第六章「温めますか」
「温めますか」
それが、私という人間の、いちばん自然な一言だと思う。
弁当を買う客に私は必ず、そう聞く。温めますか。たった五文字。それだけで、冷えて硬くなった米が、ふっくらと湯気を立てる。冷たいままでいいと言う人もいる。温めてほしいと言う人もいる。どちらでもいい。ただ、その一言を差し出すこと。それが、私の仕事の、いちばん芯にあるものだった。
番組が始まって、一週間。私はその夜も、眠れずにキッチンへ来ていた。
冬川悠は、また、いた。今度は、コンビニの、あのカップ麺ではなく、素の弁当を電子レンジの前で、つまらなそうに見ていた。冷蔵庫に、参加者用の食事が、いくつか残されていた。冷めた、幕の内弁当。
「温め方、わからないんですか」
私が声をかけると、冬川は少しばつが悪そうにレンジのボタンを見た。
「いや。……この手のやつ、いつも冷たいまま食ってたから」
私は彼の手から、そっと弁当を受け取った。ラップの端をほんの少しだけ、めくる。こうすると、蒸気が抜けて、べちゃつかない。それから、加熱のボタン。五百ワットで、二分二十秒。ごはんとおかずのバランスで、時間は変わる。この弁当の型なら、この時間が、いちばんいい。──体が、勝手に、覚えている。
「よく、わかるな。時間」
「毎晩、何百個も、温めてますから」
レンジが、低く唸る。庫内の光が、回りながら、弁当を照らす。狭いキッチンに、だんだんと、温かい匂いが満ちていく。しょうゆと、だしと、白いごはんの匂い。冬川はその匂いを静かに吸い込むように嗅いでいた。
チン、と音が鳴った。
私は熱くなった弁当を布巾で持って、彼に差し出した。
「どうぞ。温めておきました」
冬川はその弁当を両手で受け取った。彼の大きな、日に焼けた手のひらが、弁当の温度を確かめるように包む。しばらく彼は動かなかった。ただ、その温かさを手のひらで、味わっているように見えた。
「……あったかい」
彼がぽつりと言った。
その一言に、なぜか私の胸の奥が、じんと、熱くなった。あったかい。当たり前のことだ。温めたのだから。なのに、この人が言うと、それが、まるで生まれて初めて、温かいものを手にした人の、言葉みたいに聞こえた。
温めるという行為は、思えば、不思議なものだ。冷たいものを温かくする。ただ、それだけ。値踏みも、選別も、しない。おいしいか、まずいか。高いか、安いか。線の内か、外か。そういうことは、いっさい、関係ない。ただ、冷たいものを温かくする。目の前のものを少しだけ、生き返らせる。
この番組は、その逆をやっている。温度をご褒美と罰に、切り分ける。選ばれた者を温め、選ばれなかった者を冷やす。けれど、私の店では、温度は、いつだって無条件だった。深夜三時に来る客が、王子でも、あざとくても、地味でも、関係ない。私はただ、聞く。温めますか。誰にでも、同じ高さの声で。
冬川という人は、たぶんずっと冷たいまま、生きてきた人だった。誰にも、温めてもらえないまま。それが、手のひらの、あの確かめるような動きから、伝わってきた。
冬川は弁当を食べながら、ぽつぽつと、話しはじめた。
「俺、こういう、あったかい飯って、あんまり、縁がなくてさ」
「お仕事が、忙しいんですか」
「忙しいっていうか。……夜の仕事だから。休憩、短くて。冷たいまま、かき込んで、また走る。そういうの、ずっと」
走る。──その言葉に、私は引っかかった。
「走る、って」
「あ、いや」
冬川は言葉を濁した。番組では、職業を伏せている参加者も多い。彼もまだ明かしたくないのかもしれない。私はそれ以上、聞かなかった。聞かないのが、うちの店の流儀だ。深夜三時に来る人に、理由は要らない。
ただ、彼の腕を私は見ていた。日に焼けた、太い腕。手首の内側に、うっすらと擦れたような跡がある。重いものを繰り返し、持ち上げてきた腕だ。荷を運ぶ人の腕。──それを見て、私の記憶が、また、ざわりと、動いた。荷を運ぶ人。夜、走る仕事。この匂い。この手つき。
「相沢さん、だっけ」
冬川が私の名前を初めて呼んだ。
「なんか、あんたといると、変な感じだ。初めて会った気が、しない」
私はどきりとした。それは、私が彼に対して、ずっと感じていたことと、同じだった。初めて会った気が、しない。
「私もです」
二人のあいだに、しばらく沈黙が落ちた。けれど、それは、気まずい沈黙ではなかった。深夜のキッチンの、冷蔵庫の低い唸りだけが、私たちを静かに包んでいた。うちの店のあの唸りと、同じ音で。
彼は弁当をきれいに食べ終えた。米粒一つ、残さずに。それから、私を見た。
「なあ」
冬川の、疲れた目が、まっすぐこちらを向いた。
「あんたは、何が、欲しいんだ」
私は息をのんだ。
「この番組で、みんな、何かを"演じて"る。王子とか、あざといキャラとか、意識高い系とか。あんただけ、演じてない。でも、演じてないってことは、あんたが、何を欲しがってるのか、俺には、見えない」
「……」
「あんたは、何が、欲しいんだ」
誰も、私にそんなことを聞かなかった。
母も、店の客も、番組のスタッフも。みんな、私をひと目で振り分けて、それで終わりだった。地味枠。便利なベテラン。行き遅れた娘。──私が何を欲しがっているのか。私という単品の、ほんとうの中身を誰も、聞こうとしなかった。
私自身さえ、応募フォームの、あの空欄を埋められなかったのに。
「……わかりません」
私は正直に、答えた。
「私は人の"いつも"は、全部、わかるんです。誰が、何を欲しがってるか。手に取る前から、わかる。……なのに、自分が、何を欲しいのかだけ、いつまでも、空欄のままで」
言いながら、私は自分の声が、少し震えているのに気づいた。冬川は何も言わず、ただ、私の言葉を聞いていた。田久保さんが、いつか言った言葉が、脳裏をよぎった。──人の"いつも"は、全部覚えとるのにな。自分の"いつも"は、いつまでたっても決めんね。
「じゃあ、」
冬川が静かに言った。
「これから、探せば、いい」
シンプルな一言だった。けれど、それは、私が何年も、聞きたかった言葉だったのかもしれない。あんたは、もう賞味期限切れだ、とは、言わなかった。あんたは、奥の段だ、とも。ただ、これから、探せばいい、と。
その夜、私は部屋に戻って、決めた。
当て馬でいるのは、やめる。奥の段で、消えるのを待つのは、やめる。──私はこの番組で、私のやり方で、戦ってみる。演技はできない。王子も、あざといキャラも、無理だ。でも、私には、私の職能がある。何万人もの客を見て、"いつも"を読んできた、この目がある。
私はベッドの上で、応募フォームのことを思い出していた。あの埋められなかった空欄。「あなたの理想の恋を教えてください」。あのとき、私は理想はありません、と書いた。恋は、選ばれることだと、思っていたから。棚に並んで、誰かに手を伸ばされるのを待つこと。そして私はとっくに、自分を棚から下げた人間だった。
でも、冬川は私に選ばれるのを待て、とは言わなかった。何が欲しいのか、探せ、と言った。それは、待つことではなく、動くことだった。棚から下がって縮こまるのではなく、自分の足で、探しにいくこと。
直すつもりだった。ただ、静かに少しでも長く、生き残るために。けれど、この決意は、あとになって、番組が作りあげた、きれいな物語を内側から、少しずつ壊していくことになる。私はまだそれを知らなかった。ただ、久しぶりに、明日が、来るのが、少しだけ、楽しみだった。
眠りに落ちる直前、冬川の言葉が、もう一度耳に残った。「走る」──夜、走る仕事。番重。冷たいまま、かき込む飯。その断片が、暗闇の中で、一つの形になりかけていた。あと、少しで、思い出せそうだった。




