いつも直前男と営業事務
翌日、比奈子から大丈夫だったかと聞かれたり、千誠から別件で呼び出されたりした祥順は浩和達が無事に資料を配付できたのか確認する暇がなかった。
配布資料は完成したのだから問題はないだろう。それに、見に行きたくとも今正にミーティング中である。確認する術はない。
祥順自身も千誠から普段とは違う仕事を分け与えられてしまった。オールラウンダーとして仕事をこなす総務の人間は、ごく稀に他部署のヘルプへ行く事がある。それに選ばれたのだ。
今日と明日だけだと言われて素直に向かった先は、営業事務だった。営業二課内で風邪がはやっているらしい。営業事務は各地に飛び回っている営業から風邪を移されたようで、一度に二人が欠勤していた。
残りも体調が万全という訳でもないらしく、元気な人間も含めて全員マスクを義務づけられていた。恐ろしい。
祥順は千誠からマスクを渡されながら、ヘルプを説明を受けた。
覚悟を決めて階を移動し、欠勤中の事務の机を借りる。
ここでの仕事は主に担当営業のサポートである。秘書のように取引先とのスケジュールを微調整したり双方の連絡役となったり、発注業務を補助するのが主な仕事だ。
他には営業用の資料作成を手伝ったりもするが、それは営業が忙しすぎて自分でできない場合が多い。基本的には営業が自分でするべき作業だからである。
「あれ、さっちゃんいないの?」
ぽんやりとした声がフロアに響く。
「今日はお休みでーす」
事務の誰かが間延びした返事をした。そちらには反応せず、最初に声を発した方を探す。聞き覚えのある声がした方を見れば、そこには寛茂が首を傾げたまま固まっていた。どうやら祥順が目当ての人物がいるはずの席に座っているのに驚いたようである。
それも、つい昨日に面倒な仕事を手伝ってくれた相手である。何らかの強い感情を抱いて思考が停止してしまうのも無理はない。
「お疲れです。今日は私が彼女の代理ですよ」
可能な限り穏やかに、そしてゆっくりと言う。確か、寛茂にさっちゃんと呼ばれた彼女――高遠さち――は、彼と同学年だった気がする。
昨日は担当事務である彼女に手伝わせていなかったという事は、別の何かを頼んでいたのかもしれない。手伝うのは仕事の範囲外になる為、頼めなかっただけかもしれないが。
「昨日、さっちゃんにレジュメのコピーをお願いしてたんですけど、どっかに置いてありました?」
「少々お待ちくださいね」
人に聞く時はあだ名で言わない方が、と寛茂の言葉遣いが気になりながらも、近くに束になった書類がないか探す。
千誠ならば言葉遣いも教育し直してくれるのだろうか。書類だけ良くなっても、本当の成長とは言えないだろう。言葉遣いを気にする上の人間と会話をする機会に遭遇したら一大事である。人となりを知っている人間からすれば愛嬌で済んだり、「こいつだしな」で済むかもしれないが、取引先の気むずかしい上役とかでは問題外だ。
あとでこっそりと千誠に言葉遣いも見てくれとお願いしておこうと決める。そうしている内にさちが用意しておいたと思われるものが出てきた。
「こちらで間違いないですか?」
祥順が見つけたのは、スライドデータを印刷したものである。六枚のスライドが一枚の用紙に載っているもので、三枚にホッチキスで留められていた。因みにホッチキスは複合機のステープラー機能が使われており、さちはちゃんと複合機を使いこなせているようである。
一部だけを取り出して寛茂に渡せば、彼は目に見えて顔色を良くさせた。
「良かった! 取りに来るのを忘れてたから、なかったらどうしようかと思って!!」
「……いつ使うんですか?」
行き当たりばったりと言うよりは、準備がぎりぎりになるタイプのようだ。忘れてないと思ったら何かを思い出し、何かを思い出したら目先の問題を忘れたりするのだろう。彼を何とかすると自信ありげに言っていた千誠は、どうやって指導していくつもりなのだろうか。
いつか本当に寛茂がまともになったら聞いてみたい。
「これからミーティングなので、その時に」
寛茂の言葉に時計を見た。何気なく視線を動かした先の針を見て小さく「あ」と声が出た。
「急いだ方が良いですよ!」
「ああっ! やっべ、階段で行きます!」
ミーティング開始時間には秒針が二周ほどすればなるだろう。エレベーターを待っている時間はない。ありがとうございましたーと逃げ台詞には似合わない言葉を叫びながら非常階段に消えていった。
寛茂がいなくなると一気に静まりかえる。とはいえ小さく笑っている声はする。
「彼、いつもそうなんですよねー」
事務の一人が言った。
「そうなんですか」
祥順はパソコンに向かい、操作し始めた。さちの担当営業からメールが何件か来ている。
「いつもどたばたしてて、見てる分には可愛いんですけど巻き込まれるさっちゃんは大変そう」
メールの内容はどれも売り上げ状況の確認だった。その内の何人かは地方に行ったきりで、残りはよく本社に顔を見せるメンバーだ。
「そうそう。何言ってるのか分かんないってこの前さっちゃん叫んでた」
「もう少し余裕を持って頼んでくれると助かるんだけど、いつも急なんだもん」
「まあ、俺様じゃないだけ許せるんですけど……あんまり頼られてもこちらも大変なんですよ」
寛茂に対して少しずつ鬱憤が溜まっているようで、不満を口にする。一人が話し始めればそれは伝播するように広がり、流れになった。
「注意とかお願いとかするんだけど、一つ覚えれば一つ忘れるもんねぇ」
「うんうん」
商品別の売上表を作りながら彼女たちの雑談を聞く。雑談に入る気はない。普段やっていない仕事で間違えてしまうかもしれないし、何よりも女性陣の会話に混ざるのは気が引ける。
さして話力もない祥順が楽しく彼女達と会話をこなせる訳がない。
寛茂に対する不満で盛り上がる声をBGMに彼の走り去る姿を思い出せば、昨日の資料が大丈夫だったのか気になってきた。出来上がった売上表を添付したメールを送信しながら、寛茂に昨日の資料について確認すれば良かったと溜息を吐くのだった。




