過去
私もすべてを知っているわけではないのですが、お兄さんは昔家出をされたんですよね。あなたにとても迷惑をかけたと言っていました。自分のせいで楽しいはずの青春時代を曇らせてしまったと悔やんでいました。
お兄さんは、家を出てから東京で働き始めました。小さな町工場です。昔から手先が器用だったんですよね。本当はそういう工場での仕事をしたかったようです。確かにあまり人と打ち解けるのが得意な性格ではなかったので友達とかはいなかったようですが、それでも勤務態度は真面目で仕事もきちんと仕上げる人だったそうですよ。
でも、働き始めて2、3年経った頃でしょうか。それまでずっと無理をしていたのが祟ったんでしょう、お兄さんは体調を崩されました。それでうちの病院へ入院したんです。
仁哉には全く想像がつかない話だった。和由が働いていた。それは俄には信じられなかった。
「重度のうつ病でした。おそらくご実家にいらっしゃる頃から発症していたんでしょう。」小林は続けた。
入院したことで症状は落ち着いてきました。しかしこのご時世ですからね、お兄さんもそれをわかっていたんでしょう、仕事を辞めることにしたんです。これからどうするのか私が尋ねると、弟のところへ行って謝りたいとおっしゃいました。
「でも、僕のところに来るって言っても最初は身元不明だったんですよ」
お兄さんからお話伺いました。あなたに会いにいこうにもどこに住んでいるのかもわからない。とりあえずネットであなたのことを検索したそうです。それで松南市役所がヒットしたと。
「そういえば前に先輩職員のメッセージか何かでサイトに僕がのってたかもしれない」
きっとそれを見たんでしょう。お兄さんは市役所を目指しました。でも、今までネットカフェなんかで暮らしていたのでお金も使い果たしてしまった。結局都心から野宿をしながら松南へ向かったそうです。ただでさえ疲れて弱っていたところで山道を歩いていたので足を滑らせてしまったんです。
「そうだったんですか・・・。でもそこまで覚えてるってことは記憶障害というのも本当は・・・」
いえ、最初は本当に何もわからなかったみたいですよ。気がついたらあなたの家だった。あなたと再会した瞬間は覚えていないしどうやってあなたと会えたかもわからないと言っていました。
記憶が戻ったと言ってもよかったけれど、なんとなく言い出せなかった。自分に罪悪感があったのかもしれない。今はとにかくあなたの好きにさせてあげたい、と言っていました。
「あの、警察が家に来た時のことって何か言っていましたか?」
そうですね。弟を犯罪者にさせるのだけはどうしても避けたかった、と言っていましたよ。
あなたは、お兄さんのことを嫌っていたと思います。それはお兄さんも知っていました。でも私にはお兄さんがそんなに悪い人だとは思えないんですよね。もちろん患者とソーシャルワーカーという立場だからというのもあるとは思うのですが、私も日々いろんな患者さんと接して思います。お兄さんはとてもきちんとしていて、だからこそうつ病になってしまうというのもあるのですがね
小林はお茶をすすって言った。
「弟思いのいいお兄さんですよ」




