贅沢な休日
朝、祥順が目覚めるとバターの甘い香りが広がっていた。
「おはよう、カジくん」
浩和は昨日のよく分からない行動などみじんも感じさせない、いつもと同じ爽やかな笑顔で祥順を迎えた。祥順は少しだけ納得のいかない気持ちになったが、おいしそうな香りに頬を緩ませるしかない。
多分、これはフレンチトーストだ。
「勝手にフランスパンもらったよ。
今からシャワーだとできあがってしまうから、顔だけでも洗ってさっぱりしておいで」
「はい、洗ってきます」
ざらつく顎を触りながら洗面台へ向かう。夏の無精髭は油っこい気がして落ち着かない。朝食の内容は教えてくれなかったが、絶対にフレンチトーストだ。
甘くとろける蜂蜜と卵、そしてジューシーな触感をくれる牛乳とバター。祥順はぼんやりとフレンチトーストを想像しながら簡単に身支度を整えた。
昨日シャワーをすっ飛ばしてしまったせいで首元がベタベタする。顔を洗うついでに腕と首も軽く流す事にした。冷たい水が首元や二の腕に篭っている熱を取りながらベタつきも洗い流してくれる。
シャワーを浴びなくても最低限すっきりとした祥順は鏡で剃り残しがないか確認した。
なんて贅沢な朝なのだろうか。浩和と親しくなってから、豪華で贅沢な休日がたびたび訪れるようになった。昨日の夜は熟年夫婦の呪いにかかっていたが、確かにこうして色々してくれる浩和は新妻のようでもある。
本当は自分ももっと積極的に動くべきなのだろうが、浩和が先回りしていろいろとやってくれる。いつかそれよりも早くやってやろうと思っている。きっと浩和は驚くし、多分喜んでくれると思う。
疲れて寝過ごした日じゃなくて、元気で浩和がいつもどおりに起きた日にそれを実行する、というのが祥順の最近できた夢である。
ダイニングキッチンへ戻ってくると、そこは夢のような空間だった。
「わあ、おいしそう」
「出来立てのフレンチトーストだよ。
今日は蜂蜜をかけるタイプ」
たっぷりと卵が染み込んだフランスパンの皮はぎりぎり堤防のように耐えていて、その中のパンはふんわりともっちりとしている。その上に黄金色の蜂蜜がたらりと落とされていて輝いて見えた。
フレンチトーストの甘い香りもさることながら、コーヒーのかぐわしさも何とも言えない。二つの香りが共演していて幸せな気分になれる。
「いただきます」
祥順は早速ナイフを入れた。フランスパンの、本来はぱりっとしている表面はナイフが当たると氷山が崩れ落ちるときのように割れて滑る。中の部分はしっかりと水分を吸っていて、名残惜しそうに沈みながら切れていった。
垂れて皿に広がる蜂蜜を絡めながら口に運ぶ。口に入った瞬間、バターと蜂蜜の甘い香りに支配された。なめらかな触感になったフランスパンはあたたかなアイスクリームのようだった。
「どう?」
浩和の言葉に祥順はただ頷いた。おいしい以上の言葉は思いつかなかった。
「フランスパンのフレンチトーストって初めてだったからちょっと緊張したよ」
このクオリティで初めてなのか。エッグベネディクトが出てきた時もびっくりしたが、それとはまたジャンルが違う驚きだった。
何だかこのまま食べてしまうのがもったいない気がしてくる。
「また作ってください。すごくおいしいです」
「うん。今度は一緒に作ろうか」
目の前の爽やかな男に頷き返してからフレンチトーストに視線を戻す。……またこの美味しいものが食べられるなら。祥順は思い切ってもう一切れを口に含んで幸せそうに目を閉じた。
とろけるような口どけは、今まで食べたどのフレンチトーストにも勝る。十分に牛乳を吸っているからだろうか。甘さもほどよくて、何枚でも食べられてしまいそうだ。
「……そんなにおいしい?」
突然声をかけられ、現実に戻された。祥順の意識がどこか遠くへ行ってしまったのはばれていたらしい。フレンチトーストに夢中になる年上なんて恥ずかしい。いや、これだけおいしいければ当然か。
目の前にあるものは、年齢関係なく人を虜にする悪魔の食べ物だ。
「俺が出会った数少ないフレンチトーストの中でダントツトップです」
「ふはっ」
祥順の言葉に浩和が緩く吹き出した。どこかそれは照れくさそうに見える。思わずじっと見つめれば、彼の耳が少しだけ赤く染まっていた。
「そうか、うん。ありがとう。
でも面と向かって言い切られるとちょっとむず痒いな」
珍しく照れた浩和の顔を見ている内に、段々自分も恥ずかしくなってきた。多分浩和にもそれは伝わったのだろう。彼は軽く咳払いをしてフレンチトーストの攻略に戻っていった。
食後に簡単な片付けと洗濯物の洗濯をしてしまえば、後は浩和お楽しみのマッサージである。せっかくだから横になってやろうという話になり、フローリングの床にふとんを敷いてマッサージをする事になった。
浩和が遊びに来るようになってから“来客用”として購入した――実質浩和専用になっている――ふとんの上にうつ伏せになった。腕を動かす事もあると言われ、腕はだらりと伸ばしている。意外にこの体勢は辛い。
頭を横に向ければ、首筋から肩にかけて筋肉が引っ張られた。最近は慌ただしく動いていてストレッチをしていなかったな、と思い出した。
「痛かったら言ってください。最初は力加減がうまくできないかもしれません」
祥順はそう言いながら浩和の背中にまたがった。腰の両脇を挟み込むようにしてまたがった彼は、掌で背中の硬さを確かめるようにゆっくりと押していく。
祥順の掌が当てられた部分がじんわりと熱を持っち、またゆっくりと冷えていく。マッサージはまだこれからだというのに、力が抜けていくような心地よさがあった。
「やっぱり首筋と肩胛骨が張ってますね。
あと、微妙に腰も……かな?」
「んっ」
くいっと突然指で腰を押され、ぞわぞわと腰から背中にかけて快感が走った。鼻声のような、変な声が出た気がした。
「最近伊高さんにつきあって書類ばっかり見てますもんね。
後で腰も揉みます!」
浩和の気のせいだったかもしれない。もしくは普通の反応なのか。祥順は腰の張り具合を勝手に推察してマッサージする事に決めてしまう。
「では、いきます」
突然神妙そうな声でマッサージ開始を宣言すると、指圧が始まった。最初は指の腹――多分人差し指と親指のライン――が押し撫でるように肌の上を動いていく。
リンパマッサージみたいな感じだろうか。そう思っているとぐいっと親指で押してくる。
多分親指は筋肉と筋肉の間をなぞるようにして動いている。
痛くはないが、揉まれていく度にじんと熱を感じた。正直、整体とかはあまり興味がなかったが、通い詰める人間の気持ちが分かるような気すらしてくるくらいに気持ちが良かった。




