第一章「消費期限」
消費期限が切れる三時間前に、うちのチェーンは商品を棚から下げる。まだ食べられるのに、だ。
その三時間の名前を「販売期限」という。おにぎりや弁当の裏に貼られた小さなシール。そこに刷られた時刻は、食べ物が傷む時刻ではない。売る側が万一を怖がって、早めに引いた線だ。線の内側なら安心して売れる。線の外に出た瞬間、その商品は「まだ食べられるのに、売ってはいけないもの」に変わる。
午前三時。誰もいない店内で、私はその線を越えた品を一つずつ棚から抜いていた。
手のなかで鶏五目のおにぎりが冷たい。フィルムの上に貼られたシールの時刻は、とっくに過ぎている。私はレジに戻り、専用のモードを立ち上げた。バーコードを読ませると、短い電子音が鳴る。廃棄登録。売れ残った品を在庫から引き算し、原価とロスに計上する作業だ。ピッ、ピッ、と機械は淡々と数を数える。おにぎり三、パン二、サンドイッチ一、蒸し鶏サラダ一。
この時間の店は、外から見ると水槽みたいだと思う。青白い蛍光灯に照らされて、通りに向かってぼんやり光っている。深夜の道を歩く人には、ここだけが起きて見える。実際、起きている。二十四時間、三百六十五日、この店は目を閉じない。私はその目のいちばん奥にいる、まばたきの担当だ。
登録の済んだ品を私は裏の休憩室に運んだ。狭い机の上に、鶏五目のおにぎりを一つ置く。ほんとうは持ち出しも試食も、細かい規則では褒められた話ではない。それでも夜勤の店員というのは、どこかでこの線を越えた品と自分を重ねてしまう。まだ食べられる。でも、もう売り物ではない。
フィルムを剥がして、口に運んだ。米はもう硬くなりかけている。冷たい鶏の脂が、舌の上でうっすら固まる。おいしくはない。ただ、腹は満ちる。腹が満ちれば、たいていのことはやり過ごせる。私はそうやって、三十二年をやり過ごしてきた。
自動ドアが鳴った。
「いらっしゃいませ」
声は、勝手に口から出る。誰に対しても同じ高さ、同じ抑揚。一晩に何十回も繰り返すうちに、意味はとっくにすり切れている。それでも私はこの言葉をたぶん世界でいちばんたくさん言ってきた人間のひとりだ。
入ってきたのは田久保さんだった。七十を過ぎた、元・町工場勤めの老人。奥さんを亡くしてから眠れないらしく、決まってこの時間に現れる。
「よう」
「こんばんは。今日は冷えますね」
私は言いながら、もう手を動かしていた。ホットケースからいちばん奥の肉まんを取り、袋に入れる。それから、コーヒーマシンのボタン。ブレンドの、Sサイズ、砂糖なし。田久保さんは何も注文していない。けれど私は彼の「いつもの」を知っている。
私たちの仕事の芯にあるのは「単品管理」という考え方だ。商品を売れ行きの合計ではなく、一品ずつ、一つの単位として見る。火曜の雨の夜に、どの棚のどの品が、誰の手に渡ったのか。その粒を細かく見つづける者だけが、明日に必要な数を読める。私はそれを商品でやり、いつのまにか人でもやるようになった。田久保さんは、火曜の雨の夜の肉まんだ。
「シールが好かんな」
湯気の立つ肉まんを受け取りながら、田久保さんが言った。
「そのシールだよ。何時までに売れって、決めた線。工場もそうだった。まだ使える機械に、耐用年数ってやつを貼りやがる」
「まだ回るのに、ですか」
「まだ回る。だが帳簿の上じゃ、もう役目を終えたことになっとる」
私はレジ横のゴミ箱に、剥がしたばかりのシールを落とした。粘着の面に、綿ぼこりが一本くっついてくる。
カウンターの端に、客の忘れた雑誌が一冊、開いたまま置かれていた。ページのあいだから、一枚のチラシがはみ出している。派手な字が躍っていた。恋愛リアリティショー、参加者募集。優勝賞金あり。──こんな時間に、こんな店でいちばん場違いなもの。
私は思わず店の暗い窓に映った自分を見た。前髪はぺたりと額に張りつき、目の下には、夜勤が刷り込んだ影がある。三十二歳。恋。優勝。私は小さく鼻で笑った。
「私なんか、とっくに販売期限切れですよ」
声に出したつもりはなかった。田久保さんが肉まんをかじる手を止めて、こちらを見た。
「あんたは、」
ゆっくりと彼は続けた。
「人の"いつもの"は、全部覚えとるのにな。自分の"いつもの"は、いつまでたっても決めんね」
私は何も返せなかった。ただ、レジ横のホットケースの、いちばん奥に押し込んだ最後の肉まんに目をやる。手前の品が売れて空いた棚を奥から前へ引き出して整える作業を私たちは「フェイスアップ」と呼ぶ。前出しともいう。棚を満タンに見せる。売れ残りの気配を消す。客の買う気をそっと後ろから支える。私はいつも他人の棚を満タンに見せている。自分の棚は、ずっと空のままだ。
田久保さんが帰ったあと、私は一人で店内を回った。
夜勤の時間割は、体に染みついている。二時に廃棄のチェック。三時にトイレ清掃。四時に飲料の補充。合間に、途切れず品出しと前出し。手が勝手に動くので、頭のほうは暇になる。暇になった頭は、たいてい要らないことを考える。
たとえば、母のこと。実家に帰るたび、母は決まって同じ台詞を言う。あんた、いつまでそんな夜の仕事してるの。いい人はいないの。年を考えなさい。母の声には悪気がない。悪気がないぶん、まっすぐに刺さる。まるで私という商品の裏に、母が勝手に「販売期限」のシールを貼っているみたいだった。三十二歳。線の、少し外。
でも、と私は思う。線を引いたのは、ほんとうは母じゃない。私だ。私が自分に、いちばん厳しいシールを貼っている。まだ食べられる。でも、もう売り物ではない。そう決めてしまえば、誰かに選ばれなかったときの痛みを先回りで消せる。捨てられる前に、自分で自分を棚から下げる。そのほうが、ずっと楽だった。
飲料の扉についた指紋を私は一枚ずつ拭いた。冷蔵ケースのガラスは、指の脂で曇っている。深夜、酔った客が寄りかかり、迷い、扉を開けては閉める。その迷いの跡を私は毎晩ぬぐって回る。雑誌の背を揃え、カップ麺の列の角を直す。この規律正しい静けさが、私は嫌いではなかった。むしろ、ここでだけ息ができた。誰も追い返さなくていい。深夜三時に来る人に、来る理由なんて要らない。眠れない人、行き場のない人、ただ光が欲しい人。この店はそのすべてを値踏みせずに受け止める。私はその番人だった。
朝が近づくと、通りの色が変わる。青から、灰へ。灰から、うっすらとした藍へ。品出しの納品便が来る前の、いちばん静かな一時間。私はレジ前に立ち、ぼんやりと外を見ていた。
そのとき、店の前の電柱に、見慣れない紙が貼られているのに気づいた。
朝いちばんの光を頼りに目をこらす。役所の印。区画整理。再開発。──立ち退き。
私は自動ドアを押して、外へ出た。冷えた空気が、肺の奥まで刺さる。紙には、この一帯が来季から取り壊されること、それに伴い、この店を含む区画の店舗が閉鎖されることが、事務的な言葉で並んでいた。
この店が、消える。
私が唯一、息のできる場所が。この店だけが、私を客層でなく、私として置いてくれる場所だった。田久保さんの肉まん。梶さんの缶コーヒー。夜勤明けの看護師が買っていく甘い菓子パン。行き場のない少女の、温かいスープ。──それぞれの"いつも"を覚えていられる、たった一つの居場所。
紙の隅には、閉鎖後の予定も小さく載っていた。跡地には、大きな商業施設が建つらしい。回転の速い、明るくて新しい何かが。古い店は、古い機械と同じだ。まだ回るのに、帳簿の上では、もう役目を終えたことになっている。
手のなかで剥がし忘れた廃棄シールが一枚、朝の風にぱたぱたと震えていた。私はそれをなぜか捨てられなかった。ポケットの奥に、そっとしまう。指先に、粘着の残りがかすかに触れた。




