ベラベッカの引き渡し
甘い雰囲気の紗彩とマニッシュな明寧の組み合わせは、示し合わせたようなカップルにも見える。祥順は華のある二人へ向けて浩和と共に手を挙げた。
「お待たせしました。
リクエストには応えてくれたのかしら?」
にこやかに言う紗彩に浩和がご所望の品――ベラベッカ――を渡す。引き渡しだけだという話をしていた浩和は、透明なプラスチックのカバーがついた容器にベラベッカを入れていた。
紗彩は袋を覗き込むなり、明寧にそれを見せる。その表情は晴れやかで、祥順は浩和と共に作ったこの菓子が、見た目上の合格ラインをクリアした事を知る。
「これ、本当に手作り? 二人で作ったの?」
明寧が驚いた声を上げた。ザッハトルテを紗彩と二人で作ったはずの明寧は、それよりも簡単に作れるであろうベラベッカの完成度に疑問符を投げかける。
「……さては、この前のザッハトルテ」
浩和が紗彩を見た。最後までは口にしなかったが、恐らく紗彩と明寧で作ったというザッハトルテの作者について言及したいのだろう。
祥順が明寧を見れば、彼女はあの発言で一ヶ月前の事に話が及ぶとは考えていなかったらしく、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「私がほとんど一人で作りましたー」
いたずらがばれてしまった子供のように、開き直ったらしい紗彩が答える。
「仕上げは紗彩がやったんだと分かっていたけどな。
ああ、俺達の作ったベラベッカは本当に二人で作ったよ」
ほとんど紗彩の手作りだと分かると、勝ち誇った笑みを浮かべた。祥順は自慢げに話す浩和を不思議に思う。どこに勝ち負けを感じる要素があったのか。
「ザッハトルテで明寧がやったのは、ジャムづくりだけよ。
だって、私と違って料理があまり得意じゃないんだもん」
「私は良いの、料理できなくても。紗彩に毎日ご飯作ってもらうから」
紗彩の告白に明寧は口を尖らせた。ルームシェア中は完全に面倒を見てもらう気のようだ。紗彩はきっと浩和のような器用さで、様々な料理を作っていそうだ。
そして祥順は想像してみる。もし自分が浩和とルームシェアしたら。料理だけではなく何でも頼ってしまいそうだと祥順は心の中で笑う。
明寧の事は馬鹿にできないし、寧ろ浩和や紗彩よりも彼女の気持ちが分かるくらいだろう。
「俺、明寧さんの気持ち……分かる気がします」
「え?」
「は?」
紗彩と浩和の声がハモった。明寧は祥順を見つめたまま固まっている。
「俺も紗彩さん達みたいにルームシェアしたら、きっと滝川さんにご飯作ってもらっちゃうかも。
いや、俺も作るけど……作ってもらえるだけで幸せになれるし、しかもおいしいし、最高だと思うんです」
俺も作る、という部分が空に浮かんだまま置いていかれたかのような軽さだった。取り繕った感が強いのは否めないが、祥順の正直な感想である。
料理が上手で居心地の良い相手が作ってくれる料理は、何でもおいしい。幸せを形にしたようなものだと祥順は思った。
「……そこは、紗彩に作ってもらいたいとかそういう展開になるんじゃないのか」
浩和は照れくささを隠しながら呆れた口調で言う。紗彩は明寧と視線だけで会話をしているようだが、祥順にはよく分からなかった。
浩和の言葉に首を傾げてみせれば、彼はゆっくりと頭を振って気にしなくて良い、と言う。今日は特に浩和が何を考えているのか分かりにくい。
元々そんなに彼の考えを読みとれる人間ではない。
浩和のようになりたいと思う祥順は、できる限り彼を理解したかった。
「とりあえずこれはもらうわね、ありがとう。
また飲みに行きましょ」
さり気なく割り込んできた柔らかな声は、祥順の意識を現実に戻した。思わず紗彩を見たまま瞬きを繰り返す。彼女はそんな祥順に微笑んで見せた。
「じゃあ、またね」
魅力的な女性だとは思う。半ば反射的に笑みを作り、手を振った。だが、そういう対象として何かを感じたりはしない。明寧の方に惹き付けられた時があったが、それも恋とかという感じはしなかった。
好みの問題だろうか、と祥順は心の中で疑問を投げかける。
「カジくん、また週末にお邪魔するよ。
ベラベッカを持って、ね」
いつの間にか紗彩と明寧の背中は見えなくなっていた。祥順が認識できたのは、視界に割り込んできた穏やかに笑う男だけだ。
何となく離れ難い、寂寥感がこみ上げてくる。意味が分からないまま、祥順はぎこちなく頷いて見せた。何をどう寂しく感じたのか、離れたくないと思ったのか、祥順には原因を見つける事ができなかった。
「疲れてるみたいだし、早く寝ろよな」
「あ、はい。ちゃんと寝ます」
心ここに在らず、という状態に気が付いていたらしい浩和は、軽く祥順の頭を撫でて背を向けた。そのまま雑踏に消えていく姿を見送り、祥順は溜息を吐いた。
小さな白い吐息だった。
木曜日は、今日がんばればあと一日。金曜日は今日がんばれば明日。そう自分に言い聞かせるようにして祥順は二日間を乗り切った。
いよいよ明日はベラベッカが食べられる日である。
祥順は定時丁度に仕事を終わらせ、さっさと会社を出て帰宅した。祥順は、これからやる事がたくさんあるのである。
もちろんそれは、明日ベラベッカを持ってくる浩和を迎える準備だ。
少しばかりさぼってしまっていた掃除や洗濯をしなければならなかった。脱ぎ散らかした服をまとめて洗濯機へ放り込む。
適当に洗剤を入れてスイッチを押せば、ごうんごうんと音を立てて洗濯機が動き始めた。
この間に適当に夕食を済ませてしまおう。鍋物には昆布の出汁、という話をして買い置きにしていた昆布を取り出した。片手鍋に水と適当な大きさに切った昆布を入れて湯を沸かす。
冷凍庫からは冷凍ご飯と冷凍鮭を出してご飯はレンジで解凍し始める。
冷凍鮭はシリコンコーティングを施したアルミホイルを敷いたフライパンで熱する。もちろん蓋をして熱気が逃げないようにしておくのを忘れない。
昆布の入った鍋の湯が沸騰する頃には、冷凍ご飯の解凍が終わっていた。解凍したご飯を鍋に入れてほぐしながら、鮭の様子を見る。
一昨日の夜には、食事は全部浩和に作って欲しい、なんというわがままな事を口走ったが、自分だって料理が多少はできるようになってきたのだ。
と、心の中で弁明しつつ、鍋の中にいるご飯が水を吸ってとろみが出てくるのを見つめていた。気を付けないと鍋の底が焦げ付いてしまう。
弱火に切り替えて蓋をし、今度は鮭の具合を見る。
凍って強ばっていた鮭の身は、今はくたりとフライパンの形に沿って身を弛緩させている。
試しにひっくり返してみれば、火が通り始めて表面の色が変わったところだった。少し気が早かったようだ。




