祥順の鬱憤とナイフさばき
「なるほど、そんな顛末だったんだ」
「ほんと、どうやったらそうなるのかじっくりと教えてもらいたいくらいだった」
白ワインを口に含み、祥順は少しばかり色づいた頬を膨らませた。上司の無自覚な誤操作が招いた案件は、祥順だけではなく千誠にも緊張が走っただろう。
企画書は紙面になっていなければ添削しないと豪語する、自分の直属の上司でもやらないだろう失態に、苦笑せざるを得ない。
「使いこなせないの分かっているなら、最初から申告してくれれば良いんだ。そうしたらちゃんと使い方を説明するし、馬鹿になんてしないのに」
ブツクサ言う姿はかなり新鮮だ。もっとそういう一面を見たい。貴重な機会をくれた、はた迷惑な上司にこっそりと拍手を送っておく。
今日の夕食は白身魚のレモンクリームソース添えだ。白身魚にかけられたレモンクリームソースは、程良い酸味が白ワインに合う。
塩胡椒で軽く味が付けられた鯛に、酸味のあるクリームソース。上品な味わいの一品は、結構簡単に作れてしまう代物だ。
マヨネーズなどを使って作ったソースは、本来生クリームを使う。この料理にしか使わないとなれば、もったいない事になる。その為、今回は牛乳で代用した。
牛乳は生クリームほどの脂肪分がなくて、できあがったクリームソースはさっぱりしている。物足りない気もするが、これはこれでアリだと思う。
「俺だって、そういう指摘をするのはやだよ。今回は栗原さんが肩代わりしてくれるって言ってたけど」
唇にクリームソースがトッピングされたが、すぐに舌に舐め取られる。あ、もったいない。そんな感想を持った浩和の視線は小さく動く唇に釘付けになった。
「本人は本当に分かっていないんだ。指摘されたって、どの操作が原因だったのか思い出せないし、やれる事と言ったらとりあえず謝って、言われた通りに閲覧用アカウントで今後はログインするようにするってだけ。
同じレベルでのやりとりができないから、やりにくいったら」
鯛を切るナイフに力が入ったのか、キィと小さく皿をひっかく音がした。珍しく祥順はそれに気が付かずにフォークがカツンと音を立てるまで突き刺し、クリームソースを絡める。
普段であれば気にするであろうそれらの小さな雑音が、浩和を楽しませた。
「って、何にやついてるんだ。俺、変な事言った?」
「言ってない言ってない」
ぎゅっと眉が寄り、不振そうな表情に変わる。その口元はもぐもぐと動いており、うにゃうにゃと唸りながら食べる猫そっくりだ。だらしなく表情が緩んでしまいそうなのを何とか押さえ込み、浩和は続けた。
「珍しく怒ってるから新鮮で」
しまった、という表情に我慢できなくなった。浩和は表情筋に込めていた力が抜ける。
「悪い意味じゃないんだ。俺は嬉しくて」
「――は?」
「何でも話してくれるようになったって事だろう? また一歩、俺たちの仲が近付いたんだなって嬉しくてさ」
浩和はそこまで言って、鯛にナイフを通した。ナイフはすうっと入っていき小さな一切れを作る。崩れないように丁寧にフォークを刺して口に運んだ。
クリームソースのほんのりとした甘みにレモンとマヨネーズの酸味がきいている。あっさりとしながらも味わいの深い鯛は、咀嚼するほど美味い。
「俺の愚痴を馬鹿にしていたわけじゃないのか」
「馬鹿にするわけないだろう? むしろ、部長に言ってやれば良かったんだ。
『そういう誤操作するんですから、無意味に管理プログラムを覗かないでください』って」
つん、とすまして祥順の口調をまねする。祥順は眉を寄せて目を見開いた。結構器用だ。
「言えないよ」
「言えないだろうね」
ますます目が大きくなる。そろそろ毛を逆立てた猫が噛みついてくる頃合いだ。
「とまあ、こういう軽口もやりとりできる仲になったのが嬉しいだけさ」
「……馬鹿にされている気もするけど」
出しかけていた牙を戻した祥順は、それでも疑わしそうに浩和を見ている。今日の主食をパンにしておいて正解だったな、とパンをちぎりながら彼の様子を観察した。
祥順も少し落ち着いたらしく、カトラリーの使い方が元に戻っている。実生活を覗いた当初にはテーブルマナーを気にするタイプに見えなかったが、社会人のスキルとして最低限はしっかりと身につけているらしい。
オンとオフの差がはっきりしているあたり、祥順らしい気がした。丁寧なナイフさばきは、恐らくマナー講習にでも参加して努力したのだろう事が透けて見えるし、咀嚼する時の口元は、両親にしっかりと躾られたのだろうと感じられる。と、食べている姿を見る時にはいつも同じ感想を抱く。
「俺は、カジくんとの仲が充実するのは大歓迎なんだよ」
「……ふぅん」
疑い深いのも相変わらず。口当たりがまろやかなパンを口に入れながらどう納得させようかな、とのんびりと考える。
「まあ、そういう事にしておこうか」
思ったよりもあっさりと引いた祥順に、浩和はおや、と思う。
「俺も、自分が思っているよりも君に対して気を許しているんだろう。それを嬉しいと思ってくれるなら、悪い事じゃない」
思ったよりも感情論だ。
「よくよく考えてみれば、これくらいで馬鹿にするような人間だったら、俺と親しくなる前ににじみ出ていたはずだ。
それであれば既に俺の部屋を見た瞬間に関係は崩れさっていたに違いないから、納得する事にした」
――ちゃんと論理的な思考だった。少しだけ残念な気持ちになる。とはいえ、祥順が真剣に向き合ってくれるのはとても良い事だ。
「そういえば、ここ最近は綺麗だね」
「日々の努力の賜物だ」
遊びに行くのか、片づけに行くのか、分からないくらいにはいつもぐちゃぐちゃだった部屋は、いつの間にか綺麗な状態を維持するようになっていた。
「最近……少しずつだけど余裕が出てきた気がするんだ。だから、こう、使ったら元の場所に戻すっていう簡単な事ができるようになった。
後、君がちょくちょく来てくれるから、気持ちよく過ごしてほしくて」
そう言って笑う祥順の表情は柔らかく、そしてたおやかだった。
2024.1.2 一部加筆修正




