時がある。もちろん彼はそういう特殊な能力を持っているわけではない。そんなもの、ただの空想でしか存在しない。
だから、きっとこの鋭さは自分をよく見てくれている証拠だ。そう思うとさっきまでの「嫌われたかもしれない」なんていう考えがばかばかしく思えてくる。
「さっぱりしていておいしいから飲んでみて」
「じゃ、遠慮なく」
一口。軽く口に含むとあっさりとしたコーヒーだった。普段会社で飲んでいるコーヒーとは全く味が違う。あっさりとしているというのもあるが、なによりも酸味が華やかだった。
一気に脳がすっきりと冴えていく。
「おいしい」
「そんなさっぱりしたコーヒーにはこれ」
白いビニール袋から出てきたのは、バウムクーヘンだった。
「コンビニのだから普通においしいし、酸味のあるコーヒーにはこれくらいの甘さがバランス良いと思って」
浩和は丸い菓子を見つめた。一番の外側は砂糖でうっすらと白いコーティングされている。年輪のように重ねられた生地は薄く、きれいな円を描いていた。
「おいしそう」
「さ、めしあがれ」
浩和には嫌われてなかったし、こんなに優しくしてもらえている。祥順は普段以上に幸せな気持ちで休憩時間を過ごしたのだった。
2023.12.5 一部加筆修正




