書類整理と好き嫌い
何とか終業時間内にノルマをこなした祥順は、ぐっと背伸びをした。大分肩の周りが固くなっている気がする。首筋もか、と祥順は頭を手で倒すようにして首のストレッチも行った。
昨日処理して、でも入力ができなかった入金だの旅費精算だのをひたすら追いかけ、午前中に処理した今日の分を追加で入力していく。ただそれだけの作業でも、件数が増えればそれなりに疲れるものだ。
件数が多いからといって、ミスしても良い訳ではない。集中する作業である事に変わりない。入力が終わって山になった書類をファイリングする為、席を立った。
「カジ君、手伝いますよ」
「栗原さん」
作業しながら話をしよう、という事だろう。祥順は軽く頷いてキャビネットへと一緒に移動した。
「それで、午前中の話ですが」
「はい」
書類を二つの山に分け、ファイリングをしながら千誠は口を開いた。
「お二人で都合の良い日にちをいくつかピックアップしていただきたいんです。
あと、苦手な食べ物も教えていただけると助かります」
書類のファイルがどこにあるのか、見なくても分かるのだろうか。不思議なくらいに素早く書類がファイリングされていく。
「……カジ君?」
「あっ、はい。大丈夫ですっ」
反射的に返事をしてしまったが、一体何が大丈夫なのか。しかもファイルを落としそうになってわたわたと両腕を動かしてしまった。
すごく恥ずかしい。祥順は千誠の動きに気を取られていた自分を恥じた。
慌てすぎてファイルでお手玉まで披露してしまい、耳まで赤く染め上げた祥順は、おずおずと千誠を見た。彼は驚いていたらしく、目を見開いたままこちらを見つめている。
「お話を聞いていなかった訳ではなくて……っ
その、ちゃんと滝川さんにも確認してご連絡しますから問題ありませんと、お伝え……したく……」
「ぷっ」
千誠はくすくすと笑い出した。一応、周囲には気が付かれないようにとの配慮のなされた小さな笑いである。その気遣いがより一層、祥順の羞恥心を掻き立てる。
――もう駄目だ。穴はないのか! 俺は隠れたい!
それは声にできない祥順の正直な心の叫びだった。
「ふふ、分かりました……っ
あまり……気にしないで、ふっ……くださいね」
小刻みに震えながら笑い続ける上司に、もはや何を言えば良いのか分からなかった。むしろ早くこの作業をやり終え、姿をくらましたかった。
「はー……すみません、こんなに笑って。
これ、私の個人アドレスです。こちらに連絡お願いしますね」
ひとしきり笑って落ち着いたのか、いや大きな波が去っただけらしい。眉を不自然に歪ませた千誠が付箋を渡してきた。
書類を置いて受け取り、それをポケットへしまう。
「……後で連絡します」
少しばかり普段よりも低い声色になってしまったが、これくらいは許してほしい。祥順は目を伏せながら言った。
「よろしくお願いしますよ。
さあ、これでファイリングも終わりです。
良い時間ですね。
昨日は残業をしたのですから、終業時間ちょうどに今日は帰ってくださいね」
最後の最後に、千誠はにっこりと笑みを浮かべて帰宅指示を放った。手元を見れば、いつの間にか少しだけ残っていたはずの書類がなくなっていた。祥順の分だったはずだ。
ほれぼれとするほどの手際の良さを見せつけ、理想の上司は去っていった。
「滝川さんは都合の悪い日とか、あります?」
浩和が差し入れをしてくれた時につまんでから帰ろうと提案があり、祥順も千誠からの話を共有する良い時間になると喜んでそれを受けた。
今日は会社の近くにある居酒屋である。
「俺は、そうだな……来週ならいつでも大丈夫。
あとはちょっとまだ分からない。
もしかしたら急な出張が入るかもしれないんだ」
たまに浩和とも寄るこの店は、相変わらず鶏肉が美味い。鶏肉料理を並べ、うっとりと見つめる祥順に浩和がすまなそうに言う。
「来週なら問題ありませんって伝えるから大丈夫ですよ。
ちなみに、嫌いなものとかってありましたっけ……?」
祥順が知る限り、そういったものは内容に見える。浩和は考えるように虚空を眺め、眉を寄せた。
「なんだろう……ない、かなぁ……
積極的には食べないけど、出されたら食べるっていうものはあるんだけど」
料理の得意な人間は、嫌いな食べ物はないのだろうか。祥順は感心した。
「俺は、実はクラムチャウダーが苦手です」
「えっほんと?」
浩和が身を乗り出した。いつの日か食べたクラムチャウダーがとてつもなくおいしくなかったのだ。それを食べてから、”ハズレ”クラムチャウダーに当たるのが怖くなってしまった。
すごく生臭かったのだ。あと、金属の感じが酷かった。祥順はそのエピソードを伝えると、浩和は苦笑してしまった。
「クラムチャウダー、好き嫌いが分かれるのも分かる気がするよ」
そう言う浩和はクラムチャウダーが好きなのだろうか。祥順が首を傾げると、浩和が笑った。
「俺はどっちでもないかな。……まあ、嫌いじゃないよ。
作った事はないなぁ」
アサリの処理が面倒だから作る気にはなれなかったと言うが、祥順はそもそもどうやってあれを家で作るのか全く想像がつかなかった。
「一度、とてつもなくおいしくないものを食べてしまうと、怖くなる気持ちはすごく分かる」
「でしょう?」
「そう言えば、自分でつくるのは食べるけど外食はしないって料理あるな」
意外だった。浩和にもそういう部分があるとは。
「ちなみに何ですか?」
「納豆料理。混ぜたてじゃないと美味しくないんだ。
パックの納豆が置いてあるだけとかなら食べるけれど、混ざった状態で皿に乗っていたら食べないね」
祥順が思っていた以上に割と難しいラインだった。むしろ納豆料理などあるのか。
「納豆料理って、お店で出てきます……?」
「納豆パスタとか、納豆ラーメンとか」
「は?」
「納豆ドーナツとか色々あるよ」
なんだそれは。味噌汁とか、納豆キムチとか、そういうのは聞いた事がある。何でも混ぜれば良いとでも思っているのだろうか。
「……さすがにちょっと」
祥順は料理の名前を出されても食べる気になれなかった。




