第二章「棚割」
棚には、決められた地図がある。
どの段に何を何列並べるか。その設計図を「棚割」という。プラノグラムとも呼ぶ。目線の高さは、いちばん売れる特等席だ。私たちはそこを「ゴールデンライン」と呼び、いちばん売りたい品を置く。逆に、床に近い段や、天井近くの段は、手が伸びにくい。同じ商品でも、置かれる場所で売れ行きは変わる。
人も、同じかもしれない。
閉店の紙を見つけた翌日、私は昼過ぎに目を覚まし、天井を見ていた。夜勤明けの部屋は、いつも薄暗い。遮光カーテンの隙間から、細い光が一本、床に落ちている。私は棚割のことを考えていた。この街という店のどの段に、私は並べられているんだろう。たぶん手の伸びにくい、いちばん下の段だ。
夕方、店に出る前にオーナーの家へ寄った。
オーナーは、七十を超えた小柄な人だった。この店を三十年守ってきた。奥の座敷で、湯飲みを両手で包むようにして、その人は静かに言った。
「相沢さん。長いこと、店を任せきりで、悪かったね」
「そんな。私は雇われてるだけですから」
「雇われ、なんてもんじゃないよ。あの店を回してたのは、あんただ」
湯飲みから、番茶の湯気が上がる。畳の匂い。柱時計の、規則正しい音。私は膝の上で、両手を握っていた。
「区画整理は、もう決まったことでね。私もこの歳だ。潮時だと思ってる」
「オーナー」
「ただ、」
その人は、湯飲みを置いた。
「あんたが、もし店を続けたいなら。場所を移してでも、あの明かりを消したくないなら。私はのれんも、契約も、あんたに譲る用意がある」
私は息を止めた。
「ただし、金がいる。移転の資金だ。今のあんたの蓄えじゃ、足りないだろう」
その通りだった。私の通帳には、店を新しく構えるだけの数字はない。夜勤の給料で、その日その日を回してきた。廃棄の弁当で腹を満たしながら。
オーナーの家を出て、私はその足で店へ向かった。
夕方の店は、昼の顔をしている。制服を着て裏に入ると、昼勤のパートの主婦が、伝票を片手に困った顔をしていた。
「相沢さん、ちょうどよかった。中華まん、追加でどれくらい頼めばいい? 明日、雨みたいで」
私は納品リストを一瞥した。
「明日は気温が七度下がります。雨で、夕方から冷える。中華まんは一・五倍。あと、レンジで温める鍋の商品を前に出して。冷たい麺は、逆に半分に絞りましょう」
「……なんで、そんなにすぐわかるの」
主婦は目を丸くした。私にとっては、当たり前のことだった。気温が五度下がれば、人の手は冷たいものから離れ、温かいものへ動く。それだけの話だ。読みが外れれば、廃棄ロスかチャンスロスになって、数字に跳ね返る。毎晩その綱を渡っていれば、体が勝手に覚える。
棚を回りながら、私は前出しを続けた。手前の品が売れて空いた奥を前へ引き出す。角を揃える。ラベルの正面をまっすぐこちらへ向ける。棚が満タンに見えるだけで、客の手は自然と伸びる。逆に、奥がすかすかだと、売れ残りの気配がにじんで、誰も手を出さなくなる。人の買う気は、そんな小さな見え方一つで、あっけなく萎える。
夜が来て、常連たちが順に現れた。タクシー運転手の梶さんは、無糖の缶コーヒーを一本。夜勤明けの看護師、瀬川さんは、あの甘い菓子パンを二つ。誰も、多くは語らない。ただ、レジの前でほんの数秒、私と目を合わせる。その数秒に、私はいる。客層ではなく、相沢灯里として、そこにいる。
この店が消えたら、この人たちの深夜三時は、どこへ行くんだろう。眠れない夜の行き場は、誰が引き受けるんだろう。私はレジの内側でぼんやりとそんなことを考えていた。
帰り道、私はまた、あのチラシのことを思い出していた。恋愛リアリティショー、参加者募集。優勝賞金あり。あの派手な字に刷られていた金額は、確か──店を移すのに、足りる。
ばかばかしい、と最初は思った。あんな若くてきれいな人たちが、恋を競う番組。私みたいな、深夜のコンビニ店員が。三十二歳の、販売期限切れが。
けれど、私は歩きながら、いつのまにか計算をしていた。発注のときと同じ癖だ。
私たちの仕事のいちばんの勝負どころは、発注だ。明日、何が、いくつ売れるか。それを読み、注文する。読みは「仮説」で、翌日の売れ行きが「検証」になる。天気、気温、近所の行事、テレビで紹介された商品。あらゆる材料から、明日の需要を先に読む。売れ残れば「廃棄ロス」。足りなければ「チャンスロス」。私はその二つの損失のあいだで、毎晩、綱を渡ってきた。
だから、わかってしまう。この番組は、私にとっての「チャンス」だ。見送れば、店は消える。挑めば、失うものはほとんどない。もともと、選ばれる側の人間じゃない。恥をかくのは慣れている。
その夜、店のバックヤードで、私はスマホの応募フォームを開いた。
名前。年齢。職業。深夜のコンビニ店員、と打ち込む。指が、次の欄で止まった。
「あなたの理想の恋を教えてください」
カーソルが、点滅している。私は理想の恋なんて、もう何年も考えたことがなかった。恋というのは、選ばれることだと思っていた。誰かに手に取られ、レジを通され、選ばれること。そして私はとっくに自分を棚から下げた人間だ。
しばらく考えて、私はこう打った。
「理想は、ありません。ただ、店を続けたいだけです」
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
自動ドアが鳴った。深夜の常連、家出少女のノノが、いつものように入ってくる。私は反射でレジ裏のポットに手を伸ばした。あの子の"いつも"は、いちばん安い、あたたかいコーンスープだ。
「いらっしゃいませ」
言いながら、私はふと思った。私はこの子のスープの温度は覚えている。田久保さんの肉まんの奥の段も、梶さんのコーヒーの砂糖の有無も、全部覚えている。
なのに、自分が何を欲しいのかだけ、いつまでも空欄のままだった。
ノノは、スープを両手で包んで、レジ横のイートインの隅に座った。まだ制服のままだ。どこかの高校の。家に帰りたくない夜が、この子にもある。私は何も聞かない。聞かないことが、この店の流儀だった。深夜三時に来る人に、理由は要らない。
「ねえ、お姉さん」
ノノが、スープから顔を上げた。
「お姉さんって、なんで、あたしがコーンスープって、いつもわかるの」
「毎晩、同じの買ってくから」
「それだけ?」
「それだけ」
私は笑った。ほんとうは、それだけではなかった。この子が最初にこの店へ来た夜、財布のなかで小銭を数える指が、少しだけ震えていたのを私は見ていた。いちばん安い、いちばん温かいもの。それが、この子の"いつも"になった理由も、たぶん知っている。けれど、それを言葉にはしない。言葉にした瞬間、この子は、ここへ来づらくなる。
スマホの画面の隅で、応募完了の通知が、静かに光っていた。
賞金。優勝。恋。──どれも、私には縁のない言葉だった。それでも、あの金額があれば、店は消えずにすむ。ノノのコーンスープも、田久保さんの肉まんも、この明かりも、続けられる。
私は恋のためにあの番組へ行くんじゃない。店のためだ。そう自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、心の隅で、別の声が小さく囁いた。
──ほんとうにそれだけ?
私はその声をいつものように棚の奥へ押し込んだ。フェイスアップだ。空っぽの段を満タンに見せる。他人にだけでなく、自分にも。私はもう何年も、そうやって生きてきた。
窓の外で、街灯が一つ、ちらついて消えた。私はレジ袋を一枚とり、まだ食べられる廃棄のパンをこっそりノノの鞄の脇に置いた。この子の朝ごはんだ。誰にも言わない。この店が明かりを灯しているうちは、この子を誰も追い返さない。




