心配事は終わらない
千誠は祥順に、これ以上の仕事は駄目だと言ってすぐに荷物をまとめるように言う。
「……栗原さんは帰らないんですか?」
「いえ、私も帰りますよ。
折角なので施錠は私がしようかと思って」
やはり、仕事が残っているというのは口実で祥順の仕事が一段落するまで待ってくれていたのではないかという気持ちが強まった。だからといって、その事を口にするのは野暮だろう。
祥順を心配してくれての事だろうし、何よりも明日の始業時間までに何とかなるのか、状況をいち早く把握しておきたいという気持ちもあっただろう。あのきっちりとした千誠が残業代を会社に支払わせてまで、ただ祥順を待つはずはないのだ。
祥順はなるべく急いで机を片づけ荷支度を済ませた。
「すみません、終わりました」
「では、帰りましょうか。
他のフロアに誰か残っているか確認しながら行きましょう」
千誠の言葉に、浩和がまだ下の階にいるかもしれないと思い出す。一緒に会社を出るとか、そういった話はしないでデスクへ戻ってきてしまった。
気が回らないのは元の性格もあるが、今日は頭がパンクしそうな一日だったせいか、頭も回らなくなってきているらしい。もう帰ってしまっているかもしれないが、少なくとも浩和がいるかどうかは確認しないで帰る訳にいかないだろう。
いつの間にか千誠がエレベーターを呼んでいた。ぽーん、と軽やかな音が小さく響く。千歳は自社で使っている全ての階を選択した。
普段ならば、そんな迷惑極まりない事はしない。今回はもうテナントも居ないだろうと見込んでの事だろう。
そう考えている内、エレベーターが開いた。すぐ下の階であるこのフロアは浩和がいるかもしれないフロアだ。千誠がエレベーターから降りた為、祥順はエレベーターの扉が閉まらないようにしながら覗いた。照明のいくつかが点灯している通り、誰かがいるのは確かだった。
「お疲れさまです。残業中の方はいますか?」
「あ、俺です!」
浩和の声である。やはりまだ残っていたらしい。
「タキ君はすぐに帰れ――そうですね」
「はい大丈夫です。施錠ですか」
祥順の所からはほとんど見えないが、二人ともこちらへ向かって歩いているようだ。途中で全ての照明が落ちる。
近付いてくる足音を聞きながら様子を見ていた祥順は、エレベーターから身を乗り出しているのも子供っぽいと気付き、エレベーターの中に戻った。
不自然に開いたままのエレベーターからは明かりが漏れていて、それが唯一の光源になっている。その明かりに二人が照らされた。
「ああ、やっぱりカジ君か」
「今日は本当にありがとうございました」
浩和は得心したという用に頷いて手を挙げた。祥順の方は手を挙げる代わりに礼をする。
「今日の一番の功労者はカジ君ですからね。
他のフロアを確認する時にはタキ君にエレベーターを止めてもらいましょう」
「もちろんですとも」
千誠が小さく笑い、浩和はわざとらしく畏まった調子で答える。くすぐったい気持ちになりながら、祥順も笑顔を見せた。
「ふふ、今度ご飯でも奢りますよ」
楽しみにしていてほしいと言う千誠の背中で扉が開く。二人の反応を見ずに、彼はそのままフロアの確認に行ってしまった。
祥順と浩和はそれぞれ口に出しかけた言葉を飲み込み、顔を見合わせる。浩和の顔には小さく「予想外で驚いた」と書いてあるように見える。
「……あまり終業時間外の集まりは企画しない方だったはずなんですけど」
だから祥順も驚いているのだと言外に告げる。
「――ですよね。
俺も彼がそういったものを企画して参加者を募っているとか聞いた事なかったから」
浩和は少しばかり戸惑っているようだ。もちろん祥順だってそうだ。青天の霹靂まではいかなくとも、明日の天気に不安を持つ程度に珍しい事なのだから。
「まあ、レアなチャンスって事か。
楽しみにしておこう」
もう気持ちを切り替えたのか、はっきりとした口調で浩和は言った。その顔にはすでに戸惑いは感じられない。
「楽しみだ。ね?」
切り替え切れていない祥順を察してか、浩和が覗き込むようにして笑いかける。彼につられるようにして小さく笑みを返した。小さな密室の世界は、そうさせた原因によってすぐに解かれる事になる。
「この階は無人でした。
さ、この調子で早く終わらせてしまいましょう」
フロアの照明を全て消灯させて千誠が戻ってくると、何事もなかったかのようにエレベーターが動き出す。エレベーターに戻ってきた千誠が食事会について何かを発する事はなかった。
気になるが、招待される側から話を切り出すのもやりにくい。祥順がちらりと浩和を盗み見れば、彼は何も言い出すつもりはないのだろう。普通に千誠が施錠を確認してまわるのを手伝っている。
自分だけが食事会を気にしているのだろうか。何となく居心地が悪いような気持ちになりながら、祥順はそんな二人の施錠確認に付き合ったのだった。
「え、しばらく出勤できないんですか?」
翌日の朝、出勤したての祥順は気の抜けた声を上げた。目の前にいる千誠は、彼の耳元に小さく答えを囁く。
「……腹痛を訴えて緊急入院したそうです。
私も彼女が妊娠している事は今日知ったんです」
想定外の答えだった。比奈子が身重だったとは、さすがに祥順も思い浮かばなかった。
「ああ、緊急入院って言ってもお腹の子には何も無かったようですよ」
「……念の為、ですね」
祥順は小さな声で頷いた。結婚しているのだから、そういう日が来るのは理解しているつもりだったが、いざとなると本人じゃなくても戸惑うものなのだと初めて知った。
祥順は明るい同僚の事を思った。早く戻ってきて欲しい気持ちはあるが、お腹の子供が最優先だ。もちろん比奈子本人の無事だって重要だ。
必要なだけ休んでまた元気な姿を見せて欲しい。
「それで、仕事の話ですが……」
千誠は少しばかり申し訳なさそうに、昨日の件と今後についてを提示する。
「昨日の報告書を書いたら私のところにお願いします。
あと、今後はしばらくサーバー関連についてはカジ君が担当になってください。
彼女が長期休暇に入るまでに慣れていただかないと」
「はい、できる限り努力します」
「大変だとは分かっていますが、よろしくお願いしますね」
さらっと返事が口から出てきた祥順だったが、頭の中では本当に大丈夫なのか不安だらけだった。




