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『時刻は午前十一時です。外気温は摂氏二十八度、降水確率は——』
東京都三鷹市、吉祥寺第五ブロック。
鉄筋構造の集合住宅。
その四階の一室に、無機質な女性音声が響いていた。
ソファの上で、寝返りとともに、短くうめく。
「……腰いてぇ。まーたここで寝ちまった」
窓のブラインドは閉じられている。
だが、隙間から漏れる光と、壁に投影された居住AIナビ“ニエル(Niel)”のアイコンが、部屋全体をぼんやりと照らしていた。
「くそっ、朝っつーかもう。昼前か……」
テーブルの上にあったエナジードリンク缶を惰性で口に含む。炭酸はすっかり抜けて、内容物は常温に近かった。
目覚めに反応し、ブラインドが自動で開く。
青白い光が部屋に流れ込み、壁の影がゆっくりと動いた。
髪をかき上げながら立ち上がると、窓に反射した自分の姿が目に入る。
派手な金髪は寝癖で乱れ、眉間には不機嫌そうな皺。
よれたシャツから除く首筋には火傷跡。
我ながらガラの悪い見た目。
小柄なのは元々だが、最近ろくに食えてないせいか、また少し痩せた気がする。
窓の外には、再開発中の都市と、背後にそびえる、廃墟を隔てる巨大な構造物、【中央監視壁”中野ライン”】が霞んでいた。
その壁の向こうは”旧新宿構造圏”。
地殻変動により、沈んだ都市の一部。
今やダンジョンとすら呼ばれる地下層に変貌した、都内中枢エリアが広がっているらしい。
『本日予定の未処理タスクがあります』
『最優先提案は:旧中野区側 警備補助員(昼勤/夜勤・時給1,120円)──午後の便に空きがあります』
「またそれかよ……だりぃんだよなコレ」
この部屋に越してきてまだ一ヶ月。
変化を求めてこの都市へ移ったが、変わったのは窓から見える景観だけ。
足元に転がっていたクッションを払い除け、ソファへ背を預ける。
革張りの生地が小さく軋んだ。
視線は自然と正面のモニターへ向かう。
いつのまにか、見ていた映像は終了しており、自動再生の広告に差し替わっていた。
《潜れ。観ろ。投げろ。》
《TOKYO DEEP - 本日20時》
《CORE MEDIA SYSTEM ─ONLINE
CORE—常時監視中》
「腹減った」
まだ完全に覚醒していない身体。
強烈な空腹でもない。
ただ、生理的な順序として、次に来る感覚。
「ニエル、デリバろう。適当にファストフード」
『検索条件:近隣配送可能・即時対応』
『混雑状況により、現在の最短到着見込みは──四十五分後です』
「遅っせぇな。まぁ、いいやそれで」
『決済中です——決済が拒否されました』
「……はぁ?」
一拍置いてから眉をひそめた。
ニエルの投影アイコンが、変わらぬ無表情で部屋を照らしている。
「なんでぇ?」
『前回の定期課金処理が未完了のようです。残高の再確認、または別の支払い方法をご登録ください』
「マジ……貯金は?」
『直近の支出履歴:住宅賃料・オートローン・各種サブスクリプション三件──』
「ローン、まだあったのか。ってか、家賃……今日だった?」
『はい、五時間前に決済されました。遅延処理は適用されていません。翌月更新は二十七日です』
「生きてるだけで金かかんな」
空き缶をぐにっと握り潰して、ため息と一緒に立ち上がる。
「もういい、久しぶりに外で食う。角のハンバーガーショップ、まだ潰れてねーだろ」
そう呟いて、着替えを探しながら部屋を一周したそのときだった。
──ドン、と壁が鳴った。
隣の部屋。
薄い壁越しに、倒れるような音。
「んだよ……?」
立ち止まり、なんとなく耳をすます。
続けて聞こえてくるのは、なにかを運ぶような重い足音。
生活音と呼ぶには、少しだけ異質だ。
隣は見たことのない住人。
引っ越してきてから、顔を合わせた記憶すらない。
だが、ほぼ毎日、昼前と夕方頃にガサつく気配がある。
(夜勤の仕事かなんかか?)
少し気にはなるが、騒音と言うほどでもない。
詮索する気も起きず、脱ぎ捨てたままの安物ジャージに袖を通す。
「ニエル、出てくる」
『承知しました。ナビゲーションは停止モードに移行します。いってらっしゃいませ』
「ん」
潰れたサンダルを履いて、ドアを開ける。
昼前の、強い日差しが顔に突き刺さった。




