人魚姫の消失
ジョゼは破片に埋もれていた。ガラス製の食器の破片に歪んだ自分の顔が映る。ジョゼはおもむろにそれを拾い上げる。角は丸いが、高さ方向には薄く鋭利だ。ジョゼの柔らかな皮膚は容易に傷つき、だらりと血が垂れる。
しかし、なぜか痛みは感じない。きっとあまりにも鋭利だから、皮膚の細胞が切られたということに気づいていない。代わりに感じるのは自分の冷たい体温だった。なぜ温かいはずの血が冷たく感じるのかは知れない。
ジョゼは冷たい冷たい海の底の水のような血を手のひらから肘へと流し、深く深く暗い海の底へと、自身を囲む無数の破片とともに身を落とした。息苦しさは感じない。むしろ母なる海へと自分が還っていくような心地よさを覚える。ジョゼは水底に頬を摺り寄せながらうっすらと笑う。
「堕ちていく、あたしは堕ちていく……」
うわ言を呟きながら、思い描くのは想い人の顔。
「シャルル……」
脚で冷たい海水を漕いで水底の砂を巻き上げ、自らの視界を閉ざす。白い白いマリンスノーが霧のように舞い上がり、追憶を映し出すスクリーンになる。人魚姫はそっと心の中の映写機の電源を入れた。
「ジョゼ、見えるかい?」
雑音にまみれて、父の声がする。先ほどまで自分が浴びせられていた怒号ではない、優しい声だ。でも今ならわかる。その優しさは、見せかけのものだったと。
「あれがこの国の王子、シャルルそのひと」
ならば父の愛情はどこに向いていたか。それは彼の目線の先にあったのだろう。そしてそこにあったものはジョゼの目線の先にも鎮座していた。闘技場。血みどろの決闘や模擬戦闘が繰り広げられる円形のステージをぐるりと囲むようにして広がる客席。その中で最も試合を見るのにいい位置でかつ、観客からも最も目立つ位置に一際豪華な装飾された玉座ともいうべき客席があった。そこに腰を下ろしていたのはもちろん、この国で最も敬意を払われるべき人物。王子シャルルだ。
父の愛情は私に向けられたものではない。
王子シャルルの手のひらの上に乗っていた世界。
この国のすべてを意のままにできる権利。
実際は、そこまでの独裁権は王子にはないのかもしれない。
それでも、この国に暮らすものにとって、間違いなく王子はこの国の象徴であり全てだった。いくら一介の貴族として資産を持っていようが、そこに憧れの念を抱くのはおかしな話ではない。
「お前は、あの王子のお嫁さんになるんだ」
「え……? 本当に……?」
ジョゼもそうだった。いや、少し違う話かもしれない。
ジョゼの目に映っていたのは、青く透き通ったその瞳。短いながらも手入れの行き届いたしなやかな頭髪。気品を感じさせる端正な顔立ち。まだ互いに幼い心と体をしていたが、その姿が目に入った瞬間、ジョゼの小さな心臓は得体の知れない疼きを覚えた。
「ああ、お前が望めばきっとなれるさ」
だから、ジョゼは生きてこれた。今まで生きてこられた。たとえ父が自分を愛していなくても、自分が自分が王子シャルルを手に入れれば、きっと。きっと……。
「よくも何の手ごたえもなしに帰って来たなっ! この馬鹿娘がっ!」
耳鳴りがする。眩暈がする。頭の中に聞こえていた父の声からは見せかけの優しささえ無くなっていた。本当に目前まで来ていた王子シャルルと結ばれるという夢を掴み損ねた、自分への失望。色が濃すぎて、半ば憎悪ともとれるようなそれは、ジョゼの頭蓋を激しく揺さぶった。
「王子の子を孕んででも、それを掴んで来いと言ったはずだ」
そうなりたい。ゆくゆくはそうなりたい。王子シャルルと結ばれたい。
子供を産むのなら、王子シャルルの血を引いた子供を産んで、その子供を愛したい。それは嘘じゃない。嘘ではないけど……。
「どうせ、王子と結ばれれば、その子を孕むんだ」
もっともっと。描いていたのは詩的な感情。そんな禍々しい肉欲なんかじゃない。
きっと、きっとそう。
恋の結末が性交だとか。所詮、恋愛は詩的なセックスだとか。どんな哲学者や心理学者が毒を吐こうと、信じたい。愛はもっと別のところにあるはずだと……。
「処女など捨ててしまえ!股を開いて喰らいつけ!」
でも世界はそれを許してくれない。皇太子妃になれない娘など、父親は欲していない。欲していないのだ。だから、殺すしかなかった。自分が家族の中で立場を失わないために、ジョゼは心の中で異を唱えるプラトンを殺した。
プラトニックな感情など、存在しないのだと。そんなものは万物の霊長と自らを奢る人間の浅はかな思い上がりなのだと。
自分に自分で呪文を唱えると、人魚姫は水底を尾ひれで蹴って、遠い遠い水面へと泳ぎ始めた。透き通る水面から刺す月明かりに向かって。
*****
同じころ、水面下を知らない王子シャルルは気まぐれに城を抜け出していた。気まぐれどころか、もはやお忍びで城を抜け出す行為は日常茶飯事を通り越して、半ば義務としての日課のようになってしまっている。大臣も最初こそご丁寧に苛立っていたが、もう最近は呆れてしまっている。一国の王子が月の高く昇る真夜中にひとりきりでうろつくとあれば、何かがあったらどうしようというのか。最初はそう表向きに考えていた大臣も、もう今では知ったことじゃないと開き直ってしまっている。口の減らないお荷物がいなくなってくれれば、責任さえ問われなければ万々歳とまで思っている始末だ。
そう思われていようが、いなかろうが、王子にはどうでもよかった。ただシャルル王子は、いちいち付き添いがなければ城を出られないというのが窮屈で仕方がなかったのだ。とくに、綺麗な月が出ているこんな夜には。
「……良い月だ。こんな夜に街には人の気配がないなんて何とももったいない話だ……」
冷たい夜風を顔に受けながら、月を仰ぎ見るシャルル王子。人気のない、やけに静かな夜の街。ところどころ燭台の光が窓からちらほらと漏れているだけの静寂に包まれた夜の帳の中、王子の石畳を踏みしめる靴音だけが木霊する。孤独に月とは、なんとも風流なものだ。今自室に戻ったならば、すぐさま羽ペンが羊皮紙の上を泳ぎ出すのだろう。いや、今もすっかり、宙に文字を泳がせてしまっている。泳ぎ回るそれを掴みとるかのように手を動かす。タクトを振るように手を動かせば、月明かりに乗って言葉の雨が降り注ぐかのようだった。
ぽつり。
そして、雨音は誠になった。言霊とはこういう現象を指すのだろうか。いや、シャルルは望んでなどいない。美しい月が雲に覆い隠され、強い雨が地を打つことなど。ぽつりぽつりというのは本当に一瞬で、あっという間にけたたましいくらいのどしゃ降りになってしまった。もう手遅れなくらいに濡れてしまったが、王子は庇の下でしばし雨宿りをすることにした。
「シャルル王子様……」
ふと背後から聞き覚えのある声がした。ほんの数時間ほど前に聞いていた声だ。振り返るとそこには人魚姫が、水面から上がったそのままのように衣服をぐっしょりと濡らしながら立っていた。
「……ジョゼ……」
闇にまみれた猫のようにジョゼの瞳は光っていた。光っていたけれども暗い光だ。喩えるなら闇の力や邪悪なものが、創作物で実際には存在し得ない黒い光として描かれるような。そんな得体の知れない眼光が、シャルル王子に向けられていた。
「奇遇ですね。あたしも月を仰ぎ見ていると雨に降られてしまって」
「……そうか、偶然だな……」
ジョゼとは大臣が仕組んだ縁談以外で顔を合わせることはないだろうと思っていた。思っていたからこそ、大臣の仕組んだ縁談への拒否反応として、彼女を邪険に扱ってしまっていた。だが、大臣の思惑の絡まない今、いったいどのような態度をとればいいのか。シャルル王子はすっかりきまりが悪くなってしまっていた。だがたじろぐ王子とは対照的にジョゼは、制動を司る要の部品を海の底に置いて来てしまっていたのだ。
「……濡れてしまったから、寒いですね……」
「そうですね、少し秋に近づいているのですかね」
王子の肩は少し震えていた。寒いからというのもあるが、別の理由が確かにある。悪寒だ。悪寒、ゆっくりとさりげなく、体温を求めてすり寄るようにして冷たい獣がこちらへと近づいて来る。その度に臀部から首筋に向かって無数の虫が駆け上がって行くかのような感触を覚えつつも、その場から動くことができない。ついに、獣の人魚の手が、王子の右の手を取った。冷たい。雨でぬれているからとかじゃなく、体温そのものが零度を下回ったかのように感じられる冷たさだ。
「……寒い……寒いよ……、シャルル……」
雨に濡れて乱れた髪をだらりと垂らし片目だけが覗くジョゼの顔は、童話の人魚姫というより、神話上の怪物として描かれる人魚のようだった。人を水底に引きずり込んで喰らうという化け物だ。化け物は冷たい手で、王子の頬の線をなぶるように撫でた後、口角を引きつらせ、青い唇を青い舌でなめた。そして、一思いに王子の肩に体重をかけて押し倒し、抵抗しようとする唇を自らの唇で栓をした。
呼吸ができないように。彼が冷たい水底で溺れ死ぬように。
ジョゼはシャルル王子の呼吸の術を奪った。舌を入れて、舌を探る。だが、それは器用にもジョゼを避けていた。やがて、もがき苦しむ王子の両手が、覆いかぶさるジョゼの上半身を引きはがそうとする。
泣きたくなった。いや、泣いていた。
ジョゼは嗚咽を漏らしながら両の眼からだらだらと涙の河を流していた。
遠い。触れれば触れるほど遠くなるのが分かっていく。引き留めたい。必死に水面へ向けて泳ごうとする彼の脚を引っ掴みたい。引きずりおろしたい。自分と同じく冷たい水底へ。
ジョゼは濡れてべっとりと皮膚に張り付いた自らの衣服を引き裂いた。夜の寒さが白い柔肌の向こうの青い静脈を浮き立たせているのが、シャルル王子には死体の肌に見え、それに劣情を感じることができなかった。たとえ胸のふくらみをジョゼが露わにしても、シャルル王子にはその向こうの心の中にある冷たい何かが目についてしまっていた。だから王子は後ずさりをして、叫んだ。
ジョゼが怖かったというのもある。だが何よりも、ジョゼには自分を大切にして欲しかった。
「やめてくれっ!」
だがその言葉はジョゼには、他でもない拒絶として伝わり、彼女の心を鋭く刺した。ついには、王子に振り向いてもらえなかった。自らの身体を捧げようとも、自分に王子は手に入らないという事実を突き付けられてしまった。心も身体も否定された今、自分には何が残っているだろうか。ジョゼは存在価値のなくなった自らを哀れんでただただ声を上げて泣いた。
「ジョゼ……、何があったんだ……」
「……、なかったのよ……何も……。最初から……あたしには……。何もなかったのよ……」
糸のように細いかすれ声を漏らすと、ジョゼは敗れた衣服でかろうじて胸元を隠した後、化け物染みた速さで暗い暗い水底へと帰っていった。シャルル王子は潜り、必死に必死に追いかけたが、黒い闇のビロードがそれを阻んだ。まるでジョゼが、もうかまわないでと王子を突き放しているかのようだった。結局、深海に沈んだ人魚を探すことは叶わなかった。
人魚を見失ったあと、雨は嘘のように止んだ。黒い水面を見つめる王子の濡れた背中を再び、青い月明かりが照らし始めた。




