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書類不備です。  作者: 魚野れん
バレンタイン戦線

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先取りホワイトデー

 祥順は浩和が牛すじ煮込みを口にするのを見守りながら、唐揚げに手を伸ばした。

「俺は作れるだけでもすごいと思いますけど。

 滝川さんって、完璧主義者みたいな所がありますよね」

 浩和が咀嚼している間に彼の言葉を否定する。牛すじ煮込みはほろほろと崩れ、溶けていくかのようだった。


「ただ、本当の完璧主義者じゃないっていうか。

 自分の許せる範囲とかをルール付けてバランスを取っている気がします」

 祥順の言っている事はだいたい合っていた。浩和は公私ともにオールラウンダーになりたいタイプだ。全てが完璧である必要はない。平均以上になっていれば良い。

 それに、人生は何事も経験だ。経験を積み重ねていく事によって、新しい発見に行き着いたり、人間としての器が磨かれていく気がしている。

 興味の沸いた物事に積極的に関わったりするのも、その考えが根底にあるからだ。


「俺にはそのルール付けが分からなくって……」

 祥順はそう言って苦笑してから唐揚げを口に放り込んだ。

「もう無理、げんかひっておほいあつぅっ」


 噛んだ途端に熱い肉汁が出てきたのだろう。祥順は小さな悲鳴を上げて苦悶の表情を浮かべた。

 口元を両手で塞ぎ、大きく口を開けて口の中で唐揚げを転がしている。

「何やってるの。珍しい」

 眉尻は下がり、目尻には小さな滴が浮かんでいる。よほど熱かったのだろうか。しばらく唐揚げと奮闘する祥順を浩和はただ苦笑するしかなかった。


「で、さっきの続きですけど」

 落ち着いた祥順の第一声はそれだった。

「限界だって思う所まで、どうしてもやろうとしちゃうんですよね。

 だから、うまくバランスがとれなくて途中で倒れてしまう。

 本来の限界よりも遙か低い位置で折れてしまっている気さえしてきます」

「余裕が欲しいって事?」

 そうそれです! と言いながら大きく頷いて飲み物をあおる。祥順はふう、と息を吐いて再び口を開いた。

「俺には圧倒的に、余裕が足りません。

 キャパシティがないだけなのかもしれませんが……」

「やらなきゃ、って思わないでただ楽しめば良いと思うよ」


 祥順は浩和の言葉にきょとんとした。ピンとこなかったようだ。浩和は一切れ残っていたキュウリを口に放り込む。うまみの効いた辛いキムチがおいしい。キュウリの塩気もちょうど良く、今飲んでいる焼酎にとても合う。

「自主的にやっていくものは、やりたいからするものだ。

 押しつけられてやるものじゃない」

「……最初はやりたいって思うんです。

 でも、その内やらなきゃって思いに変わってるんです」

 祥順の言葉は良くある事だった。上達してくると、もしくはその事を知るほどに、欲が出るからだ。より上を目指したい。それは何の為か。


 楽しいから、だけでは上限を突き抜けられなくなる瞬間がやってくる。それさえも楽しめるならば良い。

 だが、そうでない人間はその瞬間が訪れた時「しなければならない」と思い始めるのだと浩和は考えていた。

「カジくんは、自分を追い込むのが上手だから、そう感じやすいのかも」

「……それ、褒めてないですよね」

 じっとりとした視線を受け、笑いながら首を振った。

「違うよ。

 生真面目で、白黒つけたいタイプだっていう事だ」


 祥順はまだ納得がいっていないようだ。浩和は冷め始めて食べやすくなった唐揚げを一つ食べる。もう、どんなに急いで食べても口の中を火傷するような熱さはない。

 隠し味に入れられたニンニクの香りがかすかに口の中へ広がった。

「そういうタイプは変にストイックで、良くも悪くも無理をしがちな人が多い気がする。

 俺くらい、適当に柔軟な方が楽なのにね」

「……その、適当に柔軟、っていうのが分かんないんだって」

 溜息と共に祥順のぼやきが吐き出される。

 あーあ、と天井を向いた祥順を見ながら、バレンタインの過ごし方は適当に柔軟そのものなのにな、と浩和は心の中で思うのだった。




 ホワイトデーは浩和が思っているよりも早く、駆け足でやってきた。紗彩達が作ったザッハトルテはあの店を出てから祥順の家で食べた。濃厚でしっとりとしたケーキで、中には杏ジャムが入っているという本格的なオリジナル・ザッハトルテだった。

 浩和がそれに見合う二人の希望を考えていると、メールでリクエストが送られてきた。ベラベッカだそうだ。


 ベラベッカとは、クリスマスに食べられる食べ物の一つであったはずだ。それを春先にリクエストしてくるとは中々面白い。浩和はメールを受け取ってからすぐの週末に、早速ベラベッカ用の仕込みを行う事に決めた。

 ベラベッカはフランスの菓子で、ドライフルーツをふんだんに使う、豪華なパンだ。これは作る前にキルシュにドライフルーツをつけ込んでおく必要があった。

 シュトーレンの地位を狙っているとまで言われているこのパンは、熟成が進むほどに味わいが増す点でもシュトーレンに似ている。食べ方も同じだが、唯一違うのは、イースト菌を使うかどうか。シュトーレンはケーキの種類だからイースト菌は使わない。

 他に言うならば、小麦粉の量だろうか。

 シュトーレンは小麦粉とフルーツが同じくらいの比率になるが、ベラベッカは九割以上がドライフルーツやナッツになり、小麦粉はツナギ代わりである。ナッツとドライフルーツがメインなベラベッカは、少量でも腹が膨れる。

 食感も味の雰囲気も違う。人によって、どちらの方が好きかは分かれるだろう。


 因みにベラベッカのリクエストが来たと祥順に伝えたところ、案の定彼はベラベッカを知らなかった。更に言えばシュトーレンも知らなかった。

 季節外れだが、素材は殆ど同じだ。二種類とも作って祥順に食べさせたら面白いかもしれない。そんな風に浩和は考えていた。

 ベラベッカはキルシュ漬けでなければならないが、シュトーレンは洋酒漬けであれば何でも大丈夫である。自宅にストックされている洋酒のどれかを使えばシュトーレンも作れてしまう。

 寝かせる時間が必要な二種類の菓子は、三月に入る前に仕込む予定だ。予想外のリクエストのせいで、まだ二月なのに浩和の気分は既にホワイトデーだった。

2023.10.31 誤字修正

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