第十七章「販売期限」
販売期限のことを私はもう一度考えていた。
消費期限より、数時間、早い。傷む時刻では、ない。売る側が、万一をこわがって、早めに、引く線。この線を越えても、その弁当は、まだ食べられる。中身は、なくなっていない。ただ、「売ってはいけない」ことになるだけだ。売る側の、都合で。
安いホテルの、狭い部屋で私は天井を見ながら、ずっとその線のことを考えていた。
私は自分に、消費期限のシールを貼ってきた、と思っていた。もう賞味期限切れ。もういちばんいい時期は、過ぎた。──でも、違ったのかもしれない。私が自分に貼っていたのは、消費期限では、なかった。販売期限だ。傷む時刻では、ない。もっと早い、線。私がこわがって、早めに、引いた線。
いつ、私はその線を引いたんだろう。
思い出そうとして、私はある夜のことを思い出した。ずっと奥の段に、押し込んでいた、恥の記憶。
二十代の、頃。私は一人の人を好きだった。同じ職場の、優しい人。向こうも、たぶん私に気があった。何度か、二人で、話した。あと、少しで、何かが、始まりそうだった。──なのに、私は逃げた。彼が私に何か言いかけたとき。私は先回りして、「私なんて、興味ないですよね」と笑って、線を引いた。彼が否定する前に。手を伸ばされる前に。棚から、自分を下げた。
彼は困った顔をして、それきり、話しかけてこなくなった。私はずっとその記憶を恥じてきた。ほら、やっぱり私なんか、選ばれない。あのとき、私が逃げたのは、正しかった。──そう、自分に、言い聞かせて。恥を卑屈さで、上書きして。
その記憶は、いつもみぞおちのあたりを冷たくした。思い出すたび、頬が、かっと、熱くなった。みっともない。ばかみたい。あんなふうに自分から、線を引いて。あんなふうに笑ってごまかして。──だから、私はその記憶をいちばん奥の段に、押し込んで、鍵をかけた。二度と、開けないように。
でも、いま私はその記憶をもう一度読み直していた。
あの日の、彼の困った顔。あれは、私を拒む顔じゃ、なかった。私がいきなり、自分で線を引いたことに、戸惑う顔だった。彼は私を棚から下げたんじゃ、ない。私が自分で、下りたんだ。彼が手を伸ばす前に。
私はそれをずっと「選ばれなかった」と記憶していた。でも、ほんとうは、「差し出さなかった」だけだった。二つは、まるで違う。前者は、私の中身の問題。後者は、私のこわがりの問題。──何十年も、私はこわがりの記憶を無価値の証拠に、すり替えて、生きてきた。自分に、消費期限のシールを貼る、いちばんの、口実にして。
でも、いま私はその記憶をもう一度読み直していた。
あのとき、私は選ばれなかったんじゃ、ない。私が選ばれる前に、自分で、自分を棚から下げたんだ。廃棄ロスが、こわくて。差し出して、捨てられる痛みが、こわくて。だから、チャンスロスを選んだ。──あれは、私が無価値だった、証拠じゃ、なかった。私がただ、こわかった、証拠だった。
私が自分に貼った、あの線は。中身が、なくなった線じゃ、なかった。ただ、こわがりが、万一のために、早めに、引いた線だった。販売期限。
まだ食べられる。中身は、なくなっていない。ただ、私が自分に、「売ってはいけない」と決めただけ。
私は体を起こした。
胸の、いちばん奥で、何かが、剥がれる音がした。何十年も、貼りっぱなしだった、あのシールの、粘着が、ぴりぴりと、剥がれていく音。──販売期限は、終わりじゃ、ない。誰かが、こわがって、早めに、引いた、線だ。剥がしていい。私の胸のも。そして。
冬川の、胸のも。
私は冬川に消費期限のシールを貼った。「悪役」という、線を。番組と一緒になって。彼がまだあたたかいのに。中身が、なくなっていないのに。「見せてはいけない面」をこっちに向けて、売り物にならない、と決めた。──あれも、販売期限だった。中身の問題じゃ、ない。私たちが、勝手に、引いた線。
だったら、剥がせる。
剥がして、みせる。
どうやって。──私は暗い部屋の中で、必死に、考えた。番組は、彼を「悪役」に、編集した。切り抜きで。文脈を外して。中身を変えず、見せ方だけ、変えて。あれを覆すには。あの貼られた線を剥がすには。
そのとき、私の頭に、レジ締めの、光景が、浮かんだ。
毎晩、店を閉める前に、私たちは、レジを締める。機械の中の、「あるべき現金」と実際の、ドロアの中の現金を突き合わせる。一円でも、ずれていたら──「違算」だ。原因を突き止めるまで、帰れない。レシートを一枚ずつ、めくり返す。防犯カメラを見返す。どこで、いくら、ずれたのか。小さな、食い違いを一つずつ、拾って、真実の、帳尻を合わせる。
番組の、あの切り抜きも、同じだ。
あれは、"編集された帳簿"だ。表向きは、帳尻が、合っている。「危険人物が、退場した」。きれいな、物語。──でも、私は知っている。あの帳簿には、違算が、ある。切り取られた、文脈がある。抜かれた、数秒がある。実際の冬川と、編集された冬川の、あいだの、食い違いがある。
その違算を一つずつ、拾い集めれば。実際の、あの夜をあの場面をレジ締めのように再構成できれば。編集の、嘘が、暴ける。彼に貼られた、販売期限のシールを剥がせる。
私は頭の中で、その作業を始めていた。
あのいちばん拡散した切り抜き。冬川が私と一ノ瀬を「じっと見ている」場面。ナレーションは、「渦巻く、執着」と煽った。でも、私はあの夜、あの時刻に、冬川が庭の、どこにいたかを知っている。彼は私を見ていたんじゃ、ない。彼はあの時刻、いつも庭の東の隅で、夜風に、あたっていた。眠れないから。一人に、なれる場所を探して。私が彼の部屋の、細く漏れる明かりを何度も見た、あの時間だ。──カメラの角度を変えれば、彼の視線の先には、私たちなんて、いない。ただ、夜空が、あるだけだ。
それを証明できる人が、いる。あの夜、同じ庭にいた人たち。タイガ。星野きら。白鳥沙羅。──私が単品として、見てきた人たち。彼らの、記憶の断片を一つずつ、拾い集めれば。それは、レジ締めの、レシートの束になる。一枚ずつ、めくり返せば、違算の、出どころが、見えてくる。編集という、帳簿の、どこで、いくら、真実が、抜かれたのか。
私はそれをやれる、たった一人だ。
なぜなら、私はあの場所にいた。私は単品管理の目で、一人ずつを見ていた。編集で、抜かれた、"表の顔"の、裏の、"ほんとうの意味"を私は知っている。誰が、いつ、どこで、何をしていたか。私の記憶の中に、切り取られる前の、帳簿の、原本が、残っている。
窓の外が、うっすらと白みはじめていた。夜勤明けの、あの藍色の空。私はその空を見ながら、決めた。
でも、と私は思った。ただ、嘘を暴くだけでは、足りない。番組を香山さんをやりこめて、冬川を勝たせて、それで、終わり。──それは、また、別の「勝ち負け」の、物語になるだけだ。誰かを上の棚に、誰かを下の棚に。選別の、ベルトコンベアは、止まらない。それでは、あの店の明かりの、意味とは、違う。あの明かりは、誰も、追い返さなかった。値踏みも、選別も、しなかった。勝ち負けをつけなかった。
だから、私がやるべきことは、たぶん「暴く」ことじゃ、ない。「見る」ことだ。冬川をもう一度単品として、みんなの前で、見せること。編集で、抜かれた、あの人のほんとうの中身を。──線を剥がして、その下にある、あたたかい中身をこっちに、向けて、並べ直すこと。フェイスアップの、いちばんいい使い方で。
もう逃げない。もうチャンスロスを選ばない。廃棄ロスが、こわくても。差し出して、捨てられる痛みが、こわくても。──私はあの人に、貼った線を剥がしに、いく。そして、私自身に、貼った線も。
いちばん大事な発注をいちばんこわがりな自分に、任せるのは、もうやめだ。




