筋肉不足な祥順と知識不足な浩和
浩和の一言に祥順の動きがぴたりと止まる。しまった、と思った時には後の祭りだった。
「そういう君はどう、なん――だっ!」
「ちょっ」
がばっと勢いよくシャツをめくり、そのまま浩和の腹筋を触った。あの筋肉騒ぎ以来、少しでも良くしておこうと筋トレを続けていた甲斐があって前よりも育っている。触られても恥ずかしくない体つきとはいえ、やはり動揺しない訳がない。
それに、思った方向の怒りではないのも動揺させる要因の一つだった。びっくりした。
「あっ前よりもかたい」
「えっ」
前よりって、覚えてたのか。
「しまった」
顔を赤く染め上げた祥順が口をわななかせる。祥順の怒りのボルテージが一気に下がり、別の感情で満タンになるのが目に見えて分かる。
「相変わらず羨ましい筋肉してるなって事だ」
しらを切るのが難しいと諦めたようだ。開き直ったかのような発言がおかしい。
「俺と筋トレしようとか言ってたくせに、勝手に自分だけやってたな」
「酔っぱらってて覚えてなかったのかと思ったんだ」
「俺はだいたい酔いつぶれて寝るまでの記憶が残っているタイプなんだよ……」
すごいことを聞いてしまった。じゃあ、あの今までの酔っぱらって可愛い祥順の記憶はずっと残ってるって事じゃないか。浩和は酔っぱらった祥順に変な事をしていなかっただろうか、と不安になったものの、彼から自分に向けられている感情に影響していないのは現状から察する事ができる。
何かしでかしていたかもしれないが、許容範囲内だったのだろうと良い方に考えておくしかない。
「言いたくなかっただけだ。酔っぱらいの時の醜態を翌日に自分から提示して恥かくこともないだろ」
沈黙に耐えられなかった祥順が秘密にしていた理由を白状してくれた。日本語に違和感を感じたが、まあ良い。その気持ちは分かる。
「本当に一緒に鍛える気があるなら、一緒にやっても良いけど」
「む」
ぺたぺた、さすさすと浩和の腹を触り続けている祥順が顔を上げた。
「良いのか?」
「もちろん」
親指で筋肉の盛り上がりを押すようにして撫でる。会話とは全く別の所で、祥順の手は動き続けている。一体何がしたいのか分からないから下手に動けない。
「俺も君みたいになれるかな」
「……まあ、なれるかもよ」
正面のシックスパックに飽きたのか、側面を触り始めた。何だかくすぐったい。浩和の困惑は続く。
「筋トレって何をしてるんだ」
「腹筋を中心に鍛える系統はもちろん、プランク系もやってるよ」
ぞわり。わき腹の辺りを触っていたはずの手が、腰骨の辺りまで移動していた。このまま触られるのはまずい。
筋肉に力を込めて快感の火種を消しつつ、祥順の両腕を掴んだ。
「触りすぎ」
「あっ」
惜しそうな視線をくれたが、そんなものにやられる俺ではない。
「今までサービスしてやっていただろ」
そう言いながら手を解放してやると、納得したのかそのまま祥順は手をおろしてくれた。やや不満そうに見えるものの、いつまでも触られていても困る。
そう、困るのだ。昨日の夜から発展した関係上、これからは恐らく肉体関係も込みになってくるだろう。浩和はその先を知らない。多分祥順も同じはずだ。
ひとまず紗彩に相談して、どうにかしていくしかない。一番まずいのは、理性的に動けなくなってしまう事だ。知識も何もないのに祥順に迷惑はかけられない。
しばらくは色々と気をつけて生活していかなければならないな、と浩和は我慢したのだった。
翌週から、変わらないようで新しい日常が進んでいった。平日夜に食事へ行く頻度は前よりも増した。が、週末は以前と変わらず。理由は浩和の方にあった。
この前感じた通り、これ以上関係が発展するのであれば、色々と勉強不足だからだ。さっそく紗彩に報告がてら相談はした。が、紗彩はそんなに詳しくはないらしい。そういうバーで知り合いになった人が詳しいから、と彼に相談してくれるそうだ。
元カノにこんな話を振る事になるとは、全く予想もしていなかった展開だったが、ありがたく頼る事にする。と、ここまでは良かった。
「どっちがどっちなの?」
「は?」
好奇心の塊といったきらきらとした視線を投げかけられた浩和は、ただ意味が分からず首を傾げるだけだった。紗彩はその態度が気にくわないらしく、隣にいる明寧に文句を言っている。
「ねえ、本当にこの人大丈夫だと思う!?」
「まあ大丈夫なんじゃない?」
明寧は余裕のある笑みで浩和を一瞥し、コーヒーを飲んだ。馬鹿にされているのは明らかだが、どういう意味だったのか分からないのだから何も返せない。
ぷっくりと頬を膨らませて不満を露わにした紗彩は、何度見ても可愛いと思う。そんな彼女も、もうすぐ三十になる所だが、この仕草はきっとアラフォーぐらいまで通用するだろう。
「浩和君、上下のポジションは重要だよ?
特に男性は本来上のポジションでいたい生き物だし、二人とも元々ヘテロじゃない。下になる方はそれなりの覚悟が必要だし、上になる方はそれなりに下への配慮が必要らしいわ」
「……そういう意味か」
一瞬考えない事もなかった。この世は最近そういうものをおおっぴらにしているから、どことなく知識が入ってくるものだ。浩和としてはどっちでも構わないな、と思っている。もちろん未知の世界である事には変わりない。そうなれば、何もポジションごときに拘る必要はないと思っていた。
「で、決まってるの?」
「いや、そんな話し合いはした事がないな。
俺自身は全く拘りがないし、それにつきあって早々そんな話題出せる訳ないだろ。
普段だって猥談なんてしなかったんだ。突然話題にするのは不自然だと思わないか?」
「した事ないの!?」
「ないけど、驚く事か?」
食い気味の紗彩に、浩和は引いた。猥談の何が楽しいのかよく分からない浩和は、元々誰かにそういう話題を振った事がない。
誰かが話題を振ってきて、というのは人数の集まった場ではよくある事だが、進んでそういう話に首を突っ込んだりはしなかった。
「さすが、モテ男。適度に枯れてるわ」
「……褒められてる気がしない」
普通だったと思うが、紗彩は不満だったのだろうか。浩和は彼女との生活を思いだそうとしたが、やめた。どうせ今更だからだ。
それに、今は彼女に相談している立場で、この話題は単純に次の話へのステップだろう。
「まあ良いわ。それよりも私のアドバイス聞く?」
「もちろんだ」
早速次の話がやってきた。紗彩の言葉に浩和は即答した。
今目の前でカフェラテを美味しそうに飲む彼女の方が、今では同性間の恋愛では先輩みたいな存在だ。浩和は、そんな存在の助言や意見を無視するような思慮の浅い人間ではなかった。




