64・転生ものぐさ皇妃、大舞踏会へ
翌日。
対魔騎士団の帰還祝賀式典の一環、舞踏会当日は、雲一つない青空が広がった。
ロッテによれば真夜中に激しい雷雨が降ったそうだが、ガートルードは朝まで一度も目を覚まさなかった。よほど疲れていたのだろう。あるいはレシェフモートの腕の中の居心地が良すぎたのか。
(……でも、なんだか変な夢を見ていたような……)
夢の中、ガートルードは濃い霧がかかったようにぼんやりとした空間にたたずんでいた。
まとわりつく霧はひどく生臭く、生暖かくて、すぐにでも逃げ出してしまいたかったけれど、足が縫いとめられてしまったかのように動かなかった。
『逃がさない』
はあはあと、荒い吐息混じりの喘ぎが聞こえてきた時には、夢の中なのに心臓が止まるかと思った。怨念と執念が凝ったようなそれに、鼓膜まで腐食させられてしまいそうで。
『逃がさない、絶対に逃がさない』
『……の、ために』
『絶対にお前を逃がさない』
繰り返される呪詛に混じるのは、ガートルードも聞き覚えのある声だ。
『私はもう、お前などに囚われぬ』
『因果を曲げ続けた報いを受けよ』
『呪われし、……よ……』
どこかで身動きが取れなくなっているという、生まれたばかりの魔獣の王。
初めてガートルードに語りかけてきた時は、今にも消えてしまいそうな声だったけれど、昨夜はずいぶんとはっきりしていた。
だからガートルードも察することができた。あの恐ろしい怨嗟は囚われの魔獣の王に向けられたもので、魔獣の王は怨嗟の主に囚われ、身動きが取れなくなっていた。だがなんらかの手段で怨嗟の主の縛めを振りほどき、逃れようとしているらしい……と。
レシェフモートと一緒にいると忘れそうになるが、魔獣の王とは本来、人類にとって大いなる脅威だ。前世なら地震や台風といった天災のようなもの。出現すればあまたの魔獣を率い、群れをなし、大地を蹂躙する。そこに住まう人間ごと。
たまたま返事をしたばかりにつながってしまったとはいえ、縁は縁だ。ガートルード個人としては、かの魔獣の王が解放されたことは良かったと思う。
だが国家にとっては、新たな危機の出現である。
かの魔獣の王が完全な自由を得て群れを率いるようになれば、出現した国の民は大きな被害を受けることになる。女神シルヴァーナの加護のあるシルヴァーナ王国は大丈夫だろうが、他の国々……このソベリオン帝国も、標的になるかもしれない。
いずれ、アンドレアスにこっそり報告しておくべきなのだろう。だがそのためには、今日の皇帝夫妻主催の大舞踏会――祝賀式典のメインイベントを無事クリアしなければならない。
皇宮では規模を問わず夜会や茶会、舞踏会などが催されているが、すべてに皇族が関わっているわけではない。
高額の使用料と引き換えに、帝都住まいの貴族が私的な催しのため皇宮の一間を使うことも多い。皇宮は遊ばせている部屋で維持費を稼げるし、貴族は皇宮の権威を借りられるので、どちらにもメリットがあるのだ。
だがそうした場合、使われるのはほぼ公の空間である表の宮殿だ。皇帝の執務エリアであり、限られた高位貴族か側近のみしか入れない中の宮殿が貴族に貸し出されることはほぼない。たとえ侯爵や公爵クラスであろうと。
そうした事実を踏まえれば、今日、中の宮殿で催される大舞踏会に皇帝夫妻がどれだけ注力しているかがわかるだろう。中の宮殿という皇帝に近いエリアを対魔騎士団のために使うことで、自分たちは彼らをおろそかには扱っていないとアピールするつもりなのだ。
(つまり昨日以上に本気モードの皇后陛下が現れる、ってことよね……)
想像するだけでうんざりしてしまう。
できる侍女ロッテの聞き込みによれば、コンスタンツェは昨日練兵場から自室に戻ってしばらく休み、夕方には回復したそうだ。ジークフリートの呪いには、一時的に当てられてしまっただけらしい。
回復したコンスタンツェは、失ってしまった面目を取り戻し、今度こそ帝国最高位の女性として輝くべく躍起になっているという。昨日の夕方から侍女とメイドを総動員してドレスを仕立て直させ、ただでさえ豪奢なドレスは光り輝くばかりの絢爛豪華なものになったそうだ。
きっと昨日以上にきらびやかで大人の魅力満載のコーディネートで攻めてくるのだろう。そしてまたガートルードに対抗心を燃やしまくるのだ。こちとら張り合う気などまるでなく、いくらでも好きなだけ目立ってくださいとまで願っているのに。
(行きたくない……けど、行かなくちゃ)
大舞踏会にもモルガンは招待されている。コンスタンツェには思うところありまくりだが、ぜひとも一連の祝賀式典を成功させ、ガートルードを離婚させるのは無理そうだとモルガンに諦めさせて欲しい。
昨日の閲兵式だけでも食っちゃ寝ライフ的にはありえないブラック労働ぶりだった。今日もただ優雅に美味しいものを食べながらダンス見物……なんて許されないだろう。
(でも、わたしが表舞台に立つのはきっと今日が最後だもの)
モルガンを穏便に追い返せさえすれば、気軽な日陰の身に戻れるのだ。そのためには今日も気合いを入れて頑張らなくてはならない。たとえコンスタンツェにタワシのコロッケを食べさせられそうになっても。
(……それに今日は、ヴォルフラム皇子も参加するって聞いたわ)
しばらく会えていなかった小さな皇子。関わった時間はごくわずかなのに、不思議なくらいガートルードの心に残る少年。
今日は、彼と話せるのだろうか……。
「ガートルード皇妃殿下、ご入来!」
かすかに浮き立つ心をなだめながら、ガートルードは大舞踏会の会場に足を踏み入れた。エスコートはもちろんレシェフモートだ。
今日はレシェフモートもいつもより装飾の多い衣装をまとい、砂漠のハーレムの帝王感を撒き散らしており、主に貴婦人や令嬢たちの目を釘付けにした。華やかな美形を軽侮する傾向のある貴族男性さえ、感嘆の息を漏らすが、レシェフモートの金色の瞳が映すのはガートルードだけだ。
今日も基調となる色は白。前世の着物を連想させる襟に、ふんわりと膨らませたくるぶし丈のドレスだ。胸元は花びらをかたどった桃色のオーガンジーが半円を描き、ほころび始めた薔薇の花を思わせる。漂う東洋的な雰囲気は、帝国の人々の目には新鮮に、そして神秘的に映るだろう。
胸元よりほんの少しだけ濃い桃色の花びらは膨らんだスカートにも重ねられ、白いドレスを幻想的に彩る。胸高に結ばれた大きなリボンはさらに濃さを増したオーガンジーで、いくつものレース細工やアメジスト、ローズクォーツなどの淡い色彩の貴石で造られた花々がちりばめられ、高貴なきらめきを添える。
白紗の袖は先端にいくほど広がるシルエットで、前世では姫袖とも呼ばれていた。何重ものレースに縁取られたそれからは細い腕がかすかに透け、少女の清らかな色気とはかなさを強調し、見る者の心を揺さぶる。
両サイドでシニョンにし、一房だけ銀髪を垂らした頭には、胸元の首飾りと揃いの真珠のティアラ。どちらもレースを編んだような繊細さで、高位の貴族夫人といえども容易には購えない高級品だが、手に入ったとしても、その無垢な輝きに負けない自信のある者はそうそういまい。
帝国の貴色、紅色は避けながら、溢れる神々しさと華やかさ。
幼き女神のごとき皇妃に貴族たちはしばし呼吸すら忘れて見惚れ……誰かがごくりと唾を飲んだのをきっかけに、どっと歓声が弾けた。
「皇妃殿下! 女神の血を引かれる聖なるお方!」
「やはり、やはりこの方をシルヴァーナへお返しすることなどできぬ!」
「いっそ、この方を皇后にお迎えできたら……!」




