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部屋に戻ると、空調は以前と変わらぬリズムで稼働を続けていた。AIナビゲーション“ニエル(Niel)”の投影が壁面に再表示される。
幾何学形状のアイコンが、点滅サイクルを保ったまま待機状態へと戻る。
『体温の上昇を検知。空調を調整します』
『未処理タスクが残っています。推奨される午後の選択肢が残り3件です』
「……再生リスト、昨日の続きから」
案内を無視してソファに崩れ落ちるように座る。
モニターに写し出されたタイトルは『真夜中の捜査線・2099』。刑事が過去の未解決事件をARで再構築する、というやや古めの連続もの。
顔に火傷痕のある刑事が、部下の胸ぐらを掴み『馬鹿野郎!ハッキングは挨拶から始めろ!』と叱咤するシーンから始まった。
「なんの話だこれ」
独り言のように呟きながら、袋からハンバーガーとポテトを取り出す。すでに冷えて硬くなりかけたバンズにかぶりつきながら、画面の光に目を細めた。
──数時間が過ぎた。
外光がオレンジ色に変わり、照度センサーが連動して室内の色温度も変化していく。
ドラマの4話目が、ちょうどエンディングに差しかかったところだった。犯人の自供を聞いた刑事が『その涙、AIにも読めなかったぜっ……!』と決め台詞を吐き、そのままエンドロールが流れる。
次のエピソードに入る前、画面がフリーズした瞬間に、それは表示された。
『お知らせ:本日十七時以降の作業登録が可能です』
『推奨候補:旧中野区側 警備補助員/
日給: 10,120円/集合:17:50』
ニエルのアイコンが、壁の左端に浮かぶ。
投影光はやや明度を増していた。
『17時31分以降の便では現地到着が困難です。最寄り乗車駅からのルート案内を表示しましょうか?』
「わかったよ、行くよ……」
『作業登録が完了しました。推奨出発時刻まで、あと十五分です』
「ばか、すぐじゃねぇーか」
重い腰を上げ、支度を始める。
水分補給ボトルとタオル、モバイルデバイスを鞄に放り込んだ。手馴れた流れではあるが、気はまったく乗っていない。
──ドン。
背後、壁の向こう側から微かな衝撃音。
思わず手が止まる。
続けて、重い物が引きずられるような音。
いつもの、あの部屋の音だ。
「んだぁ、またか?」
と、ため息混じりに天井を仰ぐ。
(出るのか……会いたくねぇ、タイミングずらすか)
そう思いながらも──
『出発推奨まで──残り4分です』
「うああ……ギリすぎる……!」
手早く準備を済ませて、バッグを背負い、デバイスをポケットに滑り込ませる。
そのまま玄関のドアに手をかけると、ほぼ同時に隣のドアも開いた。
「うおっ……!」
「っわ、あっ」
出て左側、不意に飛び出してきたのは、背の低い小柄な、おそらく女の子だった。
だが最初に目を引いたのは、その背負っているリュックだ。明らかに体格に合っていない。
本人の小柄な身体にはあまりに大きすぎだ。
「あっ、ご、ごめんなさ──」
こちらに気づき、振り返ろうとした彼女がバランスを崩す。そのまま二、三歩、後方によろめいたかと思うと──
「ちょ、バカっ!」
背中から着地するように倒れ込んできた。金属フレームが胸部に食い込むように押し付けられ、全体重が上から乗ってくる。
「きゃぁ!」
「っぐ……おい……!」
声が漏れる。見た目からした想像より、ずっと重かった。正確には、彼女の背負っている荷物が重いのだ。
女物にしては無骨すぎるリュックは、内部になにが詰まっているのか想像もつかない。
フレームが肋骨の上できしんだ。
「ぐっ、重っ……痛い痛い!」
「す、すみません!すぐどきますっ!」
懸命に身じろぐが、重量の大半が背後の荷物に集中しており、起き上がるには手順が足りなかった。
支点を失ったままの彼女の身体が、さらに沈み込んでくる。
「おいっ、食い込んでる!」
「す、すみません……その、いま動け、ないっぽいです……!」
背中に重心が完全に乗ってしまい、腹筋だけで起き上がれない状態らしい。
「いや……リュック!」
「は、はいっ?」
「一旦降ろせ!」
「あっ、はいっ!」
バックルを外す動作。
わずかに手が震えていた。
カチリというクリック音の後、リュックが床に沈むように落ちる。
ようやく、彼女は両手で体を起こし、距離を取った。
「すみません……ほんと……!すみま——」
そのとき、ポケットに入れていたデバイスが震えた。外出モードに変わったニエルが無機質な声でアナウンスを告げる。
《出発予定時間を大幅に超過しました。推奨時刻までの乗車は困難です。当作業登録はキャンセルされます》
「あっ……」
端末の画面には“キャンセル処理完了”の文字が浮かんでいた。
その横で、おろおろと立ち上がりきれずにいた彼女は、乱れた髪を直しながら、気まずそうにこちらを見上げてくる。
「あ、あの、お怪我とか?」
「いや、ねぇけど」
「その、いま、お仕事が……」
ほっと一息ついた彼女の視線が、床に落ちた端末へと向けられる。
「まぁ、うん」
「うう、ごめんなさい……!その……私のせいですよね?」
「いや、いい。どうせ気乗りしてなかったし」
彼女はむしろ深刻そうに眉をひそめた。
「あ、あの私、払います。その分、立て替えます」
「あぁ?」
「わ、私のせいなので。おいくらでしょう…..」
慌ててそう言いながら、ポケットをごそごそと探っている。
それを見て、つい口を引きつらせた。
「いや、いらねぇよ。なにもしてないのに」
「でもっ……」
水掛け論になるが、言葉を重ねた彼女の目は、思った以上に真剣だった。軽く手を上げて制止しようとしたが、思いのほか引き下がる様子はない。
「だ、だったら……」
彼女は一度、思い詰めたように深く息を吸い込んだ。少し呼吸を整えてから、まっすぐこちらを見上げる。
「じゃあ……私が貴方を雇います。今日の仕事をお願いします…?」
「あぁん…..?」
「その、お金の代わりに、今日の仕事をお願いしたいです……それで、どうですか?」
彼女の厚い前髪の隙間から、初めて視線が合う。くすんだ茶色い色の瞳だった。




