コーヒーブレイクとベラベッカ
延べ棒のようなベラベッカの上に、余ったキルシュで漬けていたスライスオレンジを乗せる。この状態で二十分あまり放置する。
放置タイムの後、溶いた卵を全体に塗りつけた。
本当は卵を塗る必要はない。これは浩和のアレンジである。形を整える為に使った小麦粉が周囲についている。このままにしておくと粉ふきになってしまうだろう。
馴染むまで放置するという手もあるが、さすがに時間がかかりすぎる。
という諸事情のせいだった。放置タイム中に余熱開始しておいた電子レンジに突っ込む。
レンジのタイマーを捻った祥順がぱっと明るくなった。
「四十分で良いんですよね」
「そう」
ピッという電子音をさせながらレンジが動き出す。後は、焼きあがるまで片づけをしながら待つだけだ。
祥順にグラニュー糖へ水分を加えて温め、シロップを作るように指示した浩和は、その隣で使い終わったガラスボウルを洗い始めた。
少量のシロップが完成すると、それを残していたキルシュへと加える。もちろん、スライスオレンジが漬かっていたキルシュも混ぜてしまう。
しっかりと混ぜれば、洋酒シロップの完成である。
味見しても良いかと言われ、浩和が頷けば、祥順はかき混ぜていたスプーンから手のひらに一滴を落として舐めた。
「うぉあ」
彼が上げた変な声に、思わず浩和は顔を上げる。視線の先には口元を歪めて目を瞬かせる祥順がいた。笑顔でこちらに振り向きシロップを指さす。
これだけ笑顔なのだから、味が悪いという意味ではないだろうが祥順が口を開くまでには時間がかかった。
「すごくお酒なのに、シロップでびっくりしました」
どういう意味なのか、浩和は数秒考え込む。
「このお酒、度数高いですよね?」
「ああ、キルシュのアルコール度数は四十度くらいだね」
わあやっぱり、とはしゃぐ姿を見せる男は今にも飛び跳ねそうだ。三一歳で浩和よりも三歳も年上であるという事が不思議なくらいである。普段からあまり年の差を考える事はないが、ふとした時に思い出すのだ。
そういえば、年上なんだよな……と。
祥順に片づけを引き継いでもらい、浩和はコーヒー豆を挽き始めた。二人暮らしから核家族を想定した間取りになっている浩和の家はキッチンに余裕がある。少し離れた場所でコーヒーミルを回す。
電動のものと手動のもの、どちらを買うか迷ったが結局は手動の方を選んだ。
電動は便利だが、手動はロマンを感じるよね。紗綾と二人で家電量販店に行った時の会話が甦る。やはり手動を選んだのは正解だった。
ごりごりと音を立てながらミルを回すと、コーヒーの香りがふんわりと飛んでくる。至福のひとときに浩和は頬を緩ませた。
ミルを回し続けていると、抵抗が穏やかになってくる。最初の頃のような、がたがたと砂利道を移動する車のような振動から舗装された道路を走るようなスムーズさを実感する。豆を挽き終わった合図だ。
手を止めてケトルに水を入れ、火をかける。湯が沸くまでの内にドリップの準備をする。
「コーヒーが入る前から、相変わらず良い匂いですね」
「だろう? もう少ししたらもっと匂いが強くなる」
コーヒーサーバーにドリッパーを乗せ、ペーパーフィルターをセットする。コーヒーミルを開けてコーヒー豆をはかりとる。
強火にしていたせいか、いつもより早くケトルの蓋がかたかたと動き出す。蓋が暴れてしまう前に火を止めて少しだけ待つ。慌てる事なく、浩和はミトンを手にケトルを持ち上げた。
コーヒードリップの為に作られた細長い口を傾け、少しずつ豆の上に落としていく。全体を湿らせる程度に湯を含ませて蒸らす。頭の中で二十を数えたら本格的に湯を落としていく。
丁寧にドリップしたコーヒーは、キッチン全体に気分を高揚させる香りをばらまいている。電子レンジを見れば、残り時間は十五分を切った所である。
コーヒーブレイクをするのに丁度良い時間だ。
洗い物を済ませた祥順がマグカップを二つ用意してくれていた。半分ずつマグカップに注ぎ、片方を渡す。彼は受け取ってすぐにうっとりとした表情でカップの縁に鼻を近づけていた。
「癒される……」
祥順はひとしきり香りを堪能してから、聞こえるかどうかといった小さな声でいただきますと呟きコーヒーを口に含んだ。
カップから口を離した祥順から吐息が出る。癒された時や力を抜いた時に思わず出る、あのゆっくりとした息である。口角はわずかに上がり、開かれた口の形は横長だ。
浩和はこの豆が彼好みだという事を覚え、自分もカップに口を付けた。
コーヒーブレイクを挟み、その片付けを済ませた所で電子レンジがベラベッカの焼き上がりを知らせてきた。
本当に丁度良い時間配分になった。予定通りに物事が動いていくのは楽しい。電子レンジの中を覗き込めば、おいしそうに焼き上がったと思われるものが見える。
用意しておいた竹串を手に、電子レンジを開ける。じりじりと汗をかきそうな、少しでも間違えれば火傷しそうだという小さな恐怖を感じさせるような熱さが浩和の顔を襲う。
竹串を持った手を慎重に電子レンジの中へ伸ばし、片方のベラベッカへと差し込んだ。ナッツやドライフルーツがメインのベラベッカは竹串を差し込みにくいが何とかこなし、引き抜く。
竹串についてきたものにねっとりとした小麦粉が混ざっていないかを確認すると、天板ごと電子レンジから引き出した。
熱気を気にしていて気が付かなかったが、かなり匂いが強い。アルコールとスパイスの香りだ。しかしそれは粗熱がとれるまでの間だろう。
貴重な香りを味わうように吸い込んだ。むせ返りそうな濃厚な香りに、初めて作ったベラベッカの完成度を予想する。きっとこのベラベッカは一週間寝かせればまろやかな味わいのおいしいケーキになる。
「コーヒーの香りの次は、大人っぽい甘さの香りですね。
これ、すぐには食べられないんですか?」
耐熱のシリコンシートの上に天板を置くと、祥順が覗き込んできた。
「いや、食べられなくはないけど少し待って。
粗熱が取れたらシロップ塗るから。
シロップが染み込むまでは食べない方が良いよ」
浩和が説明すると、祥順は早く冷めないかなーと呟いた。




