婚約披露の夜会で「全部持って帰れ」と言われたので、夜会ごと持って帰りました
「リゼット・グランヴィル。今夜をもって、君との婚約を破棄する」
王宮の大広間に、よく通る声が響いた。
婚約披露の夜会の真ん中だ。殿下が右手をあげる。
ワルツを奏でていた楽団の演奏が、中途半端なところでやんだ。
楽団長が、手にした弓を下ろしながら私をちらりと見る。
(どうしたのかしら)
私はまばたきをした。
殿下の隣には、コレットさまが寄り添っている。桃色のドレスを着た細い腕が、殿下の腕に絡められていた。
「驚きで声も出ないか。無理もないだろう」
殿下があごを上げた。
「だが、僕の決意は変わらない」
周囲の客たちが、ひそひそとささやきを交わしはじめた。
私は手袋をはめた両手を、腹の前で重ねた。
「君のような辺境の娘は、次期王妃にふさわしくない」
「はい」
「そうだ。華やかさの欠片もない。だいたい、父上が勝手に決めた婚約だ」
「陛下は、このことをご存じなのですか」
殿下の顔から余裕が消えた。
「父上がお見えになる前に、僕が決める」
「左様でございますか」
「その野暮ったい深緑のドレスも、目障りだ」
「領地の染めでございます」
私は答えた。殿下が鼻で笑う。
「つまり、田舎くさいということだ。コレットを見てみろ。彼女こそ、僕の隣に立つべきだ」
「殿下のおっしゃるとおりですわ。そのドレス、とても重くて硬そうに見えますもの」
コレットさまが、殿下の腕にしなだれかかった。
(蝋燭の減りが早い。本数が多すぎたかもしれない)
天井の燭台を見上げ、私は視線を戻した。
「聞いていないのか、リゼット。だいたい君は、僕が何を言っても可愛げがない。無表情で突っ立っているだけだ」
「申し訳ございません」
「そうやってすぐに謝る。まるで僕が、君をいじめているようじゃないか」
「そのようなつもりはございません」
殿下の声が大きくなった。周囲の客たちが、広間の中心を囲むように集まってくる。
「ああ、忌々しい。コレットのような明るさがない女など、王宮には不要だ」
「ええ」
「何度も言わせるな。僕の妃には、気品と美しさが必要なんだ。土の匂いのする辺境伯家など、ごめんだ」
「はい」
私はうなずいた。
(弦楽四重奏の二曲目が、まだ演奏されていなかったはず)
楽団のほうへ目を向ける。弓を下ろした楽団員たちが、こちらの様子をうかがっている。
「僕の話を聞け。君は少しも焦らないのだな。それが田舎者の証拠だ。羞恥心というものがない」
「恐れ入ります」
「婚約を破棄される意味がわかっているのか。次期王妃の座を失うのだぞ」
「わたくしとの婚約を、今夜限りで終わりにされるということですね」
私は重ねた手袋を握り直した。
「そうだ。ようやく理解したか」
私は静かにうなずいた。
「そのとおりだ。もう僕の顔を見なくて済む。せいぜい領地に帰って、羊の世話でもするんだな」
「お言葉、確かに伺いました」
私は、栗色の髪を耳の後ろできっちりとまとめている。
殿下に野暮ったいと言われたこの深緑のドレスの染めも、頬に残るうっすらとした日焼けの名残も、殿下にとっては辺境の田舎くささの象徴なのだろう。
(この国の婚約披露の夜会は、花嫁の家が支度を整えるというしきたりだ)
手袋の下の指先は、少し荒れている。今夜のために、私自身も領地で裏方に回って手を動かしたからだ。
私は、王宮の豪奢な広間の中をゆっくりと見渡した。
天井の燭台に立つ何百本もの蜜蝋の蝋燭。壁際にずらりと並べられた新酒の樽。
奥に控える楽団の楽器。卓を色鮮やかに飾る、領地から運んだ温室の花。
飲み物を運んで回る給仕たち。そして、広間の入り口や扉の脇に立つ騎士たち。
彼らが身にまとっているのは鎧ではなく、夜会にふさわしい礼装の紺の騎士服で、腰には細身の剣を帯びている。このところ国境が物騒なため、お父さまが護衛の騎士を多く連れてきていたのだ。
今夜の夜会に出ているものは、王宮の広間という場所を除いて、我がグランヴィル家のものだ。
この支度のことについて、殿下に尋ねられたことは今まで一度もない。
重厚な扉の脇には、大きくて分厚い体をしたお父さまが立っている。
その少し手前には、扉の脇の騎士たちより頭ひとつ高いラウルが控えていた。短く刈った銀色の髪と見慣れた紺の騎士服の姿に、私は張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
二人とも、動かずにこちらを見ている。
「わたくしは、もう不要なのですね」
「ああ、不要だ。顔を見るのも不愉快だ。田舎者は領地の山にでもこもっていればいい」
殿下が手を振った。
「君の家のものなど、何ひとついらない。全部持って帰れ」
私がおとなしく引き下がるのが気に食わないのか、殿下がとどめを刺すように声を張り上げた。広間の端にまで届くような、よく通る声だ。
「全部、でよろしいのですね」
私は念を押して確かめた。
「全部だ」
殿下は、集まった客たちの前で胸を張って言い切った。広間から、ひそひそという話し声が消える。
「あの、でも今夜の支度はグランヴィル家の……」
客のひとりが、戸惑ったように小さく声をこぼす。隣の客が、慌ててその袖を引いた。
殿下は得意げに顔を上げ、そのささやきを自分への同意だと思い込んでいるように深くうなずいた。コレットさまも、殿下に身を寄せたまま嬉しそうに笑っている。
「承知いたしました」
私は深く頭を下げた。深緑のドレスの裾がふわりと揺れる。
そしてゆっくりと顔を上げ、広間の扉の脇に立つお父さまを見た。お父さまは、大きな腕を組んでこちらを見据えている。
(では、手早く荷造りをしなくては)
私は手袋の指先をもう一度重ねた。馬車はまだ、王宮の石畳の庭に待機しているはずだ。
「聞いたな。全部だ」
お父さまが一言だけ言った。
声を張ったわけでもないのに、お父さまの低く重い声は広間の端までしっかりと届いた。
「はっ」
ラウルが短く応じる。
同時に、扉の脇に控えていた騎士たちと、広間の壁際に立っていた給仕たちが一斉に動き出した。
足並みを揃えて、それぞれの持ち場へと向かっていく。誰ひとりとして、無駄口を叩く者はいない。
「おい、何をしている。夜会はまだ終わっていないぞ」
殿下が眉をひそめた。給仕たちが自分のそばを通り過ぎていくのを見て、不審そうな顔をしている。
まだ状況がわかっていないようだ。
「王宮の広間をうろつくなど、無作法だぞ」
(荷車は中庭に出したままだったかしら)
私は、運び出しの手順を頭の中で組み立てた。木箱もいくつか用意してあるはずだ。
楽団長がこちらへ歩み寄り、私に向かって深く一礼した。
奥に控えていた楽団員たちが、手にした楽器をケースにしまいはじめる。譜面台が次々と畳まれて、広間に響いた。
大きな楽器の木の箱がバタンと閉じていく。
(三曲目のワルツを聴けなかったのは、少し心残りね)
あれは、領地の楽団がひと月かけて練習してきた曲だった。夜会の後半で披露するはずだったのだ。
「待て、楽団。どこへ行く。演奏を続けろ」
殿下が、帰り支度をして出口へ向かう楽団員たちを呼び止めようとする。
客たちが、戸惑ったように顔を見合わせた。
「おい、僕の命令が聞こえないのか」
「殿下、彼らはグランヴィル家の……」
「君たちは黙っていろ。僕は楽団に命じているんだ。王宮の夜会で演奏をやめるなど許さんぞ」
楽団長は殿下の言葉には答えず、ただ扉の脇に立つお父さまのほうを見た。
お父さまが、ゆっくりとあごを引く。楽団員たちは一列になり、重い楽器の箱を抱えて広間の外へと出ていった。
今度は、揃いの服を着た給仕たちが動き出した。
壁際に並べられていた新酒の樽に車輪をつけ、転がして運び出していく。
卓の上に並べられた料理の皿や、銀の器も、次々と素早く下げられていった。
ただし、客の手にある杯や取り皿までは取らない。手持ち無沙汰になった客が、慌てて杯の中身を飲み干す喉が鳴った。
「あっ、ちょっと。それ、わたくしが食べようと思っていたのに」
コレットさまが、焼き菓子に手を伸ばしたところで皿が持ち上げられる。
「申し訳ございません。お下げいたします」
「待ってちょうだい、まだ一口も食べていないのよ。甘いものがなくなってしまうじゃない」
「グランヴィル家のものですので、持ち帰るようにと仰せつかっております」
給仕は頭を下げて、皿を持ったまま下がっていった。
卓を飾っていた温室の花も、大きな花瓶ごと運び出されていく。広間に満ちていた華やかな香りが、すっと薄れていくのがわかった。
(今年の新酒はよくできていたから、樽ごと持ち帰れてよかったかもしれない)
私は、ごろんごろんと転がっていく樽を見送った。あれは領地の職人が手間をかけたものだ。
広間から次々と物が消えていくのを見て、殿下の顔色がはっきりと変わりはじめた。
ラウルが手を挙げた。
それを合図に、広間の奥に散っていた騎士たちが、一斉に動き出した。
天井から吊るされた大きな燭台に差された蜜蝋の蝋燭を、一本ずつ丁寧に消していく。
長い火消し棒が伸びるたびに、オレンジ色の炎がふっと消えた。
遠くの燭台から、順番に灯りが減っていく。満月の夜のように明るかった広間が、少しずつ暗闇に沈みはじめる。
きらびやかな衣装を着た客たちの顔が、濃い影に覆われていった。
「おい、何を消している。やめろ」
「足元が見えなくなりますわ、殿下。怖いですわ」
騎士たちは殿下の声に耳を貸さず、蝋燭を消し続ける。
最後には広間の中の炎が一つ残らず消え、扉の外の廊下にある王宮の灯りだけが、床に細く差し込むようになった。
消えた蝋燭の芯から、特有の甘い煙の匂いが漂ってくる。領地の蜂からとった上質な蜜蝋の匂いだ。
それが、夜会の華やかな香水の香りを上書きして広間を満たしていく。
暗がりの中で、ラウルが扉の脇に立っているのが見えた。彼の銀色の髪が、廊下からの光を反射して白く浮かび上がっている。
(五百本も持ってきたから、消して回るのも一苦労だわ)
私は、暗闇の中で小さく息を吐いた。騎士たちの手際が良くて助かった。
「そこまでしろとは言っていない」
暗闇の中から、殿下の苛立った声が飛んできた。
「全部、と仰いましたので」
私は答えた。それ以上の言葉は付け足さない。
「非常識にもほどがある。ここは王宮の広間だぞ。蝋燭くらい置いていけ」
「燭台は王宮のものですので、置いていきます。蝋燭はグランヴィル家のものですので、持って帰ります」
「屁理屈を言うな。真っ暗じゃないか。客の足元が見えないだろう」
「お持ち帰りするようにと、殿下が仰いました」
私は淡々と答えた。
「だからと言って、いくらなんでも全部消していく奴があるか。嫌がらせのつもりか」
殿下が苛立たしげに足を踏み鳴らした。
「嫌がらせなどではございません。殿下のお言葉に従ったまででございます」
「ああもう、話にならない。田舎者は融通が利かないな。おい、そこの王宮の給仕。灯りを持ってこい。すぐにだ」
「殿下、誠に申し訳ございません」
残っていた年配の給仕が、暗がりの中で深く頭を下げた。
「なんだ、早くしろ。新しい蝋燭を燭台に立てろ」
「今夜の夜会の支度は、グランヴィル家から届いたものでまかなっております。王宮では、今夜の分の灯りを用意しておりません」
「なら、倉庫から出してくればいいだろう。王宮にはいくらでも蝋燭があるはずだ」
「数が多すぎます。広間を照らすだけの蝋燭を、すぐには揃えられません」
年配の給仕が、困り果てたように首を振る。
殿下が息を呑んだ。
「なんだと。それでは客に帰れと言うのか」
「殿下、暗くて足を踏まれそうですわ。それに甘いものもなくなってしまって、お腹が空きました」
コレットさまが、殿下の腕を引いて文句を言う。
「コレット、少し待っていてくれ。すぐに明るくさせるから」
「わたくしのこの新しい桃色のドレスも、真っ暗で見えなくなってしまいました。せっかく殿下に褒めていただこうと思ったのに」
「大丈夫だ。僕がなんとかする。泣かないでくれ」
「早く明るくしてくださいませ。それに、音楽も鳴っていませんわ」
殿下がコレットさまをなだめようとする。しかし、殿下はふと口を閉ざした。
廊下からのわずかな光に照らされた殿下の顔が、さっと青ざめている。自分の手元には、もう客に提供できるものが何一つ残っていないことに気がついた顔だ。
(廊下の灯りだけだと、驚くほど薄暗い)
私は、広間の床に細長く伸びた自分の影を見た。
「殿下は、ご存じなかったのか」
「今夜はグランヴィル家の婚約披露なのに。あれが辺境伯家の用意したものだと」
客たちが、扇で口元を隠しながらささやき合う。暗闇の中で、その声だけが広がる。
(花がなくなると、この広間も少し殺風景に見えるわね)
私は、もぬけの殻になった花瓶の丸い台座を横目で見た。領地の花を、もう少し置いていきたかった。
廊下から、複数の足音が近づいてきた。
王宮の者が掲げる手燭の灯りが一つ、暗い広間の入り口に現れる。
その揺れる光に照らされて、陛下が広間の入り口に立った。国境の報告を受けていて遅れると聞いていたが、ようやくお着きになったのだ。
「何事だ」
低く、威厳のある声だった。
広間にいた客たちが、一斉に頭を下げる。衣擦れが、波のように暗がりを走った。
私もドレスの裾をつまんで、深く礼をとる。
「父上、これはですね」
殿下が慌てたように声を上げた。
それを遮るように、扉の脇に立っていたお父さまが一歩前に出る。大きな体が、手燭の光に浮かび上がった。
「陛下」
「グランヴィルか。この暗闇はどうしたのだ。新酒の香りも、楽団の音楽もないではないか」
「殿下が、リゼットとの婚約を破棄なさいました。そして、君の家のものなど何ひとついらない、全部持って帰れと仰いました」
お父さまは、殿下の言葉をそのまま引いて報告した。その声に、怒りの色は混じっていない。
「それで、仰せのままに、グランヴィル家のものを運び出しているところでございます」
「……何?」
陛下が、信じられないというように眉をひそめた。そして、暗闇の中に立つ殿下を見た。
「アルフォンス、お前は本当に『全部持って帰れ』と言ったのか」
「父上、それは……言葉のあやです。まさかそこまでするとは思わなかったのです。彼らが勝手に、広間の蝋燭まで消しはじめたのです」
「言い訳はよい。余は、皆の前でそう言ったのかと聞いているのだ」
「……はい」
殿下が、消え入りそうな声で答えた。
「皆の前で二度言ったのか」
「確かに二度、全部とおっしゃいました」
客のひとりが、暗がりの中からはっきりと答えた。それに同意するように、周囲から小さなうなずきと衣擦れが重なる。
「そうか。アルフォンス、お前は、自分が何をしたのかわかっているのか」
「父上、聞いてください。リゼットのような田舎の娘は、王妃にはふさわしくありません」
「ふさわしくないだと」
「ええ。野暮ったくて、気品もありません。僕の隣に立つべきではありません。ですから僕が、王宮の威信を守るために」
殿下が必死に言葉を重ねた。
「この婚約は、余がグランヴィル辺境伯と交わした大切な約束だ。お前の一存で覆せるものではない」
「ですが、あのような」
「黙れ。国を豊かにし、国境を守る家を、客の集まる皆の前で辱めるとは。お前の浅はかさにはあきれ果てた」
陛下の低く重い声が、広間に響き渡る。殿下がびくっと肩を揺らした。
「申し訳ございません」
「お前はしばらく自室で謹慎しろ。王太子としての公務も当面は外す。跡継ぎのことは、これより考え直す」
「そんな。父上、お待ちください。謹慎など」
殿下の隣で、コレットさまがさっと殿下の腕を離した。一歩後ずさりして、これ以上関わりを持たないように身をすくめる。
殿下がすがるように横を向いたが、コレットさまは目を合わせなかった。
「グランヴィル、そしてリゼット。余の不徳だ。すまなかった」
陛下が、お父さまと私に向かって深く頭を下げた。周囲の客たちが、信じられないというように息を呑む。
「お顔をお上げくださいませ、陛下」
私は一言だけ答えた。
「リゼット、辛い思いをさせたな。許してくれ」
「いいえ。わたくしは、つつがなく荷造りを終えたところでございます」
「まことに、それだけでよいのか」
「はい。わたくしから申し上げることはございません」
私はまっすぐに陛下を見た。
「そうか。お前の心遣いを、無駄にしてしまったな」
陛下が重く息を吐いた。
(殿下は、ずっと自分の足元を見つめている)
私は、うつむいた殿下の頭を見た。先ほどまでの勢いはなく、何も言えずに立ち尽くしている。
「グランヴィル。夜会が真っ暗なのは、さすがに不便だ。それに、客の足元も危ない。せめて、灯りだけでも置いていってはもらえないだろうか。蝋燭の分は王宮から払う」
「全部と言われましたので」
お父さまは、首を横に振った。
「……そうだな」
陛下はそれ以上言えずに、一度だけ苦く笑った。私は黙って頭を下げた。
広間の外の石段に出ると、秋の夜の冷たい空気が頬を撫でた。
王宮の石畳の庭に停められた辺境伯家のいくつもの大きな馬車に、新酒の樽や、楽器の箱や、温室の花が次々と積まれていく。
騎士たちと給仕たちが、声を掛け合いながら手際よく荷造りを進めていた。
先頭の馬車の脇で、ラウルが手提げの灯りを持って待っていた。
揺れる小さな灯りに照らされて、石段を降りる私を見たラウルがこちらを向く。灰色がかった青い目と、辺境で負った眉尻の小さな古傷がふいに間近に見えて、私は小さく息を呑んだ。
紺の騎士服が、夜の闇に溶け込んでいた。
「お疲れさまでございました、お嬢さま。お怪我はございませんか」
「ええ、ありがとう」
私はうなずいた。
「荷物はこれで全部?」
「はい。広間にあったグランヴィル家のものは、一つ残らず回収いたしました。積み込みも間もなく終わります」
「そう。みんな手際が良くて助かったわ。ラウルも、扉の脇から手の合図ひとつで騎士たちを動かしていて、見ていて感心するほどお見事だったわ」
「いいえ。お父上のご指示どおりに動いたまでです」
ラウルが、灯りを持った手を少しだけ前に出した。手袋に包まれたその大きな手で、灯りの柄をしっかりと握っている。
「殿下に『全部持って帰れ』って言われてしまったもの。グランヴィル家のあなたも、わたくしが忘れずに持って帰ってあげなくちゃね」
ラウルは真顔のまま、短く答えた。
「はい。どこへでも」
からかったつもりが真っ直ぐに返されて言葉に詰まり、私は思わず彼から視線を逸らした。
(そんなに真面目な顔で答えなくてもいいのに)
ラウルは黙ったまま、手にした灯りを少しだけ高く持ち上げた。
「お嬢さま、出発します」
馬車の外から御者の声がして、いくつもの大きな車輪がゆっくりと動き出した。
窓枠に手をついて、王宮の建物を振り返る。
豪奢な石造りの建物の中で、二階にある大広間の窓だけが真っ暗なまま遠ざかっていくのが見えた。
あの中にはまだ、謹慎を言い渡された殿下と、灯りのない広間に取り残された大勢の客たちがいるはずだ。
馬に乗ったラウルが持つ手提げの灯りが、馬車のすぐ横についてくる。その小さなオレンジ色の光が、私たちの帰る長い夜道を確かに照らしていた。
後ろに続く荷車に積まれた新酒の香りが、冷たい秋の風に乗ってふわりと運ばれてくる。
(領地に着いたら、まず料理長にあの焼き菓子を焼いてもらおう)
お読みいただきありがとうございました。
蝋燭五百本を積んで帰ったグランヴィル家の馬車は、翌朝、領地で新酒の樽を開けたそうです。
少しでも「すっきりした!」と思っていただけたら、【ブックマーク】やページ下の【★★★★★】で応援していただけると励みになります。




