祥順の仕返し
祥順はひっそりと苛ついていた。今まではっきりとした負の感情を浩和に対して抱いた事などなかった。だが、今回ばかりは怒りの感情を感じざるを得なかった。
出来事は単純だ。ただ、意見が合わなかったのである。永遠に続きそうな平行線を辿っている。言い負かされる、とはまた違うのだろうが、とにかく浩和は自分の主張を通そうとしてくる。
染めようとはしないが認識しろと、理解はしなくても認知はしろと、言ってくる姿は、正直なところ見たくなかった。
自分の浩和に対する幻想が剥がれた瞬間とでも言えば良いのだろうか。これ以上押しつけられるのは耐えられなかった。
諭すような言い回しなのも、ムカつく。祥順は浩和と相対するとどうしても己の喜怒哀楽が激しくなってしまうのを感じていた。普通なら軽く流せたはずなのに。
じっと目だけで浩和を睨みつけたが、相手には全く効果はない。悔しかった。
「もう分かりました」
己の目力のなさに呆れながら出した声は、想定外に弱々しくなっていく。きっと下を向いたせいで喉が潰されているからだ。決して自分の怒りが滲み出ているからではない。
浩和が身じろぎする気配を感じた。
居心地が悪いのだろうか。ふと、怒りの気持ちが収まり、今度は意地悪な考えが頭をもたげる。この流れなら仕返しくらいしても良いんじゃないか?
そうだ。たまには浩和をどぎまぎさせたって許されるはずだ。
「あなたがそう思うのと同じように、俺もさっき言った事を思っているので。これ以上俺を苛めるのは止めてください」
喉が絞まっているままで口を開いたせいで、余計か細くなった。息を詰めるような、そんな呼吸音が向こうから聞こえた。か細い声が思いの他効果を発揮したらしい。
自分の一挙一動に相手が動かされる。少しどきどきする。さっきまで己の考えを押しつけようとしていた相手が祥順の態度に狼狽えている。今や自分の鼓動は怒りではなく興奮からどくどくと脈打っているのを感じていた。
高揚感。こんな時に感じるものではない――はずである。だが、心臓の動きは残念ながら制御できるものではない。
「分かったよ、もう言わない。でも、謝らないよ」
少しの沈黙の後、浩和が折れた。開き直った感じが多少気に食わないが、祥順はそれで満足する事にした。心なしかその声には後悔が滲んでいるし。
もう、お互いに振り回しあうのは終わりだ。つい忘れがちになるが、祥順は浩和よりも年上である。これで祥順がごねたままでいたら二人の関係は拗れてしまうだろう。
こんな下らない事――些細な事が大事になるというのは良くある話だが――で喧嘩はしたくない。それは祥順にとって望んだ結果にはならない。
「そう、それは良かった」
「え?」
努めて明るく言い放つと、祥順は顔を上げた。この話はもう終わりである。祥順が浩和に対して特別な事をしたという自覚はなく、だが浩和には特別な効果があった。それで良い。
己の感情を、感覚を押しつけあおうとする時間は終わりにする、という意志を持って自分を制御する。
浩和はその豹変具合にまた動揺しているようだったが、それはそれで祥順の気持ちを上向きにさせた。
「どうしたんですか」
浩和が動揺する理由は分かっている。祥順だって、浩和の立場だったら動揺するだろう。だが、祥順はあえてそう行動した。軽く首を傾けて、さも相手を心配するようにしてみせる。
「いや……」
勝った。勝ち負けでも何でもなかったが、祥順はそう思った。祥順は勝者の笑みではなく、普段にもよく見せる笑顔を作った。
豆鉄砲を食らった鳩のように瞬きを繰り返す姿は普段の浩和からは想像できないほどに愉快だった。あれから二人で仲良く夕食を作り、ワインを開ける。ワインが空になったところで祥順は別の酒を持ち出した。
「お。何、それ新入り?」
「そう。親が送ってきたんです。国内生産品のジンだから珍しいぞって」
浩和にボトルを振ってみせると彼の視線は興味深めに煌めいた。うん。これで完全に仲直りが出来そうだ。
ボトルを渡せば浩和はパッケージをじっくりと観察した。中身がどんな味なのかは祥順も分からない。彼が国内ジンに夢中になっている間、冷蔵庫に冷やしておいたトニックウォーターを持ち出してグラスを用意する。
テーブルに戻ってきた時には、既にジンのパッケージを見終わっていた。
「開けても良い?」
「どうぞ」
祥順の返事に浩和はキャップを捻ってグラスへ注ぐ。とくとくと小気味よい音をさせながら透明な液体がグラスの三分の一程度。それから祥順がトニックウォーターを加えれば、炭酸のはじける爽やかな音が囁いた。
いつの間にか浩和が祥順の家の備品にしてしまったガラスのマドラーでかき混ぜればジントニックの完成だ。
普通のグラスの他にショットグラスも用意していた祥順は、それにジンだけを注ぐ。
「国産のジン、味見しますよね?」
「もちろん」
少しだけ入れられたジンのストレートを舐めるように口にした浩和は、口元を緩ませて口角を上げた。そしてジンの味を確かめるかのように唇を舐めた。
「ちょっと変わった味がする」
「本当?」
浩和が掲げるそのショットグラスを受け取って自分も口にする。ジン自体は度数の高いアルコールだ。燃えるような熱さが喉を焼く。アルコールが揮発する刺激とジン特有のハーブっぽい風味に強いゆずの香りが鼻腔を貫いた。
「ゆずっぽさが強いですね」
「ああ、やっぱり」
ジュニパーベリーさえ使っていれば“ジン”と呼べる。その為か、ジン自体の味にもかなりの種類、そしてレシピが存在している。その国でよく採れるものだったり、人気のものだったり。
祥順は存在しか知らないがバラを加えた物まであるらしい。食べ物で言うならばカルボナーラみたいなものだろう。
アルコールのせいで鼻がバカになった気もするが、この爽やかな香りは絶対にゆずである。それも、まだ青いゆず。
祥順はもう一口、とジンを飲んだ。ストレートで飲むには癖が強い。ロックで楽しめるかどうか、ぎりぎりのラインだった。
「トニックウォーターを買っておいて正解でした」
「普段カクテル系はここで飲んでないもんな」
浩和は祥順の言葉に頷いてからジントニックの入ったグラスを手にした。祥順もそれに習ってショットグラスと取り替える。互いに傾けあって軽く乾杯すると、そのまま口に運ぶ。
口にグラスが近付くとぱちぱちと炭酸のはじけた飛沫が口元に飛んできた。
2023.12.17 一部加筆修正




