第十四章「廃棄ロスとチャンスロス」
発注には、二つの、こわいものが、ある。
一つは、「廃棄ロス」。頼みすぎて、売れ残る。期限が切れて、捨てる。原価が、まるまる損になる。もう一つは、「チャンスロス」。頼まなすぎて、品切れになる。買いに来た客が、手ぶらで、帰る。売れたはずの、機会を失う。
新人の頃、私はいつも廃棄ロスをこわがった。捨てるのが、つらい。損を出したくない。だから、少なめに、頼む。すると、品切れが、続いた。棚が、すかすかになった。客が、減った。──先輩に、言われた。「廃棄をこわがる発注は、いちばん店を痩せさせる」。
捨てる痛みを避けるために、機会を失う。それが、いちばんじわじわと店を殺す。目に見える廃棄は、こわい。目に見えないチャンスロスは、こわくない。だから、人は、こわくないほうの損を選んでしまう。いちばん大きな損を。
私は恋も、同じようにしてきたのだと、その夜、気づいた。
私はずっと廃棄ロスが、こわかった。
誰かに、心を渡して、選ばれなかったら。手に取ってもらえずに、期限が来て、捨てられたら。その痛みが、こわかった。だから、私はいつも少なめに、頼んだ。心を差し出さなかった。棚から、自分を下げた。差し出さなければ、捨てられることも、ない。──そうやって、私はチャンスロスを選びつづけてきた。売れたはずの、機会を失いつづけてきた。品切れの、すかすかの棚のまま、三十二年を過ごしてきた。
冬川悠に、心が、動いていた。それは、もう疑いようが、なかった。あの無防備な、だしの匂いを嗅ぐ顔。「あんたは、何が、欲しいんだ」と聞いてくれた声。彼の隣に、立つと、私は演技をしなくてよかった。奥の段でも、フェイスアップでも、なかった。ただ、相沢灯里で、いられた。
なのに、私は彼から、逃げていた。
その夜、私は彼の部屋の、前まで、行った。
廊下の、いちばん奥。細く、明かりが、漏れている。ドアの、木目に、その明かりが、一本、金色の線を引いていた。中で、彼が起きている。眠れない夜を一人で、過ごしている。私と、同じように。
私はその金色の線をしばらく見ていた。手を上げるまでに、ずいぶん、時間が、かかった。心臓が、耳の奥で、鳴っている。喉が、渇いていた。ノックをしようと、手を上げた。──指先が、震えた。
あと、数センチ。その数センチが、遠かった。この木のドア一枚が、私と、彼のあいだの、あの透明なガラスだった。あたたかいものをいつも外から、見ていた、彼のガラス。手を届かせれば、いい。ただ、それだけ。ノックを一つ。それだけで、私はガラスの、内側に、入れる。ここでドアを叩けば。ごめんなさい、とちゃんと言えば。あなたはこわくない、あなたはあたたかい人だ、と伝えれば。私は心を差し出すことになる。廃棄ロスの、リスクを負うことになる。
もし、彼が私を選ばなかったら。もし、これも、私の思い上がりだったら。三十二歳の、賞味期限切れが、何を勘違いしてるんだ、と笑われたら。
こわかった。
私は上げた手を下ろした。
ドアを叩かなかった。逃げるように自分の部屋へ、戻った。心臓が、痛いくらい、鳴っていた。──また、チャンスロスを選んだ。差し出さなければ、捨てられない。手に取ってもらえない痛みを味わわずに、すむ。かわりに、目の前の、いちばんあたたかいものをみすみす、品切れに、した。
ベッドに、倒れこんで、私は天井を見た。
なぜ、私はこんなにも、廃棄ロスが、こわいんだろう。捨てられることが。手に取ってもらえないことが。──答えは、たぶんずっと昔から、私の奥の段に、あった。誰かに、期待して、選ばれなかった記憶。母に笑われた記憶。学校で、いないものとして、扱われた記憶。それらを味わうくらいなら、最初から、差し出さないほうが、いい。棚から、自分を下げておくほうが、いい。──そう、決めた日のことを私はうまく、思い出せなかった。ただ、いつのまにかそう、決めていた。自分に、消費期限の、シールを貼って。
冬川は私に「これから、探せばいい」と言った。「あんたは、何が、欲しいんだ」と聞いてくれた。あの人だけが、私の棚から、私を前へ、引き出そうと、してくれた。フェイスアップの、逆。奥に隠れた私を正面へ。──なのに、私はその手を振り払って、また、奥へ、引っ込んだ。いちばんあたたかい手を。
その翌日。
スタッフから、最終回の、企画が、発表された。
「次の脱落セレモニーは、生放送で、行います」
香山さんの声が、広間に、響いた。
「そして、その回で、脱落する一人が、決まっています。──番組をいちばん盛り上げてくれた、"悪役"に、退場して、もらう」
悪役。──広間の、全員の視線が、ちらりと冬川に向いた。彼は無表情のまま、正面を見ていた。もう誰も、それを隠そうとも、しなかった。冬川悠は、生放送で、大勢が見ている前で、いちばん屈辱的な形で、棚から、下げられる。それが、決まっていた。
私は香山さんに呼ばれた。別室で、彼女は言った。
「あなたには、その生放送で、彼に"とどめ"を刺してもらう」
「とどめ」
「みんなの前で、はっきり、言うの。"あなたのことは、こわい。ここにいてほしくない"って。健気な庶民が、勇気を出して、危険人物を拒絶する。──視聴者は、拍手喝采。数字は、爆発する。そして、その回で、あなたと、一ノ瀬くんの、恋が、成就する。完璧な、シンデレラの、最終回よ」
香山さんは微笑んだ。
「それをやりきれば、あなたは優勝。賞金も、お店も、手に入る。──簡単でしょう?」
私は手のなかの、廃棄シールを握りしめた。
簡単だった。ほんとうに簡単だった。たった一言。あなたのことは、こわい。それだけで、店が、救える。あの明かりが、消えずにすむ。──かわりに、私を単品で見てくれた、たった一人を生放送で、みんなの前で、廃棄する。
「もし……もし、断ったら」
私は小さく、聞いた。
「断らないでしょう」
香山さんは書類をそろえた。
「あなたは賢い人よ。損得の、わかる人。廃棄ロスと、チャンスロスの、綱を毎晩、渡ってきた人。──だったら、わかるはず。ここで脚本を蹴るのは、いちばん大きな、廃棄ロスよ。優勝を捨てる。お店を捨てる。あの大勢の行き場を捨てる。たった一人の、無愛想な男のために。そんな発注、あなたなら、しないでしょう」
うまい、とまた、思った。この人は、私の職能の言葉で、私を追い込む。私がいちばんこわがっているものを正確に、突いてくる。廃棄ロス。捨てる痛み。──まるで私の棚の、奥の空洞を知り尽くしているみたいに。
いや、と私はふと思った。知り尽くしている、のかもしれない。この人も、かつて、同じ、綱の上にいたのかもしれない。だから、こんなにも、正確に、私を追い込める。──けれど、その考えをたどる余裕は、なかった。
私はまた、廃棄ロスをこわがっていた。冬川に心を差し出す、リスクを。だから、チャンスロスを選ぼうと、していた。彼を失うほうを。──それが、いちばん私を痩せさせる、選択だと、知っていながら。
窓の外で、雨が、また、降っていた。最終回まで、あと、数日。私はいちばん大事な発注をいちばんこわがりな自分に、任せようとしていた。
その夜、私は夢を見た。
深夜三時の、店の夢。廃棄の弁当を一人で、食べている。そこへ、番重を抱えた、ドライバーが、入ってくる。顔は、見えない。ただ、その背中に、私はなぜか泣きたくなる。行かないで、と言いたいのに、声が、出ない。ドライバーは、番重を置いて、空の番重を抱えて、去っていく。無言のまま。──いつものように。
目が覚めると、頬が、濡れていた。なぜ、泣いていたのか、わからなかった。ただ、その夢の、去っていく背中が、冬川の背中と、ぴたりと、重なっていた。




