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壁面で、金属フックがワイヤーを滑り落ちる。
摩擦による軋みと回転音が反響し、火花がわずかにその軌道を照らしていた。
ワイヤーの振動が安定するたび、重力任せの滑降は速度を増す。
「ちゃ、着地、気をつけてくださいね!」
先行して降下したランカの声が、下方から届いた。
「気をつけてるって……ぐうっ!」
思うようには反応できず、着地に少し失敗。
膝を軽く打った。
ブレーキスライドの挙動は良好だったが、接地の衝撃吸収を見誤った。
「痛い…...」
膝を撫でながら顔を上げると、そこは崩れた都市の残骸。傾いた床と、割れたタイルの隙間から配管が覗く、元居住層のような空間が広がる。
頭上には、断面を見せたコンクリートの切れ目。その隙間から、地上の光が僅かに差し込んでいた。
ここがCOREの初層。
沈んだ都市の最も浅くて、比較的危険が少ないとされる領域。
「だいじょうぶ……ですか?」
隣に立つ彼女はこちらを見つめる。
その肩には変わらず、例の大きなリュック。
表情に緊張は見られない。
「も、問題ない……」
「ワイヤーはそのままで。帰るとき使うので。こっちです。初期キャンプ、すぐ近くにあります」
瓦礫の山を踏破し、彼女は迷いなく先導する。
崩落した壁の隙間を抜けると、遮蔽された小規模な空間が現れる。
天井には破損した太陽光パネル。
補助電源に接続された蓄電灯が断続的に点滅していた。簡易的ではあるが、拠点とみなせる機能が残っていた。
「探索のまえに、準備します」
「準備?」
彼女はリュックを床に下ろす。
音が床に響き、質量の大きさを物語っていた。
「……なに入ってんのそれ」
「えっと、ですね」
彼女は手早くリュックを展開し、中身を取り出していく。
出てきたのは、折り畳み式の簡易シェルター、三脚スタンド、くるまれた防護シート、ポータブル電源、各種工具類さらに──
レンガ状の栄養ブロック、ライスパック、スープ缶、レーションゼリー、スナック、ビタミングミ——
「いや、多いっ……泊まるのか!?」
「えっ、えーと……わ、私、ちょっと夜にお腹すくタイプで……その……」
彼女はしおらしく笑いながら、エナジーバーの束を胸に抱える。
「明日の朝までには帰る予定ですけど、念のため。こっちは非常食と非常非常食、おやつを少しだけ。甘いのとしょっぱいの。あとはお水とお茶、コーヒー……」
「非常非常食……」
その見た目からは想像もできない、圧倒的な物量だった。
「あ、防護フィルム、貼ってください!」
彼女が続けて取り出したのは、掌サイズの楕円形デバイス。表面にある小さなスリットから、フィルム状の素材がわずかに覗いている。
「貼る?」
「あっ、すみません……あの、服、ちょっとだけ、めくってもらえますか」
「……こう?」
「は、はい、胸の中心あたり。心臓の上。そこが一番安定するので」
躊躇いながらシャツの裾をまくると、彼女はそっと膝をついて手を伸ばした。
「ちょっと、冷たいですよ……失礼します」
彼女の指先が、ほんの一瞬だけ肌に触れる。
そのまま、楕円のデバイスを胸骨の上にぴたりと貼りつける。
「これで……起動します。はい、ここを──」
そのまま上部を押下すると、青白く発光する。次の瞬間、音を立ててフィルムが展開した。
薄く光沢のある膜が身体に沿って滑る。
首筋、肩、脇腹、背中——全方位に一瞬で拡がり、ぴたりと上半身に密着した。
「うわっ、すげぇ……」
「サイズも自動調整です。通常の衝撃ならある程度吸収してくれるので安心です。あとは……」
彼女が取り出したのは、小型のキャリーケース。丁寧に梱包されていたその中から、ヘッドセットを取り出した。
「頭の防護と、ここから先は裸眼だとキツいですから」
「たしかに、暗いな…..」
「予備ですけど、動作は確認してます。頭のサイズ、大丈夫かな……」
フレームは金属と樹脂の複合素材。
側頭部から後頭部へと回り込むアームが、やや無骨な印象を与える。
「少し……下げますね、失礼します」
差し出されたヘッドセットを、素直に受け取る前に、彼女がすでに手を伸ばしていた。
両手を構え、ゆっくりと装着させてくれる。
耳にかかる部分が柔らかく沈み、後頭部のロックがカチリと鳴った。
「起動しますね。ちょっと眩しいかもしれません」
「うぉ……っ」
カツン、と起動音。
数秒のラグの後、網膜上にUIが順次描画される。視界は拡張された視覚情報の層に置き換えられていった。
《AkatsukiOS——SYSTEM BOOTING》
網膜上に光学ラインが走り、複数のUIタブが展開、整理されていく。
「なんかいっぱい出てるぞ」
「初めはしばらくかかります。私も……着けますね」
そう言って取り出したヘッドセットは、手渡された無骨なデザインのものとは少し違っていた。
輪郭は細く、コンパクト。
マットな白基調に、淡いグレーの差し色。なんとなく、洗練されていたデザインにも見えた。
「なんかそっちのが良さそう……」
「い、一応、両方とも推奨機材です。安い方ですが、こっちはメイン機なので。好きなスキンも重ねて、奮発しました」
彼女は手慣れた様子で、前髪をかき上げると、ヘッドセットを耳元から滑り込ませるように装着した。スッと輪郭がなじみ、頭部の形に沿って自然にフィットする。
彼女が装着を終えると、システム起動のインジケーターが視界の右上で点滅した。
《STREAM - LOCAL》
[STREAMER: Unknown | CLASS: —]
[DEVICE: LICENSED /
CONNECTED: “AkatsukiOS Ver 3.5”]
「なんか終わったっぽい」
「問題なさそうですか……?」
彼女が視界を覗き込むように覗いてくる。
ヘッドセット越しに、その目と視線が合った。
すると、HUD上の透過インターフェースが自動的に切り替わる。
《STREAM CONNECTED》
赤外線タグが彼女の輪郭をなぞり、数フレームのラグののち、データが表示された。
[STREAMER: RANKA | CLASS: —]
[DEVICE: LICENSED / AkatsukiOS Ver 5.2x]
[STREAM: LOCAL]
「……ランカ」
「は、はい、ランカです。すいません、名乗ってなかったですね」
彼女——ランカは、どこか照れてるように、笑って軽く頷いた。
「あなたは……」
彼女の視線が胸元あたりを見つめる。
AR表示されたストリーマー名が、そちらにも映っているはずだった。
「unknown、になってます」
「まだ設定されてないんじゃねえの」
「じゃあ……名前、決めてください。せっかくなので」
「……ユウでいいよ。YUU。短いし、覚えやすいし」
「で、では……よろしくお願いしますユウさん」
「よろしく」
静かな光が、彼女の瞳の中で一瞬跳ねる。
その直後、HUDが自動更新され表示が切り替わった。
[STREAMER: YUU | CLASS: ——]
インジケーターが一段階明るくなり、二人の間に静かな起動音が響く。
それは探索の開始を意味していた。




