63・深更にうごめくモノたち(第三者視点)
何度寝返りを打っても眠れず、ティアナはとうとう寝台から起き上がった。夕べの興奮がまだ抜けきっていないようだ。
しどけない絹の夜着姿でソファに座り、寝乱れた髪を手櫛で梳きながら、金細工の呼び鈴を鳴らす。
真夜中にもかかわらず、専属のメイドが隣の控え室からすぐに駆けつけた。呼ばれてすぐ対応しなければティアナがかんしゃくを起こすので、数人が交代で不寝番をしているのだ。
離婚したアッヘンヴァル侯爵家は武人の気質が強く、身の回りのことは可能な限り自分でやるのが家風だった。ゆえにティアナにも専属のメイドはたったの一人しかつけてもらえず、ろくにティアナの役に立たなかったので、実家の両親に頼み込んでフォルトナー公爵家から何人かメイドを派遣してもらっていたくらいだ。
(ありえない待遇だったわ。わたくしは皇族に連なる公爵令嬢なのに)
その点こちらのブライトクロイツ公爵家は、ティアナをとても大切にしてくれる。窮屈で居心地の悪い実家から連れ出したばかりか、宝石でもドレスでもなんでも望むだけ与えられ、供される食事は豪華なものばかり。
腕のいい菓子職人がいつでも甘いケーキや焼き菓子を作ってくれ、高級な酒も好きなだけ飲ませてもらえるおかげで、少しだけ……ほんの少しだけふくよかになってしまったけれど、離婚のごたごたでやつれてしまった分を差し引けばちょうどいいはずだ。女は肉付きがいいほうが殿方に好まれるものだと、実家の母も言っていた。
「眠れないの。いつもの夜食を持ってきて頂戴」
「かしこまりました。少しお待ちくださいませ」
厨房へ下がったメイドが戻ってきたのは、ティアナの腹がはしたない音をたて始めたころだった。いつもよりずいぶんと遅い。
「このわたくしをこんなに待たせるなんて!」
「ひっ!」
苛立ちまぎれに投げたテーブルの上のガラス細工は、メイドがとっさに避けたせいで壁にぶつかり、粉々に砕けてしまった。
まともに仕事もできないくせに、ティアナが与えてやる罰を避けるなんて。青ざめた頬を叩いてやりたくなったが、メイドが運んできたワゴンから香ばしい匂いが漂い、ティアナは怒りをおさめることにした。
「……もういいわ。早く支度をして」
「は、はい」
びくびくしながら、メイドは運んできた夜食をテーブルに並べていった。果物のジャムやクリームなどを詰め、良質な油で揚げ、粉砂糖をまぶした拳半分サイズの揚げ菓子と、蜂蜜をたっぷり入れたホットミルクだ。
大皿にこんもり盛られた揚げ菓子の山を見ると、食欲が湧いてくる。
ティアナはまず蜂蜜ミルクで喉を潤し、揚げ菓子に手を伸ばした。貴婦人たるもの、いつでもカトラリーを優雅に操り、小鳥のように食べなければならないのだが、どうせ誰も見ていないのだ。
「…………」
あっという間に手掴みで揚げ菓子の山を平らげていくティアナを、メイドは恐ろしげに見つめているが、貴婦人にとって使用人など喋る家具と同じだ。ティアナが気にかけるのは同じ貴族……この屋敷ではブライトクロイツ公爵と息子のジークフリートだけである。
(まさかジークフリート様が、お兄様に勝つなんて)
昼間行われた閲兵式の模擬試合の結果は、すぐさま公爵邸にもたらされた。執事は即座に宴の支度を始めさせ、夕方、公爵父子が帰宅するや、あまたの客を迎えての宴が催されたのだ。
実家を出奔した身ゆえ、ティアナは参加を許されなかったが、華やかな催しであることは漏れ聞こえてくる歓声やざわめきからも明らかで、ティアナを高揚させた。
屋敷を訪れた客は皆、アンドレアスよりブライトクロイツ公爵の方こそ皇帝にふさわしいと信じる貴族たちだ。ティアナが公爵邸に逗留し始めてからちらほらと見かけていたが、今日はいつもの何倍もの人数がひっきりなしに訪れていた。ジークフリートがリュディガーに勝ち、その勝利を皇妃ガートルードが言祝いだからだとメイドたちは騒いでいたけれど。
ガートルード皇妃。
その名前を聞くと、ティアナの胸は不穏にざわめく。
ヘルマンが罪を犯したことはわかっているけれど、あの妃さえいなければ……と思ってしまうのだ。
でも、それもだいぶ和らいだ。
(いずれあの子どもはわたくしより下の立場になるのだもの。寛容な心で許してあげなければね)
自分がアンドレアスから帝位を取り戻し、皇帝となったあかつきには、息子のジークフリートは皇太子に、ティアナは皇太子妃に据えると、ブライトクロイツ公爵は常日頃言っている。ガートルードはそのままジークフリートの側妃にすると。
どうせお飾りなのだからブライトクロイツ公爵の皇妃にすればいいのに、と思うが、さすがに祖父と孫ほどの年の差は周囲を納得させられないだろう。ならばジークフリートの側妃にするのは仕方ないことだ。
そうなれば元王女だろうと、ティアナよりも下の女。せいぜい『可愛がって』やろうではないか。
(それに公爵様は、ヘルマンもジークフリート様の養子として迎えると言ってくださった)
冷徹な元舅姑によって奪われた、可愛い息子。あろうことか今はヴォルフラムの小姓として仕えさせられているという。
滞在中のシルヴァーナからの使者、モルガンとの交渉次第では身柄をシルヴァーナへ引き渡される恐れがある。ガートルードへの無礼を怒り狂っているというシルヴァーナは、きっとヘルマンを処刑してしまうだろう。ただ一度過ちを犯してしまっただけの、哀れな子どもを殺すつもりなのだ。
だがブライトクロイツ公爵が皇帝になれば、モルガンを処刑し、その死体をシルヴァーナに送りつけて宣戦布告とする。
ガートルードの身柄はもちろん押さえておく。軍事力では帝国の方が圧倒的に勝るのだ。怒ったシルヴァーナが攻めてきても、返り討ちにしてやればいいだけ。
次の皇太子になるのは、ジークフリートとティアナの間に生まれてくる子だろう。だがヘルマンも皇子として最高の待遇を約束される。侯爵の孫よりもよほど恵まれた環境で育てるのだ。きっとティアナに感謝してくれる。
そう、すべては明日。
明日――ティアナは生まれ変わる。
「ずいぶん遅かったけれど、まだお客様は残っているの?」
揚げ菓子で腹が満たされると心も落ち着き、ティアナは油と砂糖まみれの指を舐めながらメイドに尋ねた。砕けたガラス細工を片付けていたメイドは、慌ててひざまずく。
「は、はい。旦那様とジークフリート様はお部屋に引き上げられたのですが、お客様はまだお帰りにならず」
「そう……」
だから厨房はまだ大忙しで、ティアナの夜食の準備も遅れてしまったのだろう。次期皇太子妃の食事をおろそかにするのは業腹だが、そういうことなら許してやってもいい。
それに。
「……ジークフリート様もお部屋に戻られたのね?」
「はい。すでにお休みになったと思いますが……ティアナ様?」
夜着の上にガウンを羽織るティアナを、メイドは不思議そうに見ている。察してくれればいいのに、本当に気の利かないメイドだ。
「ジークフリート様のお部屋に行くわ。案内しなさい」
「えっ? ……も、もうお休みになったと……」
「だから行くのよ。わかるでしょう?」
豊満な胸を揺らし、艶然たる流し目をくれてやると、メイドはかあっと頬を赤く染めた。やっと理解したらしい。
「い、いけません! ジークフリート様は他人がお部屋に入ることをとても嫌われます。使用人の出入りも最低限で……」
「わたくしは他人ではないわ。従妹で、未来の妻よ」
さっさと歩き出したティアナを、ランプを持ったメイドが追いかけてくる。
愚図で野暮なメイドを待たず、ティアナは廊下に出ると、どんどん進んでいった。この階は公爵家の一族専用だから客と鉢合わせする恐れはないし、魔法道具の照明のおかげで夜でも明るい。
(今のうちに、ジークフリート様をわたくしの虜にしておかなければ)
ティアナほどの美女と共に暮らし、時にはティアナから誘いをかけているにもかかわらず、ジークフリートがティアナに手を伸ばすことはなかった。オパールの左目を尊大に細めただけで、離れていってしまう。
だが今宵なら――リュディガーに勝利した後なら、ティアナの熟れた肉体を貪らずにはいられないはずだ。戦った後の男は、女が欲しくてたまらなくなるものだから。
うきうきとジークフリートのもとへ向かう途中、ティアナは奥の部屋の扉がわずかに開き、明かりが漏れているのを発見した。ジークフリートの向かい側の部屋……あれはブライトクロイツ公爵の部屋だ。
「……です。すべては仰せのままに」
聞こえてきたのはブライトクロイツ公爵の声だ。興味をそそられ、ティアナは扉に身を隠し、そっと室内を窺った。誰に対しても尊大な公爵がへりくだるなんて、なにがあったのだろう。
室内にはソファが向かい合わせで置かれ、奥のソファにブライトクロイツ公爵が、手前のソファにこちらに背を向ける格好で誰かが座っていた。ランプの明かりにきらめく金髪に、ティアナは既視感を覚える。
(あの人は……まさか)
身じろいだ弾みで体勢が崩れ、ティアナは尻餅をついてしまう。
響いた物音に、金髪の人物が振り向いた。ひっと悲鳴を上げそうになった時、長身の男が扉から滑り込んでくる。
ジークフリート様、と呼びかけそうになり、ティアナはとっさに口を手で覆った。ジークフリートが『黙っていろ』とばかりに、厳しい表情で首を振ったからだ。
「ジークフリート、どうしたのだ」
ブライトクロイツ公爵が問いかける。どうやらティアナの存在は気づかれなかったらしい。公爵にも、あの人物にも。
「休む前に、ごあいさつにと思いまして」
答えながら、ジークフリートが後ろ手で扉の外を示す。その長身を隠れ蓑に、ティアナはほうほうのていで廊下に転がり出た。
ぱたん、と閉じた扉を、ティアナはぼうぜんと見上げる。
「……どういう、ことなの?」
一瞬だけ見えた人物。
あの顔は。あの金髪と、翡翠色の瞳は……間違いない。
「どうしてアンドレアス様が……皇帝陛下が、ここに?」
アンドレアスとブライトクロイツ公爵は、甥と伯父でありながら不倶戴天の敵同士なのに。
アンドレアスは、明日……その座を公爵に奪われてしまうのに。
ここまでですべての情報は出揃いました。
公爵やジークフリート、アンドレアスがどうしてこのような関係になり、何をしようとしているのか、推理してみてくださいませ。




