熟年夫婦の呪いと熱
結局熟年夫婦の呪いは解けず、解散までいじられた。そこそこの時間になったところで、解散を提案すればすぐにそうなった。それぞれの交通事情がある上、女性に遅くまで会社の側にいる気もない。何よりも、浩和は早くこの飲み会を終わらせたかった。
もちろん男だけの二次会もなしだ。さすがの浩和も寛茂のテンションに負けてしまっていた。
飲み会の途中から祥順の様子もおかしかった。恐らく恥ずかしさを紛らわせる為にアルコールを接種し続けたせいだろう。これ以上変になる前に会社の人間達から離れたかったというのものある。
あの飲み会はことごとく浩和の調子を狂わせた。浩和は内心で熟年夫婦と呼ばれる状況に戸惑っていた。隣に座る祥順は恥ずかしそうにしているし、その反対側の隣に座っている後輩はわけの分からない事を言い出すし。
女性陣はふざけてしまって盛り上がっているから、水を差すような発言になってしまわないように気を遣うし。
それに加え、引き際を失って祥順の肩に回した手を離せなかった。いったい自分は友人の肩を抱いて何を主張したいんだと、自問自答しようにも出てこなかった。
遂には祥順の方から近付くような仕草をされて心拍数が上がった。あんなシャツの掴み方、紗彩にもされた事がない。
同性相手にどきどきしてしまったのは紗彩と明寧の事が頭の片隅にあるからだろうか。でも隣にいるのは大切な親友だ。そういう関係じゃあない。
なのにもこんなに意識してしまうのは、心のどこかで紗彩と明寧の事を快く思っていないのではないか。それはそれで嫌な人間になったみたいで考えたくなかった。
ぐだぐだとそんな事を考えている自分こそ、酔っ払っているのかもしれない。
祥順は精神力を使い果たしたらしく、解散した途端にしゃがみ込んでしまった。彼は祥順が酔いつぶれそうになった時によくしているように肩を貸してやることで、何とか家に着く事ができた。
家に着いた時に祥順がこぼした「強くなりたい」という言葉が気になりつつ、この様子では風呂なしの朝までぐっすりコースだなと判断する。
「こんな俺と、親友でいてくれて……ありがとうございます」
浩和の介助によってダイニングキッチンを通り抜け、ベッドにダイブした祥順がもごもごと口にした言葉は、耳にしっかりと届いていた。
「こちらこそ」
芋虫のようにもぞもぞとしながらネクタイを外した祥順が、それを渡してくる。伸ばされた腕の先にあるネクタイを受け取れば何となくしっとりしていた。季節的なものか、アルコールのせいで発汗したのかは分からないが、その湿り気が浩和の心拍数を上げた。
……絶対に飲み過ぎだ。
「ネクタイは掛けておくよ」
「うん……」
ネクタイをハンガーにかける頃には、仄かな湿気は感じなくなっていた。
「おふろ、勝手に使って」
「ありがとう。借りるよ」
たまにあるパターンだ。祥順の許可をもらわずに勝手に使った記憶はほとんどない。ダイニングキッチンに移動した浩和は適当にタオルを借りる事にして、スーツを脱いでいく。皺だらけにならないようにハンガーを勝手に拝借しておく。
シャツに下着という姿でうろつくのはあまり行儀が良いとは言えないが、祥順が酔いつぶれた時はだいたいいつもこんな感じだった。
シャワーを浴びてしっかりと汗を流し、持参していた着替えに腕を通す。その頃にはもうダイニングキッチンは空調も行き渡りちょうど良い温度になっていた。
湯を浴びて熱の籠もった体にはもう少し涼しい方が良いかもしれない。そう思いながら浩和は冷蔵庫で冷やされていた炭酸水をあおるように飲んだ。
喉をはじけながら通っていく炭酸水は思いの外心地よく、籠もった熱を吹き飛ばしてくれる。実際は胃腸を冷やすだけらしいが、気分的にはさっぱりした。
祥順はもう寝付いた頃だろうか。浩和はそっと彼の部屋に入った。物音を立てないように気を付けながら近寄っていく。浩和が部屋を出ていく時にはうつ伏せだった祥順は、仰向けで寝ていた。
すうすうと小さな音を立てて寝入る彼を見ながら炭酸水を一口飲む。ペットボトルの中身がしゅわ、と振動にあわせて軽やかな音を立てた。
少しだけ唇が開いていて、本当に寝入っているのが分かる。今日は少し口角が下がっていた。よくよく見れば、眉も少しばかり下がり気味だ。今日の飲み会は相当疲れたのかもしれない。
瞼にかかっていた前髪をよけてやる。セット剤を付けて少しだけ長めの前髪を毎日整えているらしく、少しだけワックス特有のしっとりとした感触がした。汗も吸っていそうだ。前髪を無理矢理オールバックにしてみたら下がり気味の眉がもとに戻った。
そんな小さな事がおかしくて口元が緩む。
「おやすみ、カジくん」
返事はない。浩和はそれに満足し、部屋を出た。
暗闇の中、祥順は目を開いた。ゆっくりとした動作で腕を上げる。浩和に上げられた前髪をつまんで小さくて浅い溜息を吐く。
浩和が部屋の中に入ってきた時、浅い眠りだった祥順は少しばかり意識を浮上させていた。女性陣にさんざんからかわれて疲れ切っていた祥順は浩和が話しかけない限り声を出すつもりはなかった。
浩和が祥順を不用意に起こしたくはないのだと察すると、一層その気持ちは強くなった。可能な限り自然な寝顔を演じ始める。ゆっくりと近付いてくる気配は少しだけ祥順を緊張させた。
何とか呼吸に気を配る事にして祥順はひたすら呼吸をするのに集中した。浩和が何をしたいのか分からない。だからと言って、声はかけたくない。今更起きているのがバレるのも嫌だ。
我慢比べみたいな時間が過ぎていく。段々とこの何もない時間が心地よくなってきて、祥順は再び浅い眠りに入ろうとしていた。
ふと空気が動いた。なくなりかけていた意識が一気に戻る。浩和が動かした風はさらりと祥順の顔を撫で、同時に浩和の指が祥順の額を撫でた。前髪がよけられ、前髪と額の間に篭っていた熱が逃げていく。すうっと引いていく熱が気持ち良かった。
浩和は謎の行動の後、ただおやすみの挨拶をして去っていった。何をしたかったのか、全く分からない。
つまんだ前髪を離せばぱらりと額に落ちた。
2023.11.26 一部加筆修正




