62・転生ものぐさ皇妃と神使の岐路
「ううう……、疲れた、疲れたよぉ……」
閲兵式の夜。ガートルードはレースの夜着に着替え、ふかふかの寝台に横たわっていた。
全身に倦怠感がまとわりついている。こんなに疲れたのはこの身体に転生してから初めてかもしれない。
「おかわいそうに、我が女神。なんておいたわしい」
ガートルードを腕の中に抱き込んだレシェフモートが、よしよしと頭を撫でてくれる。その身体からじわじわ染み込んでくる温もりと魔力が心地よくて、もっと味わいたくて、ガートルードはたくましい胸にすりすりと頬を擦り寄せる。
「レシェ、レシェえ……」
「閲兵式が無事終了したのは、すべて貴方のお力です。無知蒙昧な羽虫どもなど、捨て置かれれば良かったものを」
ぐずる赤子のようなガートルードを、レシェフモートは優しくあやしてくれる。
閲兵式が終わり、皇妃の宮殿に戻ってきてからもう三時間は経つが、ずっとこんな調子だ。弟妹たちをあやしてきた経験から、ぐずる子どもの相手がどれだけ大変か、ガートルードは身をもって知っている。嫌な顔一つせず、慰め続けてくれるレシェフモートの器は大きすぎる。
……それだけに、閲兵式を思い出すと暗鬱な気持ちになる。
コンスタンツェに睨まれ、思いがけずモルガンの来し方を聞き、アンドレアスの政敵ブライトクロイツ公爵と遭遇した。
それだけでも予想外のアクシデントだらけだったのに、コンスタンツェがジークフリートにかけられているという呪いにあてられて退場し、ガートルードがジークフリートの呪いを退けた結果、対魔騎士団の貴婦人に祭り上げられてしまった。
その後の模擬試合でジークフリートがリュディガーに勝利を収めると、会場のボルテージは最高潮に達した。
アンドレアスに命じられ、急きょコンスタンツェの代わりに花冠を授けることになったガートルードが、レシェフモートがついていてくれなければ卒倒してしまいそうなほどの熱気だった。一度も噛まずに口上を述べ、代理を務め上げた自分は世界中から誉められていいと思う。
おかげで、主催者の一人たる皇后の途中退場というとんでもないアクシデントが起きたにもかかわらず、閲兵式はどうにか無事に終了した。
しかし明日は中の宮殿にて、祝賀式典の一環である舞踏会が催されるのだ。主催はもちろん皇帝夫妻。となれば、皇妃たるガートルードも参加は避けられない。
「ずっと、このままでいらっしゃればいい」
レシェフモートが甘くささやく。この世界に悪魔が存在するのなら、きっとこんな声で誘惑するのだろう。
「私の腕の中で、私だけを感じて、私だけの声を聞いて。……ほんの一時、私にすべてを委ねてくだされば、目が覚めた時にはわずらわしいものは全部なくなっておりますのに」
異形のささやきの意味を、ガートルードは正確に理解したわけではなかった。……理解しようがなかった。頷けば深い眠りに落とされ、次に目覚めるのは数百年後……ガートルードの係累も『わずらわしいもの』もすべて死に絶えた後で、異形の腕の中でしか生きられない身体にされているなんて。
「そんなわけにはいかないわよ」
理解しないまま、ガートルードは異形に囚われる未来を回避した。
「超……、皇帝陛下と皇后陛下には絶対に祝賀式典を成功させて、ブラックモア卿に帝国の強さを見せつけてもらわなくちゃならないもの。わたしは絶対、食っちゃ寝ライフを諦めないわ」
姉女王や姉王女たちには、心配をかけて申し訳ないと思っている。多忙ゆえそうたくさんの時間を共に過ごせたわけではないけれど、転生して初めて家族の愛情をくれたのは、間違いなく彼女たちだ。
ガートルードの肉体に櫻井佳那の魂が入り、挙動不審だっただろう末妹を……両親を犠牲にして生き延びたガートルードを、一度も責めなかった。いつでも温かい眼差しを注いでくれた。
家族としての情は、ガートルードにもある。前世の両親よりもはるかに慕わしい存在だ。
だがそれ以上に愛おしいのが、食っちゃ寝ライフなのである。
シルヴァーナ王国に連れ戻されれば、いずれ姉王女たちのように国のため尽くす日々が待っている。政略結婚も避けられまい。
だからアンドレアスとの離婚だけは絶対に回避しなければならない。そうすれば、あの人とも……。
(……って、どうしてヴォルフラム皇子の顔が思い浮かぶの?)
「……我が女神」
小さな胸が軋むのと同時に、背中を大きな手が撫で上げた。
額に落とされる唇も優しく、温かい。なのに、なぜだろう。氷を押し当てられたように冷たく感じるのは。……なにか、とてつもなく大きな決断を迫られているような気がしてならないのは。
「今」
レシェフモートの声は甘い。
「誰のことを」
煮詰めた蜜のように。砂糖とクリームをたっぷり入れたホットチョコレートのように。
「考えていらっしゃいましたか?」
甘く甘く、ガートルードの耳に流し込まれてゆく。脳髄までとろかされてしまいそうなくらい、どろどろと。
「……レシェの、ことよ」
とっさに嘘をついたのは、とろける寸前の頭が警告を発したせいだ。
真実を告げてはならない。ヴォルフラムを死なせたくなければ――と。
「私を?」
「そうよ。……貴方以外、ここにはいないでしょう?」
ぎゅっとレシェフモートの胸に抱きつき、顔を埋める。今、顔を見られたくなかったから。……見られたらきっと、嘘を気取られてしまうと思ったから。
「……ええ、そうですね」
長い銀の髪がざわめき、しゅるしゅると絡みついてくる。
「我が女神には、私しかおりませんよね」
甘いささやきが己に言い聞かせるようだと思った瞬間、強烈な眠気がガートルードを襲う。
呑み込まれる前、なぜか頭に浮かんだのは、蜘蛛の巣に囚われ身動きが取れない紋白蝶だった。
「なぜ、なぜ、なぜ、なぜ」
組み敷いた小さな身体を激しく揺さぶりながら、レシェフモートは何度も問いかける。強制的に眠らせた女神が、答えることなどないとわかっていてもやめられない。
「なぜ、嘘をついたのですか」
「なぜ、この私に」
「なぜ、嘘を」
ガートルードが嘘をついたことくらい、レシェフモートも気づいていた。
あの時、ガートルードの心の中にはレシェフモート以外の男がいた。きっとあの忌々しい皇子。ガートルードに救われどうにか命をつなぐ卑賤の身でありながら、いつの間にか無垢で清らかな心に住み着いた。
疎ましい疎ましい疎ましい。潰したい潰したい潰したい。不死者としてよみがえることすらできなくなるほど、ばらばらの肉片になるまで刻み、燃やし尽くしてやりたい。
今までのレシェフモートなら迷わず実行していた。ガートルードが泣こうとわめこうと歯牙にもかけず、ヴォルフラムを……ガートルードの心を騒がせるすべてを引き裂き、血塗れの骸の山の前でガートルードを抱いただろう。
どれだけ憎もうと、嫌おうと、いずれガートルードはレシェフモートを受け入れるしかないのだから。
それこそが魔獣の王として正しい愛し方だ。愛しい存在が手に入れば、その心がどこにあろうと構わない。いずれ己のものになるのであれば。
だが、レシェフモートは思ってしまった。
……嫌われたくない、と。
一瞬でもガートルードに嫌悪や憎悪を向けられれば、なんの警戒心もなく委ねてくれる小さな身体が恐怖に強張ったならば、己の核は……人間で言うところの心臓は砕け散ってしまうかもしれない。
だから昼間も、黙って見ているしかなかった。身勝手な欲望で女神を汚す人間どもを……身を内側から焼き焦がすような感情にさいなまれながら。
(私は、どうかしている)
愛しい女神の幸せそうな笑顔しか見たくないなんて。
拒まれるのが怖いだなんて。
それではまるで、あの皇子と同じではないか――。
懊悩するレシェフモートは、致命的なミスを犯す。
……私は……、もう……!
深い深い、地の底で。
絡みつく四肢を振りほどいたソレが上げた悲鳴を、聞き逃してしまったのだ。




