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書類不備です。  作者: 魚野れん
バレンタイン戦線

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ザッハトルテと紗彩と浩和

 祥順はじっとケーキを見つめて悩んでいたが、顔を上げた。もう少し悩んでいたそうな顔ではあったが、時間をかけても無駄だと悟ったのかもしれない。

 じっと挑むように紗彩を見つめて口を開く。

「何というケーキかは分かりませんが、とても美味しそうなチョコレートケーキです。

 答えを教えてください」


 浩和は喉を鳴らした。どんな発言をするかと思えば、真正面からの直球だった。間違った回答をするくらいならば、自分の無知を白状する方を選んだ、という事か。

 祥順はその言葉を発すると、すっきりとした表情に変わる。

 紗彩と明寧は二人ともきょとんとしていた。同じ顔が二つ並んでいる。許されるならば写真を撮ってしまいたいくらいだ。


「……ザッハトルテよ」

「ザッハトルテでしたか!

 聞いた事はありますが、一度も食べた事がなくて。

 すごく嬉しいです」

 我に返った紗彩が答えると祥順は嬉しそうに笑んだ。目尻も下がり、心の底から喜んでいるのが分かる。彼の反応に彼女も完敗なのだろう、眉を下げて笑っていた。

 自分を取り戻すのに時間がかかっていた明寧が立ち上がってケーキを袋にしまう。


「後で二人で食べて」

「ありがとうございます」

 礼を言いながら祥順が恭しく袋をテーブルの端に移動させた。用は終わったとばかりに紗彩も立ち上がった所を祥順が制した。

「もし夕飯がまだなら一緒にどうですか?」

 二人は顔を見合わせる。

「今日はやめておくわ」

「だらだら話してると、折角作ったケーキを食べて貰う時間がなくなるし」

 明寧の言い分も一つある。もしかしたらバレンタインだし、二人で過ごしたいのかもしれない。祥順と浩和とは違って二人は同居しているのだから、普段も二人で過ごしているには違いないが、それは熱々の恋人達には関係ない。


 ふと、自分と紗彩はずいぶんとあっさりした恋人関係だったと思い出す。頭の中に広がった靄を手で振り払う。どうにも紗彩と明寧を見ていると昔の紗彩との関係を比較して己の至らなさを見せつけられているような気がする。

 何度そのように思わされているだろうか。浩和がそう勝手に思っているだけで、二人にその気がないのは分かっている。あれが彼女達の自然な姿なのだ。

「ありがとう、ケーキの為にも早く帰る事にするよ」

 二人は悪くない。浩和はとびきりの笑みを作って手を挙げた。小さく振れば、首を傾けながら応じてみせる。


「お返し楽しみにしてるわ」

「遠慮しないで良いから素敵なのよろしく」

 調子の良い言葉に男二人は苦笑した。

「あまりハードルを上げるのやめてくれよ、努力はするから」

「もし欲しいものがあるなら教えてくださいね!」


 だが、二人の返事は同じベクトルを向いてはいなかった。消極的な返事をした浩和に対して、にこやかにリクエストを募集したのは祥順である。

 浩和は祥順がどのように女性社員からホワイトデー用のお返しを聞き取っているのか理解した。

 なるほど、最後にさらっと言っておくのか。裏のない、純粋な笑みに乗せられた希望に添いたいという言葉は女性から簡単に言葉を引き出すのかもしれない。

 仕事中は堅物じみた部分の多い祥順であるが、人をたらし込むような柔軟さも持ち合わせていたようだ。

 祥順の言葉に気を良くした女性達は満遍の笑みで頷いた。


 考えとくね、と言って二人が帰った後、隣同士に座っていた祥順と浩和は向かい合うように座り直す。飲み物と食事を頼み、最初に注文していたつまみに手を伸ばす。

 浩和は冷たいものや常温でも食べられるものを頼んでおいたのは正解だったと思った。

 キャベツと塩昆布を和えた塩キャベツやキムチをキュウリに挟んだキュウリのキムチ射込みの他にタコワサやマリネが並んでいる。何も注文しない訳にはいかないからと、祥順から戦利品のレクチャーを受ける前にとりあえずと頼んだつまみである。


 ぬるくなったまずいビールを流し込みつつタコワサを口に入れる。つんとした刺激がビールの味をごまかした。祥順はキュウリを食べている。

 味の強いものを選んでいるあたり、浩和と同じ事を考えているのだろう。

 ビールがノルマであると言わんばかりに二人は無言で空になるまで飲み続けた。

 ノルマを達成する頃には新しい酒と温かな食事が届いていた。どちらともなく、声が出る。

「このケーキ、自作だなんてすごいですね」

「紗彩が作っているなら味の保証はできる」

 祥順は嬉しそうに袋を見ていた。そんなに紗彩と明寧が作ったザッハトルテが楽しみなのだろうか。何となく面白くない。

「紗彩とは一緒にケーキ教室も通った事があるんだ」

「やっぱり!」


 唐揚げを口に添えたまま、浩和は動きを止めた。祥順の次に出てくる言葉を聞くまで、何がやっぱりなのか理解できなかった。

「料理教室に通っていたのなら、ケーキも作れるんじゃないかと思っていたんです」

「紗彩が?」

「いえ。滝川さんが、です」

 どうして紗彩の話になるのか分からないといった風に、横に首を振って否定してから傾げられる。浩和からすれば、どうして自分の話になったのかが分からなかった。


「滝川さん、紗彩さんと自分磨きでセミナーや教室に参加していたんでしょう?

 二人が作ったケーキを見てたら、滝川さんもケーキ作れるのかなって」

 彼の思考回路は一体どうなっているのだろうか。紗彩と明寧が作ったケーキを見て、浩和の事を考える方向へ向かうのか、理由を聞いてもやはり理解できなかった。

 唐揚げの湧き出る甘い肉汁を味わいながら、楽しそうな祥順を見つめる。祥順は牛すじ煮込みを食べていた。はふはふと熱そうに口元を動かしている。


「おいひいですよ」

「ありがとう。

 俺もケーキは作れるけど、殆ど作らないからな」

 祥順の期待を裏切る事になるのを承知で正直に答えた。

2023.10.31 誤字修正

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