第十三章「切り抜き」
番組が、佳境に入ると、「切り抜き」が、始まった。
本編の、ほんの数十秒を切り取って、短い動画にして、流す。文脈は、いっさい、つかない。切り取られた、その一場面が、すべてになる。──便利で、残酷な、仕組みだった。棚から、一品だけを抜き出して、それが、その店のすべてだと、思わせるようなものだ。
冬川悠の、切り抜きは、日に日に、増えていった。
彼が無表情で、庭に立っている、十秒。彼が私と一ノ瀬を遠くから、見ている、五秒。彼がぶっきらぼうに、「別に」と答える、三秒。──それらが、不穏なタイトルをつけられて、広まった。「今季の危険人物」「相沢さんを狙う影」「この目、こわすぎ」。
コメント欄は、日ごとに、冷たく、なった。
『冬川、まじで気持ち悪い』
『こいつ何しに来たん』
『相沢さん、はやく逃げて』
『こういう陰キャが、いちばん危ないんだよな』
『早く脱落してほしい』
私はスタッフルームの、モニターの端で、それを見ていた。
切り抜きの、恐ろしさを私は仕事で、知っていた。うちの店でいちばん売れる、ある弁当が、一時期、「まずい」とネットで、叩かれたことが、あった。理由は、たった一枚の、写真だった。誰かが、盛りつけの崩れた一個を撮って、上げた。それだけで、何万個も、まともに、作られている、その弁当の、すべてが、「まずい弁当」になった。一枚の写真が、全体を上書きする。切り抜きとは、そういうものだ。木を一本、抜き出して、それが、森の、すべてだと、言い張る。しかも、その一本すら、いちばんねじくれた枝だけを切り取って。
人間で、それをやれば、どうなるか。──いま目の前で、起きていた。冬川悠という、一本の、まっすぐな木が、三秒の切り抜きで、「危険な森」に、書き換えられていく。何万個も、まともに作られた弁当が、一枚の写真で、まずい弁当にされたときと、同じ手つきで。文脈を抜けば、どんな人でも、悪役に、できた。
喉の奥が、ひりついた。ちがう。この人は、こんな人じゃ、ない。私はそう、叫びたかった。あの人は、だしの匂いに、無防備な顔をする。米粒一つ、残さず食べる。眠れない夜に、そっと弁当を温めてくれと、差し出すと、両手で、その温度を確かめる。──そういう、不器用で、あたたかい人だ。
なのに、私は黙っていた。
黙っているどころか、私はその切り抜きの、一部だった。「冬川さんは、こわい」とカメラの前で、言った、あの一言が、いちばん拡散した。「相沢さんも、こわがってる」。私の言葉が、彼への悪意に、お墨付きを与えていた。私は加害の、いちばん真ん中にいた。
その頃、店から、連絡が、来ていた。
合宿の合間、スタッフを通して、届いた、オーナーからの、短い伝言。「再開発の、期限が、早まった。移転の資金の、締め切りが、近い。相沢さんの、決断を待っている」。──店の明かりが、消えるまでの、時間が、削られていた。私が賞金に、近づけるかどうか。それに、あの明かりが、かかっていた。
その伝言を読んだ夜、私は田久保さんの顔を思い出していた。
「この明かりが、あるうちはな。眠れん夜も、行き場は、ある」。あの人のしわの深い顔。ノノの、小銭を数える、震える指。夜勤明けの看護師の、疲れた背中。梶さんの、無糖のコーヒー。──あの深夜三時に、行き場のない人たちが、私の頭の中で、順に、明かりを求めて、集まってくる。あの明かりを消したら。あの人たちは、どこへ、行けば、いい。
守りたいものは、たしかにそこに、あった。嘘では、なかった。私はあの明かりのために、ここへ、来た。だから、乗るしか、ないんだ。冬川さん一人を犠牲にしても、あの大勢の、行き場を守れるなら。──それは、正しい、計算のはずだった。廃棄ロスと、チャンスロス。一人の温度と、大勢の明かり。天秤に、かければ、答えは、明らかなはず、だった。
なのに、その計算は、いくらやっても、胸の奥が、冷えるばかりだった。
だから、私は乗りつづけた。一ノ瀬との、恋を演じた。冬川を避けた。切り抜きの、悪意を見て見ぬふりをした。奥へ、奥へと、罪悪感を押し込んで。
けれど、その夜。
冬川が私を待っていた。
庭の、いちばん暗い隅。カメラの、死角。彼はそこに、立っていた。私が通りかかると、静かに言った。
「相沢さん」
私は足を止めた。逃げようと、したのに、足が、動かなかった。
「聞いていいか」
冬川の声は、いつもどおり、静かだった。責める色は、なかった。それが、かえって、つらかった。
「あんたにも、俺は、そう、見えてるのか」
私は彼の顔を見られなかった。
「あんたが、カメラの前で、言ったの、見た。俺のこと、こわい、って。何を考えてるか、わからない、って」
冬川は一歩、私に近づいた。
「あんたは、俺の、何が、こわいんだ」
答えられなかった。こわくなんか、ない。あなたはこの番組で、いちばんあたたかい人だ。──そう、言えば、いいのに。喉の奥で、あの卑屈な声が、また、ふたをしていた。店の明かり。締め切り。もし、いまあなたをかばったら、私は次に、冷やされる。──言い訳が、ぐるぐると、回った。
「……ごめんなさい」
絞り出したのは、それだけだった。
冬川はしばらく私を見ていた。それから、ふっと目を伏せた。傷ついた、というより、何かを諦めた顔だった。まるで期待していた品の、裏のシールを確かめて、やっぱりな、と思ったみたいに。
「そうか」
彼はそれだけ、言った。
「あんただけは、違うと、思ってた。……俺を単品で、見てくれるって」
冬川はいちど、口を閉じた。それから、ぽつりと続けた。
「俺、ずっとそうだった。夜の仕事だから、昼の人間と、話す機会もない。無愛想だから、誤解も、される。顔だけ見て、こわいって、言われる。番組に、出りゃ、少しは、変わるかと、思った。……ばかだよな。どこに行っても、同じだ。人は、俺をちゃんと見ない。三秒で、決める」
三秒で、決める。──客層キーだ、と私は思った。ひと目で、型に、振り分ける。彼もずっとそれをされてきた人だった。私と、同じように。
「でも、あんたは、」
彼は暗がりの中で、私を見た。
「俺の、飯の食い方一つで、俺が、時間に追われて生きてきたって、わかった。荷の積み方で、仕事まで、当てた。あんたは、三秒で、決めない人だと、思った。だから、俺は──」
彼はそこで、言葉を切った。だから、俺は。その先を彼は言わなかった。言わずに、飲み込んだ。
「もういい」
冬川は背を向けた。
その一言が、私の胸をいちばん深いところで、貫いた。単品で、見てくれる。──それは、私が彼にしてもらったことだった。そして、私が彼にしてあげたかったことだった。なのに、私は彼をいちばんひどい形で、型に、押し込んだ。「悪役」という、型に。
冬川は暗がりの奥へ、歩いていった。その背中は、いつか私がどこかで、見送った背中と、重なった。番重を置いて、去っていく、誰かの背中。顔も、見ないまま、すれ違ってきた、誰か。──また、あの既視感が、胸の奥で、疼いた。けれど、いまは、それをたどる余裕は、なかった。
私はその場に、立ちつくした。手のなかに、いつのまにかあの古い廃棄シールを握りしめていた。合宿に、こっそり、持ってきていた、あのシール。指先で、粘着をなぞる。──まだ食べられるのに、売ってはいけないもの。私はいまその線を冬川に貼っていた。私自身に、貼りつづけてきたのと、同じ、線を。
夜風が、冷たかった。庭の照明が、じいと、鳴っている。うちの店の冷蔵ケースの唸りと、同じ音で。あの人は、こわくない。あの人は、あたたかい。──それをいちばん知っている私がいちばんひどく、あの人を冷やした。喉まで出かかった真実は、また、店の明かりに、押し戻された。私はそういう、卑怯な人間だった。




