壊れ始める心
》
人魚は沈んだ
冷たい 暗い 海の底
貝殻の胸当てをなくしたの
君はそう言ったけれど
僕には君の胸が見えない
君はそう言ったら
悲しい顔をして消えてしまった
人魚は沈んだ
冷たい 暗い 海の底
これは、ジョゼを見失ったあと。夜明け近くまで彼女を探した挙句見つからず、諦めて自室に帰ってから羽ペンを手に取り、王子が書きあげた詩です。ジョゼの様子に気味の悪さを感じていながら、やはり心配していたのでしょう。しかしながら、このあと、ジョゼは消息を絶ち、家族のもとにも戻ることはありませんでした。父親でさえ、王子との縁談を逃した娘に興味はないと言わんばかりに一切の捜索も出しませんでした。
にもかかわらず、ジョゼの消息が判明いたします。なぜだと思います?
それはこれからご説明いたしましょう。
ここからは、ジョゼの失踪から二ヶ月が過ぎてからのお話です。
》
――城門の前には石造りの円形の広場がある。その中心には噴水があり、その噴水を囲むようにして、食糧品や衣類、装飾品を扱う店がぞろぞろと軒を連ねる。城門からすぐの広場ということで、街の中心地として非常に活気があるのだが、広場に出す店は城の周辺に住む貴族や、城内を警備する兵士たちを買い手としてか、若干値段が高めだ。そこからちょうど通りをひとつふたつまたいだところにも、店が今度は直線状に軒を連ねている。こちらは庶民向けのものが多く、中には問屋のようなものがあり、国が違うのではないかと錯覚するような値段で売買がされている。
そして、この市場にシャルル王子はお忍びでよく訪れるのだった。お忍びとは言っても、大臣や兵士たちに知られていないというだけで、本人は堂々と顔を隠しもせずに品を吟味しているのだが。
この日、王子は花屋を訪れていた。
「シャルル王子様、またお忍びですか」
「忍んでいるつもりはないが、口外だけは遠慮しておくれ。 バレたらまた生産性のない説教を大臣から聞かされる」
花屋の店主は、いかにも気のいいおばさんといった具合で、王子のお忍びを口外する様な野暮な真似はしそうにはない。‘また’という言葉遣いからも慣れた様子が伺える。
「で、今日はどんな花をお探しですか」
「いいえ、その花はまだこちらには並んでいない」
王子の返事に、花屋の店主は口の前に手を添えて大きく笑う。
「まさか、またあの花をお目当てですか」
「その顔はなんだ? 高嶺の花とでも言いたいのか」
そう、王子が言う花とは、花屋の店先並んでいる品物ではない。そろそろこの店に客として現れるはずだ。後ろでまとめられた亜麻色の長い髪は、腰に届こうかというところまで伸びている。にも拘らず、根元から毛先まで芯が通っているかのように、しなやかで癖ひとつない、真っ直ぐな髪。透き通った瞳に端正な顔立ち。そしてそれらを包み込む、まるで自らの可憐さに気づいていないかのような主張しない服装。いや、もとより彼女は煌びやかな服を変えるような身分ではないため、ひとりの町娘として慎ましやかな服を身にまとっているだけなのだが。
「あ、おはようございます。シャルル王子様、また会いましたね」
彼女は、シャルル王子の姿に気づくと頭を下げてにっこりと微笑みながら礼をした。一輪一輪を愛でるような慈愛に満ちた瞳を運ばせる彼女もそうだが、その微笑みもまた魅力的だ。シャルル王子はどうやら、彼女に会うために毎朝のようにこの花屋に顔を出しているということらしい。
「今日はどんな花を探しているんですか」
「……いいや、とくには決めていない」
「いっつも決めていないんですね。単純に花という存在が好きなのか。それとも……、何か別の目的があるのか」
どこまでもどこまでも見通せてしまいそうな透き通った瞳にふさわしい洞察力。思わず王子は肩をびくつかせてしまう。幸い、彼女は自分が図星を点いたということまでは考えが及んでいないようだが。いや、そこに関しては王子が鈍いだけなのかもしれない。シャルル王子の心の中に咲いた一輪の花。
彼女の名前は、メアリー。王子が縁談を跳ねのけて自ら妃にしたいと所望したのは、ほころんだ箇所をつぎはぎで押さえたような服を着る町娘だった。
そして、この事実に禿げ上がった額を押さえて唸るのが世話役の大臣だ。あれから、ジョゼのほかにもいくつか縁談を王子に持ちかけたが、どれもまるで王子は興味を見せなかった。それが王子自身から、妃にしたいという女性が現れたというのだから話を聞いてみればこの始末。
「……今までいろいろと呆れさせられてきたが、ここまでのことは初めてです。あなたは劣等家系の血を王家に持ち込むつもりですか。王家として、その血を汚さぬ自覚というものを持っていただきたい」
「そろそろ王家の血にも新しい血統が必要だろ。同じような血ばかり混ぜているから腐敗が進むんだ」
「だいたい、その娘の家名は何というんだ?」
「メアリーと名前は聞いた」
「いや、だから家名は?」
「さあ、ひょっとしたらないのかもしれない」
王子の返答に大臣は、大理石の床に下顎を落っことしてしまう。
家名がないというのは、身分というものが与えられていないということ。つまりは最も底辺の階級で奴隷と同じような扱いということだ。
商人や農民でも王家に介入するなどもってのほかのこと。それが名前のない奴隷階級の者なら尚更だ。大臣をはじめ、国の役員や貴族までもが総出で猛反対。王子とその周辺はてんやわんやの大騒ぎとなったが、その反面、王家のゴシップを扱う私にとっては話題に困ることがなくなった。
これは情報屋として非常に喜ばしいことだった。国の顔役たる王家の人々の話題を取り扱った私の雑記はもとより購入者は多かったが、シャルル王子の恋模様を書いてからは、書写が追いつかなくなって嬉しい悲鳴を上げるほどになった。
そんな折ある依頼がひとりの女から持ちかけられることになった。
「あの……、情報屋のレナルドさんですか」
「は、はい……」
「……、あなたに依頼があるのですが……」
野暮な人もいたものだ。初めはそう思った。
情報屋には三つばかし商業形態がある。情報を代金と引き換えに言伝で伝えるオーソドックスなもの。依頼金をもらってから取材をし、それで得た情報を引き渡す探偵のようなもの。そして、私のようにネタとなるものを紙に書き起こして販売するもの。中には商業形態をその都度変えながら活動するという器用な者もいたが、生憎私はそのような芸当出来かねるので、依頼は例外がない限り断っていた。
だがその依頼主は、まさしく例外だったのだ。
「あ、あなたは……」
女は顔を隠すために深くかぶっていたフードを脱いだ。声は雑記を代金と引き換えに受け取った時に何度も聞いていた。彼女は顔こそ知らないが、常連だった。だが、露わになった顔は何度も見たことがあるものだった。
私は思わず目を疑った。かつて自分がネタとして注目を置いていたその顔に。
「ジョゼ……、い、今までどこに行ってたんですか」
「……複雑な気持ちね。初めてあたしを探していたと言ってくれた人が、あなただなんて……。皇太子妃の座を取りのがしたあたしには、親でさえ捜索を出してくれない。……まあ、探されるつもりなんてないんですけどね」
なんと、シャルル王子への想いを玉砕されてから失踪していたジョゼが、直接私に接触をしてきたのだ。しかも、依頼を切り出す前から常連で、私と言葉を交わしていたというのだから尚更驚いた。
「それで依頼というのは?」
「……調べてほしい。あのメアリーという女のことを……」
その目は、私が知るころから濁っていたが、あれからさらに濁りを増し、深く深く底の見えない青さになっていた。まるで海底にぽっかりと口を開けたブルーホールのように。見つめるものを深い深い水底へと誘うのだった。
おそらく彼女はまだ気づいていない。
その水底さえも陥没し、さらに自らが深みに沈んでいくということに。
私とジョゼは落ち着いて話をするために、一件の店に入った。情報屋として漏洩というのは最も避けたい。私は行きつけの個室茶屋を持っていた。店内に入り、店員に向かって決まったサインを出す。すると、そのサインを受け取って店員は私を個室席に案内する。
こういった店の常連は、私のような情報屋か探偵。汚職にまみれた政治家。愛人を囲っている不埒な男か。色欲にまみれた情婦かといったところだ。そんな癖のある客たちに配慮してか、個室のひとつひとつは防音性に優れたコルクで裏打ちがされている。これは密談をするにはうってつけの場所だった。だが同時に、情事にもうってつけの場所でもある。
密談にしろ、情事にしろ、店内の雰囲気をいかがわしいものにするには充分なもの。肩をすぼめてあるくジョゼ。異様な雰囲気の店内に怖気づいているようだ。
案内された個室は、ベルベットをかぶせた円卓を挟んで、それに不釣り合いな箱馬のような粗末な椅子が置かれた狭い部屋。固いうえにいたが毛羽立っていてざらざらとした椅子に腰を下ろすと、カモミールの香りのするハーブティーが出された。
「……この店は……? 怪しい成りをしているけど、いいお茶を出すのね」
「常連は私も含め、ひとり残らずいかがわしい連中ばかりですよ。個室を用意する店というのは、‘秘め事’に使われるわけですから、そうなるのが宿命です。それに、あなたも私との話を外部にむやみに漏らされては困るでしょう?」
「……、え、ええ」
「情報という商品を扱う身として最も恐れるのはその漏洩ですから」
「私たちの仕事は仲間内では水商売と言われています。水は飢えた花にあげなければいけない。潤った花に水を与え続ければ、腐ってしまう。花が欲しがる分だけを見極めて、他の花に漏らすことなく、水を与えなければならない。だから、水商売と呼ぶんです」
どうぞと右手で示すと、ジョゼは柔らかな唇をカップにつけた。随分とその容姿はこの二ヶ月で変わってしまった。サテン地のドレスは所々が破けてしまっており、破けたところは色こそ黒でそろえてあるが、麻などの安い生地でつぎはぎがされている。
彼女は以前は薄桃色のドレスなどを着用していたが、宿無しになり、長期間を同じ服を着るということを意識して黒という色を選んだのだろう。遠目で見れば、その痛みは目立ちにくくはあるが、流石に面と向かって話す距離までくれば、その痛みは彼女の今の生活の凄惨さを主張し始める。艶やかに肉のついていた手は骨が浮き出てしまっている。やせ細り、見るものを不安にさせるほどこけてしまった頬を長い髪で隠している。失礼ながら、奴隷階級であるメアリーよりもずっと、その姿はみすぼらしく見えた。
「……、そんなにじろじろと見ないでください。気付いているんです……。いまのこのあたしが、可愛くないということくらい……」
「この二ヶ月間、何をしてらしたのですか」
「皇太子妃候補に選ばれておきながら、それをまんまと逃したあたしが勘当されることは分かっていた。だから、そうなる前に家を飛び出した。そこから、あたしの浮浪者としての生活が始まりました」
持ち出したお金は、小遣いとして持っていた分だけ。それでも本当の浮浪者には決して手に入らないほどの額だったが、わずか二週間強であっという間に底を尽きたという。そこからは、路傍の草を食むような生活を送った。奉公先がなかったわけではないが、元の身分が災いしてか疎まれ、どれもこれも長くは続かなかった。そんな苦しい生活の中でも、なんとか金を貯めては、私の雑記の購入に全てを費やしていたのだという。私が集めたシャルル王子に関する情報を彼女は文字通り、命を賭して買っていたのだ。
「……、あなたの手記は本当に、シャルル王子の隣に立って書かれているかのようで、読むとあたしの傍にシャルル様がいるようで……、こんな距離、彼の前で裸をさらしても手に入らなかったのに。
でも読後とともにあたしには残酷な現実が突き付けられた。そう、あたしの横には……誰もいないということ」
彼女の紅く色づいた頬を涙が伝う。健康的な薄桃色ではない。何度も何度も泣き腫らしたただれた赤色だ。
「……哀れですよね……、どれだけ想いを馳せてもどれだけ身体を捧げても、手に入らなかったシャルルは結局……夢の中でしかあたしを受け止めてくれなかった。でも、それでも良かった。たとえ夢でも、あたしの心の帰る場所があるなら。
でも、レナルドさん。あなたのあの記事を読んでから、あたしは……夢の中のシャルルでさえ、奪われたのよ」
そう語る肩の震えが、彼女の細い腕を伝って円卓を揺らし、私と彼女のハーブティーの水面に波紋を起こしていた。ちょうど冷たい冷たい水底から何かが湧き上がるかのように、水面の中心から同心円状に広がる波紋。私はおもむろにハーブティーに口をつける。ほんのさっき淹れたばかりだというのにやけに冷たかったのを覚えている。
「……メアリー……、メアリー……」
まるでうわ言のようにその名前を繰り返す。
「あの女のことをあなたが書くようになってから、あなたの記事は、あたしに苦痛しか与えてくれなくなった。なんで……、なんで……、どれだけ目の前で雌しべをさらしても振り向いてもらえなかった花がここにいるのに。ただそこに咲いているという香りだけで振り向いてもらえる花が存在するのよ……。分りますか、この気持ち……。
シャルルは、あたしの心と体を否定した。父親はシャルルを手に入れられなかったあたしの存在を否定した。そして、あなたはあたしの幻想さえも否定したんです。
……あたしにはもう、なにも……なに……も……」
彼女の肩の震えが唇に移り、声が震えている。その震えが冷たい悲しみから、さらに冷たさを増して憤りに変わっていくのが、その振動数の変化によって感じ取られるようであった。私は、水底に揺らめくその怒りの絶対零度の炎に静かに薪をくべる。
「……それで、メアリーのことを調べてどうするおつもりですか」
「否定したい……。あたしを否定した者たちを否定したい。いけないことだって分かってても、もう……、耐えられないんです。証明したい。メアリーがシャルルに相応しいわけがないってことを。それが、それができれば……あたしは満足です」
哀れな女。
そう思いながらも私はこの依頼を承諾した。想い人であるシャルル王子の恋人。それが自分で会ったらとジョゼは何度も願っただろう。だが残酷にも現実は違った。メアリー、自分がなりたかった存在になった自分とは違う女性に彼女は興味を抱いていた。そして私も、シャルル王子の恋人とあらば、調べないわけにはいかない。さらに私はもうひとり、ネタにできそうな人物に巡り合った。そう、この叶わぬ思いを抱いたがために没落していく哀れな女。
私は彼女をこう謳った。愛に没す人と。




