第十六章「番重」
番重、というものを説明できる人は、そう、多くない。
食品を運ぶための、浅くて、四角い、コンテナのことだ。おにぎりも、弁当も、パンも、この番重に、並べられて、店に、届く。ドライバーは、その番重を台車に積んで、店へ運ぶ。中身を棚に、移したあと、空になった番重を回収して、帰る。毎晩、それの、繰り返し。
私はその番重を何万個、受け取ってきたか、わからない。
なのに、私はそれを運んでくる人の顔を一度も、見たことが、なかった。
番組が終わり、ヴィラを去る朝。私は自分の部屋で荷物をまとめながら、ずっとそのことを考えていた。
思い出そうとした。あの深夜の番重の記憶を。──不思議なことに、思い出せた。それも、驚くほど、細かく。頭ではなく、体が、覚えていた。
午前三時。自動ドアが、鳴る。台車の、車輪の音。がらがら、と低く、床を転がる音。番重の、重なる、かたん、という音。冷えた外気が、入ってくる、あの一瞬。段ボールと、外の夜の匂い。──そして、その気配は、いつも私がレジの奥で、廃棄の弁当を食べている時間と、重なっていた。
私はそのとき、いつも顔を上げなかった。
「無言の連携」だから。ドライバーは、私がレジで手が離せないときも、そっと番重を置いて、空の番重を回収して、帰る。声をかけない。互いに、顔も、見ない。それが、流儀だった。私は廃棄の弁当を口に運びながら、背中で、その気配を感じているだけだった。ああ、来た。ああ、帰った。それだけ。
あの背中。
台車を押して、去っていく、あの背中。がらがら、と車輪の音が、遠ざかる。自動ドアが、もう一度鳴って、閉まる。──私はその背中を何百回、見送ったか、わからない。顔も、見ないまま。
その背中が、冬川悠だった。
思い出せば、思い出すほど、細部が、よみがえった。
台車の車輪の、あの音は、ほかのドライバーのより、ほんの少し静かだった。深夜、客が眠そうにしているとき、彼はわざとゆっくり台車を押していた。番重の、重ね方も、几帳面だった。角をきっちり、揃えて。──カップ麺の容器を几帳面にゆすいでから捨てた、あの手つきと、同じだ。荷を丁寧に、扱う人。
一度大雪の夜が、あった。ダイヤは、乱れに乱れて、どの店も、納品が、遅れた。なのに、私の店にだけ、番重は、いつもの三時ちょうどに、届いた。私はそのとき、ただ、「今日は、間に合ったんだ」と思っただけだった。誰かが、雪の中を必死で、定時を守ったなんて、考えもしなかった。番重を置いて、去っていく背中に、私はいつものように顔も、上げなかった。──あれも、この人だった。雪の夜に、私の店の三時の明かりを消さないために、走ってくれた人。
私がいちばん廃棄品みたいに自分を感じていた、あの何百もの夜。まだ食べられるのに、売り物にならない、あの弁当を一人で、食べていた夜。──ガラスの、向こうで、この人は、私を見ていた。私に明日の弁当を運んでいた。声も、かけずに。ただ、私の三時の明かりを見るのが、好きだと言って。
私は床に、座りこんだ。
涙は、出なかった。もう出るものが、なかった。ただ、体の、いちばん奥が、番重の車輪の音で、いっぱいになっていた。がらがら。かたん。がらがら。──私が何年も、聞き流してきた、その音は、ぜんぶ、一人の人が、私のために、立てていた音だった。
ヴィラを出ると、スタッフが、事務的に、教えてくれた。
私の優勝は、確定した。賞金は、後日、振り込まれる。店の移転資金には、じゅうぶん、足りる金額。あの明かりは、消えずにすむ。──私は勝った。欲しかったものを手に入れた。
けれど、良心的な若手ADの、真下さんが、帰りぎわに、そっと私に耳打ちした。
「相沢さん。……あの冬川さん、なんですけど」
「冬川さんが、どうか、しましたか」
「あの切り抜き、彼の勤め先まで、届いちゃったみたいで。……配送の、会社。深夜の便は、店の信用も、あるから。あんな"危険人物"って、ネットで、広まった人を置いとけないって。──辞めさせられた、って、噂です」
私の足が、止まった。
辞めさせられた。──番重を運ぶ仕事を。あの夜の明かりを見るのが、いちばんの楽しみだと言った、あの仕事を。私が彼を悪役に、仕立てたせいで。私が教えた、切り抜きの、見せ方のせいで。
彼は温度トークンだけでなく、仕事まで、失った。私のせいで。
死の匂いがした。
人が、一人、社会から、廃棄されていく匂い。まだ中身が、なくなっていないのに。ただ、切り抜かれた、三秒の面が、こちらを向いていた、というだけで。ピッ、の、一音で。──それをやったのは、私だった。私の職能が。私の卑怯さが。
真下さんは、言いにくそうに続けた。
「相沢さんは、悪くない、です。あれは、番組が……香山さんが仕組んだことで。相沢さんも、追い込まれて」
「いいえ」
私は首を振った。
「私がやったんです。私があの人をこわいと、言った。私が黙った。私があの人をいちばん見せてはいけない面をこっちに向けて、棚に、並べた。──香山さんに追い込まれたから、じゃない。私が店の明かりのほうを選んだから、です」
真下さんは、何も、言えずに、うつむいた。
あの明かりを守るために、私はあの明かりが、いちばん大事にしていたものを殺した。誰も、追い返さない。深夜三時に来る人に、理由は要らない。値踏みも、選別も、しない。──それが、あの店の明かりの、意味だった。なのに、私はたった一人をいちばんひどく、値踏みして、選別して、追い返した。あの明かりの、意味ごと。
守ったものは、もう抜け殻だった。中身は、私が自分の手で、廃棄していた。
その夜、私はヴィラの部屋を引き払って、安いビジネスホテルの、狭い部屋にいた。優勝者の、豪華な夜は、もうなかった。窓の外に、街の明かりが、点々と、灯っていた。どれかは、深夜も、開いている店の明かりだろう。誰かの、行き場だろう。
私は自分の胸に、手をあてた。そこに、まだ見えない消費期限のシールが、貼られていた。ずっと自分に、貼ってきた線。──なのに、いまは、それが、少し違って、感じられた。このシールは、いったい、誰が、貼ったものなんだろう。母か。世間か。それとも。
私は鞄から、あの古い廃棄シールを取り出した。合宿に、こっそり、持ってきていた、店のあのシール。指先で、粘着をなぞる。もう粘りは、ほとんど、残っていない。何度もなぞりすぎて。
このシールに、刷られた時刻は、「販売期限」だ。消費期限では、ない。──ふとそのことが、頭に、引っかかった。販売期限。消費期限より、数時間、早い線。傷む時刻では、ない。売る側が、万一をこわがって、早めに、引いた線。
その考えが、暗い部屋の中で、ぽつりと灯った。まだそれが、何を意味するのか、わからなかった。ただ、私はその灯りを消したくなかった。生まれて初めて、自分の胸のシールをじっと見つめていた。剥がすためでは、なく。それが、どうやって、貼られたのかを知るために。
窓の外で、どこかの店の明かりが、一つ、点いたままだった。二十四時間、目を閉じない、あの明かり。私はその光をしばらく見ていた。あの光の下にも、いま誰かが、廃棄の弁当を一人で、食べているのかもしれない。そして、その人をガラスの向こうから、見ている、誰かも。
私は目を閉じた。番重の車輪の音が、また、耳の奥で、鳴った。がらがら。かたん。──いままで、ただの雑音だと思っていた、その音が、いまは、まるで誰かの、心臓の音のように聞こえた。私のために、毎晩、鳴っていた、心臓の音。私が一度も、振り返らなかった、心臓の音。ずっとそこに、あったのに。
あの音をもう一度聞きたい、と私は思った。今度は、ちゃんと顔を上げて。あの背中に、間に合ううちに。




