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書類不備です。  作者: 魚野れん
変に意識するなよ

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109/210

仕留められた浩和

 敬語をやめると宣言した祥順は、週明け早々その宣言を撤回した。

「仕事中は今まで通りで。仕事は仕事ですから」

 なるほど。まあ、そうだろう。少しばかり残念に思ったが、よく考えてみればその方が良いに決まっていた。仕事が終わったら、休みの日だったら、敬語をはずしてくれるのだ。自分だけが特別な感じがするし、何よりも会社の人は誰も知らない姿だというのが良い。


「タキくん、どうしたの?」

「あ、いや。ちょっとぼうっとしてた」

 今日は珍しく喧噪を避けてバーへと来ていた。祥順はシェリー酒のオロロソを頼み、浩和は無難にウィスキーのジャック・ダニエルをオンザロックで飲んでいる。バーなだけあって、色々なウィスキーが置いてあり目移りしてしまう。


 ここは比較的軽食の種類が多い店で、夕食後に一杯引っかけるという客の他に、浩和達と同じように食事も楽しもうという客がやってきていた。他のバーよりも少しだけ賑やかで食品の香りがこもっているこの店は、ゆったりとした時間が流れていた。

「オムレツが冷めてしまう」

「そうだった」

 半分ずつにして食べていたのを思い出す。バターがたっぷりと使われていてまろやかな味の、ふんわりとしたオムレツだ。この卵の具合を作るのが難しい。家でやろうとすると、形が崩れたり生っぽすぎたりと、意外に難しいのだ。

 アルコールなどを添加して凝固しにくくするという裏技もあるが、浩和はそういうのがあまり好きではない。

 そんな事をしなくてもうまく作れる人間がいるのだ。浩和にだってできる可能性は十分にある。それを放棄してしまうような気がして嫌なのだった。


 ぬるくなったオムレツを口に運び入れる。ふんわりとまとめられたオムレツは、冷たくなってもおいしい程度には卵に火が通っている。

 この絶妙な火加減は、正にプロの仕事だ。これがもう少し生っぽいと途端にまずくなる――単に浩和の好みの問題かもしれないが。


「このシェリー酒美味しいよ。どこのワイナリーかは知らないけど。自分で買わないなら、おすすめを飲む方が外れないし」

「味見して良い?」

「どうぞ」


 グラスがテーブルを滑るように差し出された。まずは香りを嗅ぐ。まったりとした芳香だ。ブランデーのようなしっかりと熟成させられた香りがする。樽特有の香りも混ざっている。

 一口、口に含んだ。舌で転がすようにして風味と味を確かめる。フルボディのワインと同じようにじんわりと効いてくる渋み、しっかりと染み着いた香り。これが本当にブドウからできあがるのかと疑いたくなるようなキレ。

 浩和の体温でぬるくなったアルコールが鼻腔を彷徨ってから抜けていく。確かにこれはうまい。


「うん。良いね」

「だろう? 次は何にしようか、楽しみになる」


 浩和がグラスを返すと祥順はそのままグラスを傾ける。タメ口になったからなのか、バーが醸し出す雰囲気の効果なのか、彼の仕草が男の色香を感じさせる。

 浩和の中にある乙女の部分がきゃあきゃあと小さく騒いでいる気がした。

「さて、お楽しみのローストビーフサンドだ」

 オムレツと一緒に頼んでいたのを思い出す。さっきから祥順を見ていると他の事がおろそかになっているが、今回は仕方がないのだと自分に言い訳をする。祥順が格好良いのが悪いのだ。


 一人前をシェアして食べるのは少しばかり恥ずかしいが、好きな人間と全てを共有する喜びには勝てない。つまり、浩和は羞恥心を捨てた。バーテンダーに誤解されているかもしれない。もうそれは諦めるしかない。

 こういう場所の人間は本人達に確かめる事もないだろう。祥順の反応が怖いから、話しかけないでいてほしいとも思う。


 すぐ隣でこちらに半分身体を向けながら祥順がローストビーフサンドを頬張った。唇に付いたマッシュポテトを舐める仕草が目に付いた。一緒に食べていると、つい見てしまうその仕草。

「山わさびが効いていて美味しい。もしかして山わさび苦手?」

 軽くからかうような笑みを祥順が浮かべている。サンドイッチを持ったまま祥順を見つめていたのがばれたのかと思った。


「ごめん、毒味役を見つめている主人みたいになってた」

「何それ」


 意味の分からない事を言って煙に巻く。その唇に視線が吸い寄せられていたなんて、絶対に言えない。

 祥順は笑っていた。ジョークだと思ったのかもしれない。


「でもカジくんが美味しいって言うなら間違いないね」

「そんなに舌は肥えてませんー」

 あ、今の笑い方は可愛かった。

「そうだとしたら君のせいですー」

 小学生が言い訳する時のような言い回しで、祥順が一気に可愛らしい存在になった。


「タキくんがおいしいものを作ってくれたり、おいしい場所に連れて行ってくれるから自然と舌が肥えたに決まってる」


 確かに料理は一緒にやる事が増えた。盛り付けも、最初の頃を考えたら別人のようにこなれてきた。一緒にいるのが楽しくて、自然で、以前よりも外食する時に気を使うようになった。


「うーん……でも、俺はこうしてカジくんとおいしいご飯を食べたり飲んだりするのが好きだからなぁ」

「俺もだよ」


 即答された。


「だから、俺だけが食べてるのは嫌なんだ。さあ、食べて」


 どうしよう。いつも可愛い祥順がイケメンだ。

 初デート中の女の子のように、はにかみながらサンドイッチを食べた。普段よりも小さなひと口だった。

「美味しいだろ?」

「……ん。おいし」

 山わさびのまろやかな辛さがローストビーフの旨みに合う。玉ねぎがベースの和風ソースで、これがまた山わさびを引き立てている。薄く切られたローストビーフのミルフィーユが食感も楽しませてくれて、相乗効果で何倍も美味しく感じさせてくる。


 咀嚼が一段落してからちらりと祥順を見れば、彼は優しく微笑みながらこちらを見ていた。その視線に胸を撃ち抜かれる。

 だめだ。死んだ。

 浩和はそれからしばらく、たまに現れるイケメンに胸を踊らせては祥順に不思議がられるのだった。

2023.12.22 一部加筆修正

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