第十一章「健気な庶民」
その週の、脱落セレモニーは、いつもと、違った。
私の名前が、いちばん最初に、呼ばれた。──残る側の、いちばん最初に。
香山さんがあの温度トークンを私に差し出した。あたたかい、銀色の缶。手のひらに、じんわりと、熱が、伝わる。何万本も、客に手渡してきた、あの温かさが、今度は、私の手のなかに、あった。私は選ばれる側にいた。生まれて、初めて。
「相沢灯里さん。あなたは今週、いちばん視聴者の心を動かしました」
香山さんの声が、広間に、響く。カメラが、私を正面から、捉えている。
「地味で、目立たない。けれど、いざというとき、いちばん頼りになる。誰よりも、優しい。──みんなが、応援したくなる、"健気な庶民"。それが、あなたです」
拍手が、起きた。参加者たちが、私を囲んで、笑っていた。あざとい桃瀬まりんまで、「相沢さん、尊敬しますー」と手を叩いていた。私は温度トークンを両手で、握りしめた。あたたかい。ずっと欲しかった、この温かさ。ずっと私を素通りしていった、この「選ばれる」という、感覚。
なのに。
私の胸の奥は、じわじわと冷えていった。
健気な庶民。──それは、称賛の言葉の顔をしていた。けれど、その正体は、また、一つの、型だった。地味枠から、健気な庶民枠へ。振り分けの、ボタンが、押し直されただけ。番組は、私を相沢灯里という、一人の人間として、見たわけでは、なかった。「みんなが応援したくなる、いい話の主役」という、商品として、上の棚へ、移し替えただけだった。
私が欲しかったのは、これじゃ、ない。
私はそのとき、初めて、はっきりと気づいた。私がほんとうに欲しかったのは、「選ばれる」ことじゃ、なかった。型に、当てはめられて、称賛されることじゃ、なかった。──あの深夜のキッチンで冬川が聞いてくれた、あの一言。「あんたは、何が、欲しいんだ」。あのたった一人に、単品として、見てもらえること。それが、私がずっと欲しかったものだった。
温度トークンは、あたたかかった。けれど、それは、私が店で客に手渡してきた温かさとは、違う、種類の温かさだった。無条件では、ない。値札の、ついた温かさだった。
思えば、私はずっとこの温かさを追いかけてきた。選ばれること。手に取られること。母に認められること。誰かに、要る、と言われること。それさえ、手に入れば、私の空っぽの棚は、満たされると、信じていた。
なのに、いざ、それが、手に入ってみると。胸の奥の、空洞は、埋まるどころか、いっそう深く、感じられた。
なぜだろう、と私は拍手の中で、考えていた。答えは、案外、単純だった。──「健気な庶民」を応援している人たちは、相沢灯里を見ていない。彼らが、応援しているのは、番組が作った、「健気な庶民」という、物語だ。もし、私が明日、その物語から、はみ出したら。優しくなかったり、健気でなかったりしたら。彼らは、たぶんあっさりと、手を引っ込める。棚から、下げる。──選ばれたのは、私では、なかった。私に貼られた、新しいシールの、ほうだった。
単品管理の目で、自分を見てしまう。私はいま上の棚の、ゴールデンラインにいる。でも、それは、私という単品が、認められたからでは、ない。「よく売れる物語」という、ラベルが、私に貼られただけ。ラベルが剥がれれば、私はまた、奥の段へ、戻される。
あたたかいはずの温度トークンが、手のなかで少しずつ冷えていくように感じた。
セレモニーのあと、香山さんが私を別室に、呼んだ。
「よかったわね。上の棚は、居心地、どう?」
「……ありがとうございます」
「さあ、ここからが、本番よ」
香山さんはテーブルに、数枚の、紙を広げた。今後の、演出プラン。私はその紙に、書かれた文字を見て、息をのんだ。
一つ。私と、一ノ瀬岳の、恋の物語を盛り上げる。健気な庶民が、今季の王子に、選ばれる。──視聴者が、いちばん喜ぶ、シンデレラストーリー。
もう一つ。その恋を引き立てるための、「悪役」を置く。私にしつこく、言い寄る、無愛想な男。私が彼を拒む。視聴者の、反感を集める。──冬川悠。
「あなたには、二つ、やってもらう」
香山さんが指で、紙を叩いた。
「一つ。一ノ瀬くんとの、恋を演じる。もちろん、素で、いいの。彼、あなたのこと、狙いにいくから。あなたはただ、まんざらでもない、顔をすればいい」
「もう一つは」
「冬川くんをはっきり、拒むこと。カメラの前で。"あの人は、こわい"って。それだけで、いいの。あとは、こっちが、編集する」
私の手のなかで温度トークンが、急に、重く、なった。
「もし、断ったら」
「断らないでしょう」
香山さんは微笑んだ。あの体温のない、やわらかさで。
「あなた、お店のために、来たんでしょう。優勝賞金。移転の、資金。──ここで脚本に、乗れば、あなたは決勝まで、残れる。優勝も、狙える。お店の明かりは、消えずにすむ。でも、乗らなければ」
香山さんは言葉を切った。
「次の、セレモニーで、あなたの温度トークンを返してもらうことになるかもね」
脅しだった。やわらかい、笑顔の、脅しだった。私はうつむいた。手のなかの、温度トークンを見た。あたたかい。けれど、この温かさは、冬川を冷やすことと、引き換えだった。私を単品として見てくれた、たった一人を私の手で、悪役に、仕立てあげ、棚から、下げること。それと、引き換えの、温かさ。
店の明かり。田久保さんの肉まん。ノノのコーンスープ。あの消えかけの、明かり。
冬川の、無防備な、だしの匂いを嗅ぐ、あの顔。
二つの、あたたかいものが、私の中で、天秤に、かけられていた。どちらを取っても、どちらかを失う。両立しない、二つの、温かさ。
店を選べば、冬川を失う。冬川を守れば、店を失う。
いや、と私は思い直した。ほんとうは、そんなきれいな、天秤じゃ、ない。もっと汚い、話だ。私は店のために、冬川を"利用"する側に、回ろうとしている。彼を悪役に、仕立てる。彼を冷やす。彼の温度を奪う。そうやって、私は上の棚に、居座り、賞金に、近づく。──それは、香山さんが二十年、やってきたことと、同じでは、ないか。人を駒にして、数字に、換える。捨てる側に、回る。
冷たい、汗が、背中を伝った。私はいつのまにか自分が、いちばんなりたくなかったものになりかけていた。
でも、と心の奥で、あの卑屈な声が、囁いた。──どうせあなたは賞味期限切れ。冬川さんも、あなたなんかより、若くて、きれいな子と、うまくいったほうが、幸せ。あなたが身を引いて、店を守るほうが、みんな、しあわせ。それは、優しさよ。──いつもの、フェイスアップの声だった。自分の弱さを優しさに、見せかける、あの声。私はその声に、すがりたく、なっている自分を感じて、ぞっとした。
断れば、いい。ただ、そう言えば、いい。私は店のために、来ました。でも、人を駒にすることは、できません。冬川さんを悪役には、しません。──たったそれだけの言葉が、喉の奥で、つかえて、出てこなかった。喉に、あの卑屈な声が、ふたをしていた。店の明かりが、消える。田久保さんの、行き場が、なくなる。ノノの、朝ごはんが、なくなる。それは、私のせいだ。私が断ったせいだ。──その重さに、私は耐えられなかった。
「……少し」
私は絞り出すように言った。
「少し考えさせて、ください」
香山さんは満足そうにうなずいた。私が断らないことを知っている顔だった。
そして、その「少し考えさせてください」を口にした瞬間から。私の裏切りは、もう始まっていた。即座に断らなかった時点で、私は天秤の、片側に、そっと指をかけてしまっていた。店の明かりのほうへ。冬川の温度を犠牲にする、ほうへ。手のなかの温度トークンは、もう少しも、あたたかく、なかった。




