第十五章「廃棄登録」
廃棄登録は、あっけない。
バーコードを読ませる。ピッ、と電子音が、鳴る。それだけで、その品は、在庫から、消える。まだ食べられるのに。中身は、なくなっていないのに。線を越えたというだけで。ピッ、の、一音で、棚から、この世から、消される。
冬川悠が、廃棄登録された夜のことを私はたぶん一生、忘れない。
最終回の、脱落セレモニーは、生放送だった。
広間に、いつもより、多くのカメラが、並んでいた。スタッフの、張りつめた空気。参加者は、もう四人しか、残っていない。私と、一ノ瀬岳。白鳥沙羅と、冬川悠。
香山さんがマイクを持って、進行した。あの体温のない、やわらかい声で。
「今夜、一人が、この場所を去ります。──さあ、相沢さん」
カメラが、私に向いた。赤いランプが、いっせいに、灯る。
「あなたに聞かせてください。この番組で、あなたがいちばん"距離を置きたい"と、感じた人は、誰?」
台本だった。ここで私が冬川の名前を言う。彼をこわい、と言う。とどめを刺す。──そういう、筋書き。
私は冬川を見た。
彼は正面を向いていた。無表情のまま。もう諦めた顔だった。どうせそう言うんだろう、という顔。私という単品の、裏のシールをとっくに、読み終えた顔。
口を開いた。
でも、声が、出なかった。
こわい、という、たった三文字が、どうしても出なかった。喉の奥で、それは、つかえて、止まった。あの人は、こわくない。あの人は、あたたかい。──その真実が、嘘を押し返した。
でも、私は。
真実も、言えなかった。
あの人は、あたたかい人です、とかばうことも、できなかった。そう言えば、私が次に、冷やされる。店の明かりが、消える。──その恐怖が、まだ私の喉を押さえていた。
だから、私はいちばん卑怯なことをした。
うつむいて、黙った。
何も、言わなかった。
その数秒が、永遠のように長かった。広間の、空気が、張りつめる。カメラの、赤いランプが、私のうつむいた頭をじっと狙っている。誰かの、唾をのむ音。空調の、低い唸り。──夜勤の店でレジが混み合う、あのピークの緊張と、似ていた。ただ、いまは、私の手は、一つも、動かなかった。動かせなかった。言葉も、行動も。ただ、うつむいて、時間が、過ぎるのを待った。いちばんしてはいけない、待ち方で。
沈黙は、生放送では、致命的だった。数秒の、間。香山さんはその隙を逃さなかった。
「相沢さん、答えづらいですよね。──では、これまでの、映像で」
合図。モニターに、私のあの言葉が、流れた。「冬川さんは……ちょっと、こわいです。何を考えてるか、わからなくて」。編集された、私の声。私の顔。それが、そのまま私の"答え"に、された。
「相沢さんの、お気持ちは、もうじゅうぶん、伝わっていますね」
香山さんが冬川に歩み寄った。
「冬川悠さん。あなたの温度トークンを返してください」
冬川は静かに立ち上がった。抗弁も、しなかった。彼は握っていた、あたたかい缶を香山さんの手に、そっと渡した。彼の手のひらから、温度が、離れていく。あたたかいものが、彼の手を去っていく。
その手の動きを私は見ていた。
大きな、日に焼けた手。何万個もの番重を積み下ろしてきた手。私の弁当を温めてもらって、その温度を確かめるように包んだ、あの手。──その手が、いまあたたかいものを手放していた。奪われる、というより、自分から、そっと置いていくように。まるでこんな温度は、最初から、自分には、ふさわしくなかった、とでも、言うみたいに。彼が缶を離した瞬間、私の胸の奥で、何かが、音を立てて、冷えた。
スタジオが、拍手に、包まれた。作られた、拍手。危険人物が、退場する、めでたい、拍手。切り抜きの視聴者たちの、コメントが、モニターの端を流れていった。「やっとかよ」「せいせいした」「相沢さん、よく我慢した」。
冬川は広間の出口へ、歩いた。
私のすぐ、横を通った。
立ち止まった。
そして、私にだけ、聞こえる声で、静かに言った。
「みなと通りの、店。──あんたの店、だろ」
私の心臓が、止まった。
「俺、あそこに、毎晩、運んでた。定温の、番重。おにぎりと、弁当を。三時ちょうどに、着くように。──あんたが、レジの奥で、廃棄の弁当、食ってるの。ガラス越しに、毎晩、見てた」
息が、できなかった。
「声、かけたことは、ない。無言の連携、ってやつだ。番重、置いて、空の番重、回収して、帰る。それだけ。……でも、俺は、あの三時の明かりを見るのが、好きだった。あんたが、行き場のない客にあったかいもん、渡してるの。それを見るのが。俺の、夜のいちばんの、楽しみだった」
冬川はかすかに笑った。泣きそうな、笑いだった。
「あんたに、あったかい飯を温めてもらったとき。俺、やっとガラスの、内側に、入れた気がしたんだ。──ばかだよな」
彼はそれだけ言って、出口の、扉を押した。
彼の手のひらから、去った温度が。私の店のあの三時の明かりを毎晩、見ていた人の、温度が。番重を置いて、無言で去っていった、あの背中の、正体が。──いっぺんに私の中で、つながった。
既視感の、正体。夢の、去っていく背中。「外から見てた」という言葉。「夜中に通いたくなる」という言い方。ぜんぶ、これだった。
私が三時に、廃棄の弁当を食べていた、あの何百もの夜。私は一人だと、思っていた。ちがった。ガラスの、向こうで、この人が、私を見ていた。私に食べ物を運んでいた。顔も、合わせないまま。──私がいちばん廃棄品みたいに自分を感じていた夜に。この人だけが、私を見ていた。
そして、私は。
そのたった一人を。
生放送で、みんなの前で、廃棄登録した。ピッ、の、一音で。
扉が、閉まった。
彼の背中が、消えた。番重を置いて去っていく、あの背中と、同じ角度で。今度は、二度と、戻ってこない去り方で。
私はその場に、立ちつくしていた。周りでは、まだ拍手が、続いていた。香山さんが私の肩に、手を置いた。「よく、我慢したわね。あなたの勝ちよ」。優勝が、決まった、という声が、遠くで、聞こえた。一ノ瀬が、私の隣で、完璧な笑顔を作っている。数字が、爆発した、と誰かが、はしゃいでいる。──賞金は、私のものになった。店の明かりは、消えずにすむ。私は欲しかったものを手に入れた。
なのに、私は自分が、いま何をしたのか、しか、考えられなかった。
私は私をいちばん見ていてくれた人を廃棄した。私がいちばん廃棄品みたいに自分を感じていた、あの何百もの夜。ガラスの向こうで、私を見ていてくれた、たった一人を。私はこの手で、棚から、下げた。ピッ、の、一音で。まだあたたかいのに。中身が、なくなっていないのに。
その夜、私はヴィラの、暗い部屋で一人だった。
優勝者に、あてがわれた、いちばんいい部屋。広くて、あたたかい、はずの部屋。なのに、そこは、私がこれまで過ごした、どの夜より、冷たかった。手のなかには、優勝の温度トークンが、あった。あたたかい缶。けれど、それは、冬川から、奪ったものと、同じ、種類の温かさだった。誰かを冷やして、手に入れた、温かさ。
私は自分の胸に、手をあてた。そこには、見えない、消費期限のシールが、貼られていた。ずっと自分で、貼りつづけてきた、あのシール。──いつのまにか私はそのシールを冬川にも、貼っていた。そして、自分が、香山澪と、まったく同じことをしていたことに、いまさら、気づいた。人を駒にして、数字に、換える。捨てる側に、回る。あの人が、二十年、やってきたことを。私はたった数週間で、なぞってしまった。
どこかで、雨の音がしていた。窓の外か、それとも、記憶の中の、店の軒先か。私には、もう区別が、つかなかった。ただ、冷えた指先だけが、ずっと震えていた。あの廃棄シールを握りしめたまま。粘着の面に、綿ぼこりが、一本、また、くっついていた。




