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書類不備です。  作者: 魚野れん
変に意識するなよ

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102/210

気分は乱高下

 午後は少しだけ残っていた片付けの続きをして、洗濯物を取り込んで、コーヒーブレイク。そんなまったりとした土曜日を浩和は楽しんでいた。

 残念ながら上出来だと思った昼食の味はいまいち分からない内に終わってしまったが、祥順がおいしそうに食べてくれていたから問題なかったのだろう。

 祥順に対して想定外の気持ちを自覚してしまったものの、あの一瞬の出来事――出来事と言うにはとてつもなく些細だった――に舞い上がっただけかもしれない。

 そう思った方が気が楽だ。少なくとも、この“ほとんど親友”ポジションは捨てがたい。と考えていたのも、このちょっと雑なクッキーのせいで揺らぎそうになる。

 ゆっくりと味わいながら、クッキー作りを思い出していた。




 祥順は何もしていないのが嫌になってきたらしく、コーヒーブレイクに向けて何か作ると言い出していた。そう言ってくれているなら、と簡単にできるクッキーでも作ってもらおうと小麦粉という名の薄力粉を取り出した。

 浩和は片付けを、祥順はクッキーを。祥順は浩和に聞きながらおぼつかない手つきで作り始めた。聞かれる度にキッチンを見て状況を確認して答える。浩和には粉だらけになりながら奮闘している祥順がかわいらしく見えた。

 変に意識するな、と自分に言い聞かせる。バレるぞ。嫌われたくはないだろう? だったら普通に振る舞うんだ。そう自分に繰り返す。


 だけど、無理だった。というのも、祥順が困ったように浩和の方を見ているのに気がついて振り向くと、ほっとしたように顔を綻ばせたからだ。

 ――彼のそんな瞬間が見たくて少しだけ気付かないふりをする。そんなばかげた事に巻き込まれた祥順が作ったクッキーは、さくっとした食感ではなく、しっとりとした食感になった。

 間違いなく浩和のせいだ。

 浩和の小さな欲望に負けながら作られたクッキーは、それでもおいしかった。




 浩和は手にしたクッキーのひとかけを口に放り込んだ。どこかもそもそとする食感だ。手早く作ればさくさくのクッキーも作れるが、祥順が作ったそれはかなりしっとりしている。混ぜすぎ、というか捏ねてしまったのが原因だが、それも愛らしい。

 バターをたっぷりと使った典型的なクッキーを浩和が淹れたコーヒーと一緒に食べる。それも温もりが残っている内に。つい今朝気がついてしまった祥順への気持ちを抱えているこの瞬間、貴重な時間を手に入れているのだと実感した。


 あら熱が取れて冷えたら、もそもそとしている食感も多少は消えてしっとりとするだろう。それはそれで楽しみだが……うん。おいしい。

「滝川さん?」

「あ、ああ、何だっけ」

 自分が思っているよりも意識が深く潜り込んでしまっていたようだ。祥順が不思議そうにこちらを見やっていた。君とクッキーの事を考えていたなんて言えるわけもなく、浩和は誤魔化した。


「休みの日、それも日中を俺の為に使って本当に良かったんですか?」

「カジくんくどいよ」

「だって、俺は何も返せていないのに」


 いつでも祥順は控えめだ。当然の権利として受け止めているかのように見えても、いつだってその下にはこの考えがある。


「良いんだ。珍しい物も食べれたし」

「あ、俺の作ったクッキーが稚拙だって言いたいんだ」

「いや、これはこれで美味しいし嬉しいよ」


 そう言ってから、そうじゃなくて。と言い直す。


「俺はカジくんと休日まったりと過ごす事が好きなんだ。俺の楽しみを取らないでくれると嬉しいんだけどな」

「そうやって俺の耳に良い事だけ言うのは狡いです」

 祥順が眉を下げてマグカップを傾ける。困った表情も良い。

「俺、あなたみたいな魅力的な人間になりたいのに、全然だ」


 お。敬語が取れつつある。浩和は滅多にないタメ語に心が躍る。心を許してもらえている実感が湧いてくる。けど、駄目だ。

 祥順にとっては自分の事は親友になるかどうかといった程度なのだから。


「もっと見習って動かないと」

「俺はそこまで素晴らしい人間じゃないよ。栗原さんの方がすごいと思うし」

 きっと休日を使って寛茂に指導しているだろう彼を思う。

 寛茂の状態を考えるに、千誠はかなり指導がうまい。あの寛茂が。ここに来て変わり始めているのだ。


「栗原さんはすごいです。でも、すごすぎてちょっと格が違いすぎると言うか……」

「ああ、俺の方がハードルが低くて追いつけそう?」

「そうじゃない!」


 祥順がムキになって否定する。甘えやすい相手として認識してくれているのならば本末転倒だ。さすがに良い年をした大人がやる事ではない。

 少なくとも祥順が尊敬する人間でいる為にやってはいけない行動ベスト3に入るだろう。


「夕飯はどうしますか? おつまみになりそうな感じのものを買ってきてくださったみたいですけど」

「ああ、一緒に作ろうか。そんなに難しくも何ともないよ」


 先ほどの興奮はどこへ行ったのか。浩和の方が祥順の感情の動きに振り回されてしまいそうだ。

 シンクを流れていく水と、カップを洗う洗剤と、祥順の感情が一緒に排水溝を通っていったのだろうか。


「何かすっきりしました」

 何だって。浩和は祥順の顔をまじまじと見た。声色もそうだが、確かに表情も明るい。というか、笑顔だ。

「久々に声を出した気がします。疲れだけじゃなくてストレスも溜まっていたのかも」

 祥順の変わり身の速さに目を瞬かせてから、浩和は苦笑した。

「吐き出したいなら吐いちゃって。俺、ちゃんと受け止めるよ」

「いつも受け止めてもらってばっかりです」


 そうだろうか。いや、むしろ浩和の方こそ受け止めてもらってばかりのような気がする。

 そもそもこの関係になったのも、浩和が紗彩にフラれて落ち込んでいたからだ。祥順が話を聞いてくれて、随分と楽になった。

「最初の頃は俺が貰ってばかりだったから、お礼みたいなものだよ」

 そう言えば、祥順はピンと来なかったらしく首を小さく傾げてみせた。

2023.12.15 一部加筆修正

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