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婚約者に「きみは丈夫だから、守る必要がない」と言われたので、病弱な幼馴染さまは侍医長さまに診ていただくことにしました

作者: 雪村ゆい
掲載日:2026/10/13

「クラリス・モンテール。きみとの婚約は、今夜かぎりで破棄させてもらう」


 王宮の大広間に、ユリウスが高らかな声で言い放った。

 冬至祭の夜会のために奏でられていた楽団の演奏が、中途半端な和音を残して止まる。


(よく通るお声だわ)


 私は、広間の中央に立つ婚約者を見た。

 明るい栗色の巻き毛の下で、大げさな銀糸の刺繍を施した流行の空色の上着を着たユリウスが、細い顎を不自然なほど上げている。


 その腕に両手を絡めているのは、ユリウスの幼馴染のミレイユだ。

 婚約してから幾度も顔を合わせているが友人ではない。


 親しく話したこともないのに、男爵家の彼女は子爵家の私をさま付けもせずに呼ぶ。

 冬だというのに、ユリウスの上着とお揃いの空色の薄いドレスを着ている。


 ユリウスの腕にしなだれかかりながら、ミレイユは白いレースのハンカチを口元に当てていた。

 壁を飾る常緑の枝と赤い実が、暖炉の炎に照らされて長い影を揺らしている。


(その薄着なら、暖炉のそばから離れなければいいのに)


 私はドレスの袖口を指でつまみ、ユリウスへ正面から向き直った。


「どうして急に、そのようなことを仰るのです」


「ミレイユは病弱なんだ。僕が一生そばで守ってやらなければならない」


「わたくしへの不満があるのなら、お聞きいたしますわ」


「きみは丈夫だから、守る必要がない」


 ユリウスが胸を張り、広間の客たちを見回した。

 ミレイユが白いレースのハンカチで口元を覆い、咳き込む。


「ごめんなさい、クラリス。わたし、体が弱くて」


「ミレイユは今夜も、僕のために無理をして来てくれたんだ」


「夜明けの乾杯で、伯爵家の跡継ぎのユリウスが婚約を披露してくれるのが楽しみで。だから少し無理をして」


 ミレイユが潤んだ瞳で私を見る。

 白粉を重ねて青白く見せている頬の下には、赤みがほんのりと透けていた。


(今夜で三曲踊って、焼き菓子も三つ食べていたわ)


 私はミレイユの頬からユリウスへ目を向け直した。


「夜明けの乾杯で、ミレイユとの婚約を皆に披露する」


 ユリウスの言葉に、扇の陰で客たちがささやきを交わした。


「あの方たち、先ほどから三曲も踊っていらしたわよ」


「婚約者との最初の一曲より先に、ほかの方と踊るなんて」


 冬至祭の夜会で、婚約している者は、最初の一曲を婚約者と踊るまでほかの誰とも踊らない習わしがある。


「そのおつもりなら、仕方がございませんね」


 私は手元の扇を開くこともなく、短く答えた。


(明日にでも、領地のお父さまへ使いを出さなくては)


 両親は冬のあいだ領地にいる。

 子爵家と伯爵家で取り決めた婚約の解消について、雪で道が閉ざされる前に急いで手配をしなければならない。


「きみは僕に少しも興味がないんだな。冬至祭のたびに僕がミレイユを送って帰っても、一人で平気な顔をしていた」


「夜明けの乾杯まで広間に残るのは、王宮の習わしでございますから」


「強がるな。きみは昔から、そうやって可愛げがないんだ」


 ユリウスが鼻を鳴らし、ミレイユの肩を抱き寄せる。


(三年前。最初の一曲の前にミレイユをお送りになり、戻っていらっしゃらなかったわ)


 私は息を吐き、足元の絨毯の模様へ目を向けた。


(私との約束の日に限って倒れるのだから、病気ではないと疑っていたわ。けれど口に出せば、こちらが冷たい女になるものね)


 私は足元から、ユリウスとミレイユへ目を戻した。

 ミレイユがユリウスを見上げた。


「わたしが足手まといになるから、ユリウスもご苦労ばかりで」


「そんなことはない。僕がきみを支えると決めたんだ」


「でも、お二人のお約束をわたしが邪魔してしまって、クラリスには申し訳なくて」


「きみが謝る必要はないさ」


 ユリウスは私から目を逸らし、ミレイユを慰める。


「きみは一人でも立っていられるだろう。ミレイユには僕が要る」


「わたくしはお支えいただかなくとも平気だというお話は、承知いたしました」


 私は両手でドレスの裾を持ち上げ、一歩下がった。


 冬至祭は一年でいちばん長い夜を踊り明かし、国王陛下がお出ましになる夜明けの乾杯まで各家から一人は残る。

 多くは途中で控えの間へ下がり、冬の夜会には流行り病に備えて侍医長が控えている。


(私は最初の一曲を待っていたのよね。戻っていらっしゃるかもしれない婚約者さまとの)


 私は毎年、モンテール家とベルトラン家の分まで一人で乾杯を待っていた。


 毎年、夜明けまで広間に残り続けていたのは私と、もう一人だ。


 広間の隅から、人々が急いで道を空けた。

 近くにいた令嬢たちが、次々と目を伏せて後ずさる。


「氷の公爵さまがいらしたわ」


 長身で肩幅の広い男が歩いてきて、騒ぎを囲む人垣の端で足を止めた。

 黒髪を短く整え、冬至祭の深い緑の礼装をまとっている。


 冷たいほど整った顔立ちに、通った鼻筋を備えている。

 切れ長の濃い灰色の目で、広間を見渡す。


 若くして当主を継いだヴァレンヌ公爵、クロードだ。


 公爵家は代々、夜明けの乾杯で国王陛下に杯をお渡しする役目を負っている。


(あの方はお役目で、毎年残っていらっしゃるのよね)


 クロードとは離れた場所から会釈しかしたことがない。

 こちらから歩み寄るような間柄ではなかった。


 ミレイユが、また白いレースのハンカチを口元に当てて咳き込んだ。

 ユリウスの腕に体を寄せたまま、空色のドレスに包まれた細い肩が小刻みに揺れる。


「こほっ」


「見ただろう。ミレイユはこれほど病弱なんだ」


 ユリウスが広間の客たちに向かって声を張った。


「病弱、でございますね」


 私は扇を持った手を下ろし、咳をするミレイユの様子に目を向けて言った。


「そうだ。これまで何度倒れたと思っている」


 ユリウスが顔を上げ、広間に響く声で言い切る。


「夜会の最中にも倒れた。出かける約束をしていた日にも幾度も倒れた。そのたびに、僕がつきっきりでそばについていてやらなければならなかったんだ」


「ユリウス、もういいの。わたしが我慢すればすむことだから」


「我慢する必要なんてない」


 ユリウスはミレイユの背中をゆっくりと撫でた。

 背筋を伸ばし、広間の客たちを見回した。


「僕が見ていなければ、ミレイユはいつ倒れるかわからない状態なんだ」


 ミレイユがユリウスを見上げて小さく頷いた。


「ええ、ユリウスの言うとおりだわ」


「きみの体は、それほどまでに弱い。きみには僕がついていてやるしかないだろう」


 客たちが扇の陰で目を見交わし、二人のやり取りを聞いている。


「それはいけません。今夜は、侍医長さまがいらしています」


 私は広間の奥のほうへ目を向けた。

 壁際の長椅子のさらに奥には、控えの間へと続く扉がある。


(仰せの通りに、よく倒れられるのなら、お医者さまに診ていただくのが筋だわ)


「幾度もお倒れになる方に、ご無理をさせてはなりませんわ」


「お医者さまは、呼ばなくていいの。わたし、お医者さまはひどく怖いの」


 ミレイユがユリウスの腕に顔を押し当てて、怯えたように身を縮めた。


「やめろ、クラリス。事をこれ以上大げさにするな」


 ユリウスが私を強く睨みつける。


 私は背筋を伸ばした。

 ユリウスのほうへ顔を上げた。


「大げさではございません。幾度も倒れたと、たった今仰いました」


「それはそうだが、今ここで診てもらうほどのことじゃないんだ」


「ユリウス、お医者さまなんて呼ばないで。診察なんて受けたくないわ」


「ミレイユがひどく怖がっているだろう。無理に診せたら、もっと具合が悪くなる」


 ミレイユがユリウスの腕を両手で強く握った。


「お願い、わたしを助けて」


「きみには一生わからないんだ。この子の繊細な心身のことが」


 私たちが言葉を交わしている間に、人垣の端にいたクロードが、広間の奥へ歩き出していた。

 進むたび、客たちが慌てて道を空ける。


 彼は無言のまま、控えの間へと続く重厚な扉の向こうへ消えた。

 やがて、六十を過ぎた男を連れて戻ってくる。


 小柄な体つきに、立派な白い口ひげを蓄えていた。黒い長衣を着て、首から銀の懐中時計を下げている。

 王宮の侍医長だ。


「あの侍医長が来たら、もう誰も逆らえないわよ」


「ええ。昔の王が侍医の言うことを聞かずに冬の夜会を開き、流行り病を王都中に広げてしまったのだから」


 客たちが扇の陰で顔を寄せ合い、小さくささやき合う。

 ユリウスが手を伸ばして何か言いかけて、すぐに口を閉ざす。


 侍医長は脇目も振らず、私とユリウスのいる広間の中央まで歩いてきた。


「ご病気の方は、どなたですかな」


 侍医長が歩み寄り、落ち着いた声で尋ねた。


「あの、わたしは」


 ミレイユがレースのハンカチを口元に当てて言葉を濁す。

 ユリウスがミレイユをかばうように前に出た。


「この子です。ひどく体が弱くて、よく倒れるんです」


「倒れる、とは。どのようなときにですか」


「出かける約束をした日によく倒れるんです。食も細くて、心配でなりません」


「ほう。食が細いのですか」


 侍医長は真顔で聞き返し、深く頷いた。


「夜にはひどい咳が出るし、冬はとくに弱って寝込んでしまうんです。冷えは体によくありませんから」


「なるほど。それは重い症状ですな」


「そうなんです。僕がそばについていてやらないと、すぐに具合を悪くする」


「これまでに、何度倒れられましたか」


 侍医長の問いに、ユリウスは顎を上げて答えた。


「十回ほどです」


「ほど、では困ります。お薬の調合に関わりますので、数は正確にお願いしますぞ」


「ええと、正確に」


 ユリウスは両手を出して、指を折りながら数え直す。


「春の園遊会の日だろう。それから夏の観劇の日、秋の夜会の日」


(倒れた日を一つずつ、ご自身のお口からお話しになるのね)


 私は手元の扇の要を親指でなぞった。

 いまは、問診が終わるのを待つしかない。


(十七歳の誕生日の晩餐。食事が始まってすぐに知らせが来て、ユリウスさまは席を立たれたわね)


 私はユリウスが熱心に指を折る様子を眺めていた。


「ええと、それから……秋の狩猟祭の日にも倒れたから、これで六回目か。いや、七回目だったかな」


「ユリウス、そこまでは……」


「遠慮するな。きみはいつもそうだ。自分の具合の悪さを隠そうとする」


 ユリウスがミレイユの肩を軽く叩いた。


「違うの、わたしは」


「お医者さまには、すべてお話ししなければならないんだ。きみの体を治すためだからね」


「そう言うユリウスは優しいけれど、でも、わたしは」


 ユリウスはもう一本の指を折った。


「それから、去年の冬の雪の降る日にも倒れた。あのときは熱も高くて、三日は寝込んでいた」


「去年の冬、ですな」


 侍医長は真顔のまま、白い口ひげに指をやった。


「ええ。それに先月、街へ買い物へ出かけたときも、途中で倒れ込んだんです。あのときも僕が抱き留めました」


「先月も。それはご苦労なことです。安静になさらなければならないのに」


「今夜も、僕との約束のために無理をして王宮へ来たんです」


 侍医長が白い口ひげを撫でた。


「なるほど。夜会へ出るのもやっとの状態、ということですか」


「今夜も僕と続けて三曲も踊ったあと、息を切らしてふらついていたんです」


「三曲、ですか」


 ユリウスは身を乗り出して頷いた。


「ええ。僕が見ていなければ、今にも倒れてしまうほどです」


「無理をさせては、お体に障りますからな」


「そうなんです。ですから、僕が一生そばについていてやらなければならないんです」


「それでは、脈を診せていただきます」


 侍医長は首から下げた銀の懐中時計を開いた。

 ミレイユの手首に指を当て、時計の針をじっと見つめる。


「ふむ、ずいぶんと脈が速いですな」


(お医者さまを前にして身を固くしているのだから、脈も速くなるわね)


 私は床へ目を向けた。

 侍医長はミレイユの手首から指を離した。


「ユリウスどのが仰ったように、それほど頻繁に倒れられるのなら、状態はひどく重い。ただちに治療を始めますぞ」


「ち、治療、ですか? いやよ、そんなの」


 ミレイユが不安げな声を上げた。


「今夜から王宮の療養室にお入りいただき、七日の絶対安静を命じます」


「ななっ……七日もですか。でも、わたし」


「ええ。もちろん、どなたの面会もなりません。婚約者どのにもお引き取りいただきます。絶対安静ですので」


「僕も会えないんですか!」


 ユリウスが慌てて侍医長に詰め寄る。


「面会は、お体に障りますからな。それから、婚約や婚礼の気苦労は弱った体にはひどい毒です。少なくとも一年は控えること」


「い、一年⁉」


 ユリウスの声が甲高く裏返った。


「夜明けの乾杯で、皆に新しい婚約を披露するはずだったんです。それでは困ります」


「お命には代えられませんな」


 ユリウスは侍医長へさらに一歩詰め寄った。


「せめて夜明けの乾杯まで、広間に残すことはできませんか」


「なりません」


 ユリウスは足を引き、力なく両手を下ろした。


 侍医長は懐中時計を閉じ、言い渡す。


「ご病弱な体を治すのが先ですぞ。さあ、奥の療養室へ参りましょうか。歩くのも辛いでしょうから、人を呼びますかな」


(まさかこれほど重い言い渡しが下されるなんて)


 私は思わず息を詰めた。

 侍医長の言葉に、広間の客たちの話し声が止まった。


「わたし、病気なんかじゃないわ!」


 ミレイユが甲高い声を上げた。

 広間がざわめく。客たちが扇を動かす手を止めて、ミレイユのほうを見つめる。


「ミレイユ?」


 ユリウスが驚いたように名前を呼んだ。


「七日も療養室なんて絶対に嫌よ。わたし、どこも悪くないもの!」


「なにを言っているんだ。きみはいつも出かける約束の日に倒れて」


「それは、ユリウスにそばにいてほしかったからよ」


 ユリウスが大きく目を見開いた。


「え?」


「わたしが倒れたと言えば、ユリウスはいつも心配して駆けつけてくれたじゃない」


 ミレイユはユリウスの腕にしがみついた。


「わたしが具合が悪いと言うと、ユリウスは優しくしてくれたわ。ずっとそばにいてくれたもの」


「全部、嘘だったのか」


 ユリウスが呆然と呟く。


「そうよ。だからわたし、本当はどこも悪くないの。とても元気なのよ」


「ほう。では、夜に出るというひどい咳は」


 侍医長が真顔で聞き返した。


「あれは、ふいにむせたのよ」


「先ほどの咳は」


「咳のふりをして見せたのよ。少しも苦しくなんかないわ」


「では、その青白いお顔の色は」


 ミレイユが自分の首元を指さす。


「白粉を厚く塗っているの。首元と色が違うでしょう」


(自分で全部話してしまったわ)


 私は少し身を引き、両手を固く組んだ。

 客たちが息をのむ気配がする。


「食が細いというお話でしたが」


「本当はたくさん食べられるわ。今夜だって、甘い焼き菓子を三つも食べたもの」


「なるほど。先月、街で倒れ込んだのは」


「あれも、ユリウスに抱き留めてほしかったからよ。わたし、とても健康だわ!」


 ミレイユは細い顎を上げた。


(王宮のお医者さまを前にして、する態度ではないような気がするわ)


 私は組んだ両手に力を込めた。


「冬はとくに弱って寝込むと伺いましたが」


「そんなことないわ。今日もこの薄い空色のドレスで平気だもの。全然寒くないわ」


 侍医長は首から下げた懐中時計に触れた。


「出かける約束の日に幾度も倒れたのも、すべて」


「ええ、ユリウスに会いに来てほしかったからよ。だから、わたしは療養室になんて行かないわ。一年も婚約を控える必要なんてないのよ」


 ミレイユは胸を張って言い切った。


「間違いなく、どこも悪くはないのですな」


「ええ、悪くないわ。わたしは健康そのものよ」


 ミレイユが口角を上げた。


「ユリウスどのが幾度もそばについていなければならないほど、弱っていたのではなかったのですか」


「そんなの、ユリウスが勝手に心配してずっとそばにいただけよ」


(それはいくらなんでも、ユリウスさまがおかわいそうだわ)


「病でないなら、王宮の療養室は要りませんな」


 侍医長が告げた。


「ただし、病を偽ったことは侍医の記録に残します」


「記録、ですか? そんなのおかしいわ。わたしはただ――」


「病を偽る方の言うことは、実際に具合の悪いときにも信じられませんからな。以後、王都のどの家の医者も、あなたの申し立てを信じないでしょう」


 ミレイユが一歩後ずさった。


「そんな……嘘よ」


「流行り病の季節に、病弱だと偽る方を王宮の夜会へはお入れできません。どうぞお引き取りを」


 ミレイユが青ざめて口をつぐむ。

 侍医長はユリウスへ向き直り、言い放った。


「そして、病でない方を、皆の前でひどく重い病だと言い張ったのは、あなたですな」


「僕は、疑いなく病気だと信じて、庇わなければならないと」


「結果として、王宮の侍医を欺き、夜会の進行を妨げたことには変わりありません。ご自分の仰った言葉の重みを、よくお考えになることです」


 ユリウスは顔から血の気が引き、大きく目を見開いた。

 やがて、何かにすがるように私へ向き直る。


「クラリス。婚約破棄は取り消す」


「今夜かぎりで、と皆さまの前で仰いました」


「あれは言葉のあやだ。僕はすっかり騙されていたんだ! きみならわかってくれるだろう」


 ユリウスが言い訳を重ねながら、私へ一歩詰め寄る。

 そのとき、クロードが黙って私の横に立った。


 無言のままユリウスを見る。

 ユリウスは息をのみ、怯んだように一歩下がった。


(これ以上騒ぎが大きくならないよう、お立ちくださったのだわ)


 客たちがクロードの振る舞いに小さく頷くのが見えた。


 広間の脇のカード室で年配の殿方たちと勝負をしていた、ユリウスの父であるベルトラン伯爵が歩いてきた。

 背が高く、栗色の髪に白いものが混じっている。


 その手には、勝負の途中で立ち上がったのだろう、カードを一枚持ったままだった。


「ユリウス。ここで何をしている」


「父上」


 伯爵の問いに、年配の夫人の客が進み出て、今夜のことを手短に伝えた。

 息子が皆の前で婚約破棄を宣言したこと。ミレイユが病を偽っていたこと。


「それに、毎年ご子息はミレイユさまを送って先にお帰りになり、モンテール嬢がお一人で夜明けの乾杯まで残っていらしたのです」


「なんだと?」


「三年のあいだ、ずっとでございます」


 伯爵は初めて知ったように目を見張り、手元のカードを強く握りしめた。


(家どうしが決めた婚約で、子爵家の娘から伯爵家へ申し上げられることではなかったのよね)


 私は手元の扇に目を落とした。

 顔を上げ、伯爵の手にあるカードへ目を向けた。


「ユリウス。一生そばで守ると、皆の前で申したそうだな」


「それは、あの、ミレイユが病気だという言葉を信じていたからで」


「言い訳はよせ。自分の発した言葉だ。ならば守るがいい。家督は弟に継がせる」


「父上!」


 伯爵は手に持ったカードでユリウスを指さした。


「伯爵家の跡継ぎとしてではなく、ただの男として、その娘を一生守れ」


「しかし、僕は伯爵家の長男です。それに病気ではなかったのですから」


「自分の言葉に責任を持てぬ者に、家督は譲れん」


 ユリウスが言葉を失う。

 伯爵は手元のカードを近くの給仕へ渡した。


「え……跡継ぎじゃ、なくなるの?」


 ミレイユがうわ言のようにこぼした。

 ユリウスがゆっくりとミレイユの顔を見る。


(ユリウスさまのことより先に、跡継ぎかどうかを尋ねるのね)


 私は唇を固く結んだ。


 伯爵が私へ向き直り、深く頭を下げた。


「モンテール嬢。我が伯爵家として、深く詫びる」


「いいえ、とんでもございません」


「私は毎年カード室にこもって広間を見ず、夜半に下がっていたため、息子が先に帰っていたとは知らなかった。三年のあいだ、我が家の分まで乾杯に残ってくれたこと、心から礼を言う」


 私はドレスの裾をつまんで頭を下げた。


「わたくしの務めを果たしたまででございます」


「伯爵家として、この婚約は解かせてもらう。領地のお父上には、私から詫びてお伝えしよう」


「恐れ入ります。お手数をおかけいたします」


「二人は家の者に送らせる。今年は私が乾杯まで残ろう」


 ベルトラン伯爵に命じられ、家の者に付き添われて、ユリウスとミレイユが広間を出ていく。

 二人とも足取りはひどく重く、うつむいたまま誰の目も見ようとしなかった。


 ユリウスはあれほど大切にしていたミレイユの手を取ることもなく、重い扉の向こうへと消えていく。

 伯爵は客たちに頭を下げ、カード室へは戻らずに壁際に立った。


(今年も、あの二人は夜明けを待たずに帰っていかれたわ)


 私は閉ざされた扉へ目を向けた。


 クロードは無言のまま、私の隣に立ち続けていた。


 やがて、壁際に控えていた楽団がまた楽器を構えた。

 冬至祭の夜会のために、華やかな演奏が再び鳴り始める。


 夜明け前。窓の外には白い雪が音もなく降り続いている。

 広間に残る客はもうまばらだった。


 毎年この時刻になると、給仕が「夜明けまで残られる方へ」と言って、香辛料を入れた温かい葡萄酒を届けに来る。


 壁際の楽団が、今夜の最後の曲を奏で始めた。ゆったりとした調べが、暖炉の火の粉が爆ぜる広間に流れる。


(婚約は今夜かぎりで解かれたのだから、もうどなたと踊ってもよいのよね)


 私は両手を体の前で重ねた。


 曲が始まっても、クロードは私の隣から離れない。

 広間に残る者たちは彼を恐れ、遠巻きに私たちを避けている。


(あの方が笑ったお顔を誰も見たことがないのですもの、陰で氷の公爵と呼んで身を引くのも無理はないわ)


 隣にいたクロードが私の前へ回り込み、濃い灰色の目をやわらげた。


 彼が私に向かって手を差し出す。


「一曲、いかがでしょうか」


 その手を見て、私は思わず背後を振り返った。

 何かの間違いではないかと、彼を見上げる。


 彼は微笑んだまま言った。


「一年でいちばん長い夜です。私は、夜明けまで踊れる方と踊りたいのです」


 低く誘うような声に、私は今度こそ目を丸くする。


「夜明けまで、ですか?」


「あなたは三年、この夜会で一曲も踊っていない」


 私は思いがけない言葉に息をのみ、返す言葉を失った。


(私がずっと、一曲も踊っていないことまで、覚えていらしたのね)


 目の奥が熱くなるのをこらえた。

 閉じた扇を強く握りしめる。


 声の震えを隠し、やっとの思いで口を開いた。


「三年のあいだ、婚約者をお待ちしておりましたから」


「今夜はもう、待つ必要はありません」


 彼が片方の口の端を上げた。


(私を気遣っていらっしゃるのね。お優しい方だわ)


 遠慮することもできただろう。

 けれど、そうするのも不敬な気がした。


 顔を上げ、私は彼へ笑いかける。


「ありがとうございます、公爵さま」


 私は手元の扇を給仕に預け、差し出された彼の手を取った。

 彼が私の指先を包み込む。


 私たちは音楽に合わせて広間の中央へ進み出た。

 私の足はステップを覚えている。


 クロードは私の腰に手を添え、ゆっくりと体を回した。

 彼の深い緑の礼装と、私の深い赤のドレスが重なり合う。


 彼が黒髪をかすかに揺らし、切れ長の目を細める。


「毎年、夜明け前に届く香辛料の入った温かい葡萄酒を、覚えていらっしゃいますか」


 踊りながら、クロードが不意に言った。


「ええ。王宮の気の利いたおもてなしだと思っておりました」


「あれは、私が給仕に届けさせていたものです」


「公爵さまが?」


 彼が小さく顎を引いた。


「ええ。名乗れなかった非礼を、お許しいただきたい」


「どなたからとも知らず、毎年ありがたく頂戴しておりました。お礼を申し上げます」


 私は彼に包まれた指先に少し力を込めた。


「どうして、お名前を伏せておいでだったのですか」


「婚約者のいる方に、私が品を届けさせたと周囲に知られるわけにはいかなかったのです」


 彼が軽く息を吸い込んだ。


「国王陛下に杯をお渡しする役目は家の者に任せ、早くに帰ることもできたのです。それでも毎年、自分で夜明けまで残りました。一人で夜明けを待つあなたを、放っておけなかったからです」


「わたくしのために、毎年残ってくださっていたのですか」


「ええ、そうです」


 どきりとする。


(足の運びを間違えてしまいそうだわ)


 彼が声を落とした。


「去年の夜明け前、あなたは広間の隅で震えていた見習いの給仕に、ご自分の温かい葡萄酒を譲っておいででした。ご自身もひどく冷えていらしたのに」


 彼の言葉に、私は顔を上げた。

 私の足が一歩遅れ、音楽に合わせたステップが小さく乱れる。


 クロードは私の腰を支え、すぐに体勢を直した。


(柱の陰でお渡ししたのに、ご存じだったのね)


 彼は私の顔を間近で覗き込んだ。

 私を見つめる彼が、柔らかく口元をほころばせた。


「来年の冬至祭も、その先の冬至祭も、最初の一曲を私にいただけませんか」


 私は言葉に詰まり、視線をとっさに床へ落とした。


(どういう意味なのかしら。まさか公爵さまは、私を――)


 混乱して、どう答えてよいかわからなくなる。

 クロードがかすかに苦笑した。


「申し訳ありません。私が急ぎすぎましたね」


 気遣う声色に、私の胸の奥が小さく揺れた。


(誠実な方だわ)


 そう感じると同時に、私は掠れた声で告げていた。


「もしよろしければ……来年の今日も、わたくしをお誘いくださいますか?」


 クロードは目を見張る。

 やがて、目尻を下げて微笑んだ。


「ええ。必ず」


 彼が私をまっすぐに見つめ返す。


「来年の夜明け前は、温かい葡萄酒を私が直接あなたの元へお持ちしましょう」


 広間を囲む高い窓の外が、雪を映して白んでいく。

 高鳴る気持ちに、私は翻弄されてしまう。


 広間の客たちの視線を集めながら、私たちはステップを踏み続けた。


「足運びが軽やかですね」


 彼が私を軽々と旋回させた。


 私は彼に導かれるまま、深い赤のドレスの裾をふわりと翻した。


「領地の屋敷で長く練習をしておりましたの。少しでも動きを間違えるたびに、教師から手厳しく指導されましたわ」


 私は顔に熱が集まり、彼から少し視線を逸らした。


 最後の和音が広間に響き渡る。

 壁際の楽団が、楽器を一斉に下ろした。


 クロードがゆっくりと手を離す。

 私は一歩下がり、ドレスの裾をつまんで丁寧にお辞儀をした。


 彼も背筋を伸ばし、深く礼を返す。

 広間の奥にある重厚な扉が開かれた。


 給仕たちが銀の盆に杯を載せて歩き出す。

 陛下がお出ましになる時刻が近づいていた。


 上座へ向かう前の彼が、私の前で口を開いた。


「乾杯ののち、陛下をお見送りしてから車寄せへ参ります。馬車までお送りしますので、そこでお待ちいただけませんか」


「恐れ入ります」


(帰りの馬車まで、連れて行ってくださるのね)


 彼が私へ短く会釈をした。

 踵を返し、客たちの作った道を上座へと進んでいく。


 夜明けの乾杯が済み、王宮の車寄せには冷たい風が吹き込んでいた。

 高い天井の下には、各家の馬車が列をなしている。


 空はすっかり明るくなっていた。

 一晩中降り続いていた雪は、すでにやみかけていた。


 彼を待つあいだ、夜会の薄着では寒く、私は肩をすくめて風を避けた。


 背後から足音が近づいてくる。

 私の肩に、厚手の外套がかけられた。


 息をのみ、振り返る。


 クロードが私の背後に立っていた。

 深い緑の礼装の上に、なにも羽織っていない。


 彼が、黒髪に白い雪をいくつも光らせている。


(ご自身の外套を私にかけてくださるなんて。お風邪を召してしまわないかしら)


「馬車の中は冷えますから」


「公爵さまのお召し物をいただくわけにはまいりませんわ」


 私がその厚手の布地に手をかける。

 彼が私の両手を包み込んだ。


「手袋越しにも、冷たい手をしておいでですね」


「外の風に当たりましたので」


「そのままお帰りになってください」


 彼に手を引かれて御者の待つ馬車へと歩き出し、踏み台へ足を乗せる。

 座席へ座ると、彼が窓辺に立った。


「雪が解けたら、お屋敷へ伺います」


 彼が目を細めた。

 私は深く頷いた。


「ええ、お待ちしておりますわ」


 車輪が石畳を鳴らし、ゆっくりと動き出す。


 肩にかけられた厚手の布地から、彼のぬくもりが背中へと広がっていく。


 冷えていた指先が、少しずつ温まってきた。

 同時に頬が熱くなり、鼓動が早まっていく。


(こんなに重い布を羽織ったままでは、ちっとも気が休まらないわ)


◇


 一年後の冬至祭の夜会。

 王宮の大広間は、暖炉の赤々とした火と、壁を飾る常緑の枝に赤い実の飾りで彩られている。


 雪が解けてから、ヴァレンヌ公爵家からの使いが領地の屋敷へやってきた。

 正式な申し込みの書面を受け取り、両親は王都の屋敷へ出てきた。


 由緒正しき公爵家へ娘が嫁ぐなど、我が家ではあり得ないと言って、父は何度も封蝋を確かめていた。


 春の午後、クロードが王都の屋敷を訪ねてきた。


 応接間に通されたクロードに上座を勧め、父はひどく固くなっていた。

 同席する私も、膝の上で両手を握りしめる。


「本日は我が家へお越しいただき、誠に光栄に存じます」


 父が切り出した。

 クロードが居住まいを正した。


「書面でお伝えした通りですが、クラリス嬢を私の妻に迎えたく、改めてお願いに参りました」


 彼の低い声で名前を呼ばれ、頬が熱くなった。

 目の前の彼を直視できず、私はうつむく。


 耳の奥で、自分の鼓動がうるさいほどに鳴り続けていた。


 父がわずかに声を上ずらせる。


「は、はい。娘を妻にお望みいただき、当家としてもこの上ない誉れに存じます」


 クロードが父の言葉に肩の力を抜いた。


「ありがたく存じます」


 クロードが私へ目を向けて、ふっと微笑んだ。

 見つめ返した私の頬が、ふたたび赤く染まる。


 やがて日が傾き、彼が帰りの馬車へ向かう。

 私は彼を見送るため、後ろに続いて玄関へ出た。


 重い扉が開かれ、柔らかな春の風が吹き込む。

 彼が振り返って一歩戻り、すぐそばで歩みを止めた。


 黒い手袋を外した指先で、私の頬に触れた。


「これからは、夜会を待たずにお会いしましょう」


(このように近くでお目にかかることには、まだ慣れないわ)


 今年の冬至祭の夜会で、私は深い緑の礼装を着たクロードの隣に立ち、次々と訪れる客の挨拶に応じている。


 集まった者の一人が彼と目が合い、慌てて視線を逸らして隣の者へひそひそと話しかけた。


「氷の公爵さまが、あんなにも目元を和らげたお顔をなさるなんて」


 通りがかった夫人が、扇で口元を隠して言葉を継ぐ。


「ユリウスさまとミレイユさまは、伯爵家の屋敷の離れで暮らしておいでです。あの方は相変わらず体が弱いと言って家の仕事をなさらず、お二人はいつももめているそうですわよ」


 一緒にいた別の客がそれに続く。


「病を偽ったことが知れ渡って、ミレイユさまにはほかに縁談がなかったそうですからね」


 私は聞こえないふりをして、顔の向きをわずかに変えた。


 広間に集まる客たちの輪から、上質な青い上着を着た若い貴族の令息が進み出てきた。

 少し緊張した面持ちで私の前まで歩み寄り、丁寧に頭を下げる。


「モンテール嬢。冬至祭の夜会でお会いできて光栄です」


 私が会釈を返すと、令息は顔を上げて言葉を続けた。

 周囲の客たちの視線を気にするように、少し声を落とす。


「よろしければ、このあとの二曲目の約束を、私にいただけないでしょうか」


 私が答えるより先に、隣のクロードが私の背に手を添えた。

 令息を冷たく見据えて、彼が口を開く。


「彼女の曲は、二曲目もその先も、私が約束をいただいています」


 告げた彼が私へ顔を向け、口元を緩めた。

 見つめられた私は、思わずうつむく。


 頬が赤く染まり、胸がせわしなく跳ねた。


 令息は顔をこわばらせ、慌てて姿勢を正した。


「出過ぎた真似をいたしまして、大変失礼いたしました」


 深く礼をしてから、早足で人々の輪の中へ下がっていく。


 壁際の楽団が、冬至祭の最初の曲を奏で始めた。

 私は、クロードの大きな手を取って広間の中央へ進み出る。彼が私を見下ろして、片方の口の端を上げた。


「今年も、夜明けの乾杯まで踊っていただきますよ」


 間近で見つめてくる彼の顔に、私は言葉に詰まる。

 小さく息を吸い込み、かすれた声で言葉を返す。


「ええ、いつまでも」


お読みいただきありがとうございました。

翌年の冬至祭から、夜明け前の温かい葡萄酒は、毎年ヴァレンヌ公爵ご自身が運んできたそうです。

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