第22話 憧れの地にて
伝説通り鏡のように透き通った巨大な湖面には、夕に少し夜が混じったような空模様がそのまま映し出されていた。
そしてその湖畔には、数々の色とりどりの小さな花たちが絨毯のように咲き誇り、遠くの方には滝や頂上に雪が積もった山々が見えている。
「ロット、さん……」
ずっと憧れだったディアール迷宮第五階層は、エメリーヌの知る限り地上にはどこにもない、非現実的な美しい世界だった。
「まだ日が完全に暮れるまでには時間がある。少し、見て回るか?」
小さく頷くエメリーヌを見て、せっかくならとロットは彼女の手を取ってゆっくりと歩き出す。
「この辺だな。伝説の冒険者が思いを告げたというのは」
湖畔の中心に来たところで、ロットが教えてくれる。
リーヌは何も答えない。長年憧れ続けた大地にいるという感動が、いまだに言葉を抑えていた。
それから一通り湖畔を一周したところで、空の大半が夜に染まり、二人は湖と繋がっている小川の上流へ向かって移動する。
「ここは……」
「この向こうに野営に適した空洞がある。知っているだろう?」
軽快な音を立てて小川の流れを作っている滝の裏側を指すロットの言葉に、ようやくエメリーヌも思い出す。
滝の裏側にある小さな洞窟は、憧れたおとぎ話の中でも主人公たちが休息を取るためにつかっていた場所だ。
「ここで夜明け前まで休憩しよう。その後は――」
二人で顔を見合わせる。そして、お互いに少しだけ頬を赤くする。
「楽しみにしてます、ね」
「ああ。ちゃんと準備はしている」
準備をしているというロットの言葉に、一瞬だけ心臓が小さく跳ね上がる。
「疲れただろう。とりあえず時間まで休んでいてくれ」
「はい」
空間の隅の方へ移動し、そのまま足を折りたたんでその中へ顔を沈める。
何年も抱き続けていた願いが、これから叶う。
だというのに、不思議と緊張はない。
昨日はまで上手く寝付けなかったというに、すぐにまどろみの中へ落ちてしまいそうだ。
外から聞こえてくる滝が落ちる軽い音が、妙に心地よくて、そのままエメリーヌは眠りについた。
それから数時間が過ぎた頃、エメリーヌは自然と目を覚ました。まるで、そのときが来るのをわかっていたかのように。
「起きたか?」
「はい」
「まだ時間まで少しあるが」
「外へ出ましょう」
「わかった」
夜のディアールも見てみたい。
外に出ると、小さな満月の仄かな光だけが外を照らしていた。
迷宮内の夜空には、星はない。あるのは月だけであり、そういった部分は他の迷宮のフロアと変わりない。
ただ、だからこそ、心が変に踊るようなこともなく、そのときが来るのを落ち着いて待つことができている。
「この辺でいいだろう」
ロットは立ち止まると、その場に腰を下ろす。
最初にロットと見たスポットから僅かに離れた、湖と花の絨毯が見渡される場所だった。
エメリーヌも腰を下ろすと、ロットが語り掛ける。
「どうだ、ここは?」
第五階層に来てから、会話と呼べるようなことをしていない。
言葉にならない感動で、ほとんどエメリーヌは言葉を口にしていなかった。
これからあることを考えると、そろそろ会話をしておきたいというのがロットの本心だった。
「すごく、幸せです」
まだ、本番はこれからだというのに、エメリーヌはずっと夢を見ているのではないかという、非現実的な心持だった。
辛うじて絞り出したエメリーヌの言葉を受けて、ロットはそっと彼女の肩を自分のほうへ寄せる。
「ロットさん……」
「俺も同じだ」
ロットは穏やかな笑みを浮かべながら続ける。
「正直、朝が待ち遠しい」
「おとぎ話のようには、いかないですね」
「そうだな」
おとぎ話では、結ばれる二人が今まであったことを、懐かしく和気あいあいと語る場面が描かれている。
だがあいにくと、知り合ってまだ約一月のエメリーヌたちに、同じことするのは少しばかり難しかった。
「この際、将来の話をしようか」
「――っ、いいですね。それ」
これから先――結ばれた後の未来について、語る。
それは今の二人だからこそできる話だった。
「まずはロットさんの実家へのご挨拶ですね」
「その前に、リーヌの実家が先だ」
「私、勘当されてるんですよ?」
「御父上はそうは思っていないようだが?」
「……」
エメリーヌは頬を膨らませる。ここに来てようやく自然な表情が見られたことに、ロットは心の中で一息ついた。
そこからは、本当に他愛のない将来への希望を二人で語り続けた。そして――。
「そろそろ、だな――」
空がほんのりと明るくなり始めた。
ロットが先に立ち上がり、リーヌの手を取って湖の近くまでエスコートする。
「リーヌ」
「はい」
優しく名前を呼んでくれたロットの茶色の瞳と、リーヌの青い瞳がかわされ合う。
そのタイミングを見計らったかのように、湖面に朝日の黄金の輝きがきらめき出した。
ロットは懐から小さな白い箱を取り出すと、その場に片膝をつく。
そして、箱の中からリーヌの瞳と同じ色の宝石をあしらった銀色の指輪を差し出した。
「エメリーヌ。俺と結婚して欲しい」
おとぎ話とまったく違わぬ、純粋で真っすぐな求婚の言葉。
ロットには似つかわしくない言葉を選んだということが、エメリーヌへの愛の表明だった。
エメリーヌの手は真っすぐに指輪を越えて、ロットの首元へと回された。
「はい――」
十年以上夢見てきた瞬間を、ようやくエメリーヌは迎えたのだった。




