理想の上司は穏やかに企む
千誠はひとしきり祥順の話に頷いて見せ、それからしっかりと鍋を見た。ここは祥順を見つめる場面だと思ったが、千誠の視線は鍋から動きそうにない。
「カジ君」
「はい」
「かなり酔いが回っているようですね」
「いえ、いや……はい、そのようです」
最初は否定したが、ゆるゆると首を横に振り、最後には首肯した。千誠はつくねを転がして加減を見ながら口元を緩める。
「鬱憤がたまるほど酷い状況には私も同意しますが、そういう強硬手段は取れませんよ」
祥順が見るからにしゅんとして肩を落とす。仕方がない。酔いが回っていると指摘された上に提案をはねのけられたのだ。
祥順の気持ちは分かるが、浩和は千誠に賛成だった。
「でも、そうですね……一番手のかかる子は私が何とかしましょう」
「え?」
祥順だけではなく、浩和の視線も千誠に集中した。当の本人は鍋に集中しているように見える。
鍋の中で野菜がゆっくりと泳いでいた。
「彼がいつまで経っても甘えているから、上にいる大多数も少しだけなら許されると気を抜いてしまうのでしょう」
千誠に言われると、そういう気がしてくる。彼、とは書類不備提出率ナンバーワンの伊高寛茂の事だ。寛茂は今浩和と共に企画をがんばっている最中である。
浩和も余裕のある時には一緒に提出物の見直しをしてくれているようだが、それでもナンバーワンの座は不動だった。
「できない訳ではないと、私は考えています。
だって、思考力がなければ進行中の企画は始まりもしなかったはずなんですから」
さあ、できましたよ。と取り皿に鍋の具を盛りつけていく。
長ネギや人参、椎茸などがほぼ正円のつくねを囲むように配置される。そして最後に汁がかけられ、ほんわりとした湯気がのぼった。
「別にね、手を抜く人が悪くはないと思っているのではありませんよ。
ただ、自分よりもできない人間がいるというだけで気が緩んでしまうものです。
できなかったはずの人間ができるようになっていたという状況の方が、手を抜いている彼らに対しては有効だと考えるだけです」
「そう言われてみると……おおよその期限が設けられている書類の時、特定の人物が提出できているか、処理が完了しているか知りたがる方がいますね」
心理的に追いつめ、自主的にやらせようという訳か。手を抜いていて「寛茂よりも早く出せれば良い」、「彼よりもましな提出物になっていれば良い」と考えている人間は、寛茂がまともに書類を提出するようになったら焦るはずだ。
誰しも悪目立ちしたい訳ではない。その心理状態を上手く利用するのである。
確かにこれならば、自主的に改善されていく。誰かに強制されるよりもハードルは下がるし、不満を感じる要素が何一つない。この方法でも改善の見られない悪質な人だけを後日に注意する事になるから、効率も上がるだろう。
「締め付けるのではなく、そうしたくなるように道を作ってあげるという手段もありますよ」
「勉強になりました」
千誠は冷めない内に、と自ら水炊きに口を付ける。浩和と祥順も千誠の手で盛りつけられた取り皿を手に取った。
「栗原さん、あいつを指導するの大変ですよ」
浩和は寛茂が本当にまともな書類を作れるようになるのか不安だった。自分も彼を指導しているが、なかなか上手くいかない。寛茂に合った指導スタイルになっていないのだろうが、どう変えればいいのかは試行錯誤中だった。
口に含んでいた分を咀嚼し終えた千誠は日本酒をくい、と呷ってから浩和を見た。その瞳は「苦戦してますね?」と確認するかのように少しだけ細められた。
「たぶん大丈夫でしょう。
一月以内には改善させますよ」
「何か秘策でも?」
祥順が興味深そうに聞いた。彼も寛茂が作る書類に困らせられている人間の一人である。簡単に改善させる事ができるのならば、すぐにでも実践したいのかもしれない。
「やってみない事にはなんとも」
弱気とも取れるような発言で答えを濁らせた千誠だったが、ある程度の自信はあるのだろう。穏やかな表情は崩れない。
その表情に余裕もあり、底知れなさがあった。たまに同じ人間なのかと感じてしまう事がある。今まさに浩和はそう感じていた。
「ご面倒をおかけします……本当に俺も助かります。
そうそう、この水炊き美味しいですね。
しっかりとうまみがだし汁に溶け込んでいる感じがします」
浩和の言葉にほっとしたような笑顔を見せる千誠は、理想の上司そのものであった。
翌週、違和感を覚えたのは昼頃だった。きっかけは大したことではない。浩和が珍しく差し入れをしに来ない日が二日連続だな、と思ったからである。社内の予定になっている日はほぼ差し入れをしてくれていただけに、何となく引っかかったのだ。
もしかして何かあったのでは。気になり始めると集中力が欠けてくる。折角時間短縮とは言え比奈子が久々に出勤してきたのに、これでは彼女に回す予定の書類が遅れてしまう。
逡巡し、そして結論を出した。
さっさと終わらせて様子を見に行こう。
やる事さえこなしていれば、遊んででもいない限り問題にはならない。困っているのであれば手伝うのも手の一つだ。
本当は比奈子のサポートをする予定だったが、あまり気を使っても失礼になるかもしれない。と、良いように考える事にした。
そうと決まれば、祥順は目の前の仕事に集中できるようになった。いつもよりも集中できたかもしれない。普段よりも効率よく作業が進んだ祥順は、予定よりも早く比奈子へと仕事を投げた。
彼女は顔色もよく、元気に書類を受け取ってくれる。
「ちょっと席外しますね」
「あ、もしかしてタキくんとこ?」
勘の良い彼女はそう指摘すると、にやにやし始めた。その表情になる意味が全く分からなかったが、彼女の質問は間違っていなかったので軽く頷いてみせる。
「さっき、不備のある書類を届けに行ったんだけど、タキくん困ってるみたいだったから、ちょうど良いタイミングだわ。
私のチェックは誰か別の人にお願いするから、タキくんの事をお願いします」
軽いノリでお願いされたが、祥順は彼がどんな状況に陥っているのか全く分からない。比奈子にも頼まれた事だし、堂々と浩和の様子を見に行ける。知らぬ内に口角が上がっていた。




