婚約者に「君の声など聞きたくない」と言われたので、ただ一人の通訳は一言もしゃべりません
「イリス・ラヴェル。今夜をもって、君との婚約を破棄する」
楽団の優雅な旋律が、不自然なところで途切れた。
殿下が片手を上げて、演奏を止めたのだ。
王宮の大広間から、人々の話し声が消える。
上座に設けられた長机には、隣国エルストからの使節団が座っている。
主賓であるグスタフ伯の白い顎ひげが、ふいに揺れた。
エルスト国の客人たちは言葉が分からないまま、不思議そうに殿下を見つめている。
私の亡き母は、エルスト国の生まれだった。
私は広間の中央に立ち、殿下を見上げた。
殿下の腕には、淡い桃色のドレスを着た令嬢がしがみついている。
父の後妻の連れ子で、私とは血のつながらない義妹のミラだ。
父と後妻は領地にいて、今夜の宴には来ていない。
(婚約破棄、ですか)
不思議と驚きは湧かなかった。
殿下はミラの肩を抱き寄せ、広間に響き渡る声で告げた。
「僕は、ここにいるミラと新たに婚約を結ぶ。ラヴェル家との縁は変わらない。気にするな」
広間の招待客たちが、ひそひそとささやきを交わす。
扇で口元を隠し、私とミラを代わる代わる見比べていた。
殿下が私に向かって言い放つ。
「半分よそ者の血が入った娘など、次期王妃にはふさわしくない」
殿下は私の顔を指差した。
「だいたい、君のそのドレスは何だ。首元の刺繍も、よその国の服だろう」
「母の国の刺繍ですわ。今夜の宴のために選びましたの」
私はドレスの裾をつまんで答えた。
「父上は事あるごとに君を褒めそやす。父上が勝手に決めた婚約だ。僕はずっと不愉快だった」
殿下は鼻を鳴らす。
「二十年も行き来のない国の言葉など、我が国には要らない」
(母の国の言葉を話した十二歳の私を、陛下は褒めてくださったのに)
あの婚約の席で、陛下は私を見習うようにと殿下に告げた。
殿下が私を疎むようになったのは、あの日からだ。
「お義姉さま、ごめんなさい」
ミラが殿下の腕にすり寄った。
「わたし、前からお義姉さまの婚約者さまが素敵だなって思っていたの」
「ミラ。君は悪くない」
殿下がミラの金の巻き毛を撫でる。
「この決定は、陛下はご存じなのですか」
「父上は熱を出して寝ておられる。明日、僕から伝えるつもりだ」
侍医が誰も陛下の寝所へ通さないと聞いている。
「ならば、今夜の宴の差配も殿下が」
「当然だ。僕が父上の名代として、この場を仕切っている」
上座の脇で、宰相が眉をひそめたまま黙っている。
「……承知いたしましたわ」
「わかればいい。君のような女は、王宮にはふさわしくないのだ」
殿下は言い捨てる。
「わたし、殿下と婚約できてうれしいわ」
「僕もだよ、ミラ。君のような純真な娘こそ、僕の隣に立つべきだ」
「殿下、ありがとうございます」
殿下がミラから私へ向き直る。
「君はもう下がっていい。これ以上、僕の視界をうろつくな」
殿下が私に向かって手を払う。
「ですが殿下。わたくしは今夜、お役目があってここに立っておりますの」
「役目だと?」
「はい。使節団の通訳は山道で馬車が壊れて足止めされましたの。到着は明日になりますわ。今夜は陛下の命で、名代の殿下のもとでわたくしが通訳を務めますの」
「通訳など知ったことか」
殿下は不機嫌そうに顔をしかめた。
「この秋の不作で、冬を越す麦が足りませんの。エルスト国から小麦を買い入れるお約束が、今夜かかっておりますわ」
「僕に意見する気か」
「意見ではございませんわ。今夜の宴の目的を申し上げておりますの」
「小麦の話は明日、父上が使節団となさることだ。今夜の宴にそのような目的はない」
殿下が私を見下ろした。
「可愛げのない女だ」
私は口元を引き結んだ。
「昔からずっと、君には愛嬌というものが欠けている」
「申し訳ございません」
「謝罪の態度すら腹立たしい。ミラを見習え」
ミラが殿下の腕に手を添えた。
「お義姉さまは、いつも本ばかり読んでいらっしゃるものね」
「だから頭でっかちになるのだ。女は愛らしく微笑んでいればいい」
(私が六年読んできたのは、陛下から仰せつかった外交の書物なのよ)
ミラがうなずいて相づちを打つ。
「殿下の仰せの通りですわね」
「そうだ、イリス。だから君はもう用済みだと言っている」
私は母の国の刺繍が入った襟元を整え、背筋を伸ばした。
広間の招待客たちの視線を正面から受け止める。
大勢の貴族たちが私を値踏みするように見つめていた。
歓迎の挨拶の前に婚約破棄が始まった。
二十年ぶりの使節団を前に、私はまだ一言も訳していない。
宮廷でエルスト語を話せるのは私しかいない。
騒ぎをとりなすため、私は上座へ向き直ってエルスト語を口にしかけた。
「宴など、美味しい酒と音楽さえあれば済む。客人を楽しませるのに、通訳など要らない」
殿下が私の前に立ち塞がり、声を張り上げた。
「君の声など聞きたくない。今夜はもう一言もしゃべるな」
私は言葉を飲み込む。
「一言も、でございますね」
私は確かめた。
「一言もだ」
殿下が言い切った。
上座の脇で宰相が一歩踏み出しかけたが、殿下が片手で制した。
広間に集まった貴族たちが、扇の陰から一斉に私へ目を向けた。
(六年もかけた出番が、殿下の一声でなくなってしまうなんて)
ミラが殿下の腕にぎゅっとつかまって、うれしそうに微笑んだ。
「さあ、席に戻るぞミラ。僕たちの新しい門出を祝う夜だ」
「はい、殿下。すばらしい夜になりそうですわ」
私は声を出さずに、深く礼をする。
そして口を閉じた。
(名代の言葉は、今夜は陛下の言葉と同じなのよ。ここで逆らえば私は衛兵に連れ出されて、使節団の前から通訳がいなくなるわ。取り消しのお言葉が出たとき、すぐに訳せるのは私しかいないもの)
私は広間の隅に下がり、壁際に立つ。
招待客たちはせわしなく扇を動かし、無言で顔を見合わせている。
上座の使節団は、目の前で起きた騒ぎの理由がわからず、戸惑いの表情を浮かべていた。
殿下が上座から合図を送ると、楽団がまた鳴り始めた。
優雅な音楽が広間に戻り、貴族たちは再びグラスを傾け合う。
グスタフ伯が杯を持って立ち上がり、壁際にいる私に歩み寄ってきた。
伯には宴の前に、陛下の命でラヴェル家の娘イリスが通訳を務めると書き付けを届けてあった。
「王太子殿下は、先ほど何とおっしゃったのか。何か問題でも起きたのだろうか」
エルスト語で話しかけられる。
私は声を出さない。
私は指先で自分の唇に触れ、上座の殿下のほうへ目をやった。
それを見とがめた殿下が、この国の言葉で大きな声を上げる。
「余計な真似をするな、身振りもだ」
この国の言葉を知らない伯には、意味が通じない。
私は手を下ろし、頭を下げるしかない。
グスタフ伯の眉が寄る。
「私の言葉が聞こえないのか。そなたは通訳の役目を負っているのだろう。事情を説明してくれないか」
もう一度、先ほどよりも少し硬い声で話しかけられる。
(『申し訳ございません。私は今夜、一言もしゃべるなと命じられております』)
私は口を閉じたまま、もう一度深く腰を折った。
伯は不可解そうに私を見つめ、やがて顔をしかめて背を向ける。
立ち去ろうとする伯を見て、殿下が舌打ちをした。
古い書物を扱う学者なら少しは分かるだろうと、宮廷の学者のテオドールを呼んだ。
人垣を割って、ひょろりと背が高く、どこか猫背ぎみの青年が進み出る。
寝癖の残る栗色の髪に、度の強い丸い眼鏡。
学者の黒い上着を着ているが、長い腕には袖が少し短い。
宰相の次男であるテオドールは、私が宮廷でよく顔を合わせてきた人だった。
(テオドールさまがエルスト語の相手として呼ばれるなんて。あの方が言葉をご存じだとは思わなかったわ)
私は壁際からテオドールを見つめる。
テオドールはグスタフ伯の前に立つと、姿勢を正して口を開いた。
「星明かりの導きに感謝を。長き旅路の果て、我が庭園へ至りし客人よ」
エルスト語の古い書物の言い回しで挨拶をした。
グスタフ伯はぽかんとしてテオドールを見つめ、それから呆れたように苦笑する。
(二百年前の書物の挨拶だわ。今の宮廷じゃ通じない)
私は眉を寄せて、立ち尽くすテオドールへ目を向けた。
テオドールは自分の言葉が奇異に受け取られたことに気づき、耳まで赤くなる。
気まずそうに眼鏡のブリッジを押し上げると、殿下に向き直った。
「殿下。私の浅学では、使節団の方々とまともに意思の疎通を図ることは困難です。イリス嬢に、せめて紙に書いていただいてはいかがでしょうか」
「あの女の手は借りない。筆談など許さん」
殿下が不機嫌そうに退けた。
テオドールは口を引き結び、私のほうを見る。
私は身振りを禁じられている。
無言のまま、テオドールの目を見返した。
テオドールはそれ以上何も言えず、申し訳なさそうに一歩下がる。
ミラが殿下の腕から離れ、使節団の卓へ歩み寄った。
彼女は満面の笑顔を浮かべ、両手を大きく広げて身振り手振りを交える。
「ようこそ、いらっしゃいました! ここは、とっても、楽しいところですわ!」
ミラは自国語で大きな声を出した。
使節団の面々は顔を見合わせ、困ったように首を横に振る。
殿下も立ち上がり、大げさな手振りを交えて言う。
「我々は! あなた方を! 歓迎している!」
一つ一つの単語をゆっくりと発音してみせる。
グスタフ伯は困惑の表情を深める。
(エルスト語でなければ、いくら大きなお声でも伝わらないのに)
客の笑い声とささやきが途絶えた。
貴族たちはグラスを持った手を止め、上座の様子をうかがっている。
楽団の演奏は変わらず広間に鳴り続けていた。
グスタフ伯が、音を立てて杯を卓に置いた。
硬い声で言い放つ。
「この国は我々を侮るのか。約束は取り交わさずに国へ帰る」
(侮られた、と。小麦の約束も白紙になさるおつもりだわ)
意味が分かるのは私だけだ。
殿下や他の客たちは、グスタフ伯がなぜ怒気をはらんだ声を出したのか分かっていない。
彼らはただ、老伯爵の険しい表情に圧倒されている。
「何か、不満があるのか?」
殿下が自国語で尋ねるが、グスタフ伯は首を横に振る。
使節団の椅子が一斉に引かれ、客人たちが立ち上がる。
私は壁際で両手を握り合わせる。
(殿下が命令を解いてくだされば、すぐにでもお伝えするのに)
殿下が私を鋭く睨みつけた。
「なぜ黙っている」
壁際に立ったまま、殿下の視線を受け止める。
「何とかしろ。このままでは使節団が帰ってしまうではないか」
殿下は焦ったように声を荒げる。
「お前はラヴェル家の娘だろう。この事態を収拾する義務があるはずだ」
私は口を開かない。
(あれは取り消しじゃないわ。勝手に破らせて、あとで責めるおつもりね)
私は殿下に向かって深く礼をした。
顔を上げ、殿下の口元を見つめる。
「おい、聞こえないのか。客人たちが怒っている理由を突き止めろ」
殿下がさらに言い募る。
「殿下は二度、一言もと仰いました。身振りも筆談もお許しになりませんでした。イリス嬢はそれを守っておいでです」
テオドールが一歩前に出て、正面から言った。
いつもは猫背ぎみの背筋が、伸びている。
「なんだと?」
「名代のお言葉を取り消せるのは、殿下おひとりです」
声を荒げずに返す。
「だからといって、この状況で黙り込んでいる馬鹿がいるか」
「いまイリス嬢が口を開けば、名代のお言葉に背いた罪に問われます」
広間の客たちが、ざわめき始める。
「たしかに、二度おっしゃった」
「我々も聞きました。一言もしゃべるな、と」
客たちがテオドールに続く。
「お前たちまで、僕に反抗する気か」
テオドールが答える。
「事実を申し上げているのみです」
「宰相の息子が口を出すな。身の程をわきまえろ」
殿下の顔色が変わる。
「身の程はわきまえております」
一歩も引かない。
「理屈をこねるな。今すぐあの女に、使節団を引き止めさせろ」
「それには、殿下ご自身がお言葉を取り消されるほかございません」
「僕に非を認めろというのか。王太子である僕に」
テオドールが殿下の目を見た。
「王国の未来がかかっております」
「黙れ。学者風情が偉そうに」
テオドールが息を吸い込む。
「殿下」
「もういい。お前など下がっていろ」
殿下が苛立ちを隠さずに手を振る。
「お義姉さま。お願いだから、何とか言って」
ミラが殿下の袖を引いて、涙声で頼み込んだ。
「わたし、こんな怖い雰囲気の宴は嫌よ。もっと楽しい夜になるはずだったのに」
「ミラ、泣かないでくれ。君は何も心配しなくていい」
「でも、お義姉さまがずっと黙っているから……」
(テオドールさま。私のために、殿下に盾突いてくださったのね)
私は驚きとともに、テオドールの背中を見つめた。
「あの女が意地を張っているだけだ。僕の婚約破棄に対する当てつけだろう」
殿下が憎々しげに言う。
「殿下の御言葉こそが、この事態を招いたのです」
殿下の目の前まで詰め寄っている。
(あんなに近くで逆らったら、何をされるかわからないわ)
「僕のせいだと言うのか」
「はい。その通りです」
言い切った。
「許さんぞ。不敬罪で牢に放り込んでやる」
「牢に入る覚悟はできております」
(なんて無茶なことをおっしゃるの)
私は息を呑んだ。
私は両手でドレスの布地を握る。
言葉の代わりに、唇を噛んだ。
テオドールは眼鏡の奥の瞳で、まっすぐに殿下を見据えている。
グスタフ伯を先頭に、使節団が大広間の扉へ向かって歩き出す。
楽団の演奏が止まった。
足取りに迷いはない。
重厚な扉までは、あと十数歩の距離がある。
(冬を越す麦が、あの扉の向こうへ行ってしまうわ)
「待て。帰るな。話はまだ終わっていない」
殿下が慌てて呼び止めようとする。
「お願いです、お待ちになって! まだお料理もたくさんありますのよ」
ミラも声を上げるが、客人たちは振り返らない。
使節団の足は止まらなかった。
「誰か、あの者たちを止めろ。扉を開けさせるな」
殿下が叫ぶが、誰も客人たちを力ずくで引き止めようとはしない。
近衛兵たちも困惑し、顔を見合わせている。
さきほど殿下に制された宰相が、今度は足早に殿下のそばへ寄り、小声で言う。
「このまま使節団がお帰りになれば、国は干上がります」
「僕に、あの女に頭を下げろというのか」
「民を飢えさせるおつもりですか」
「くそっ……」
殿下は唇を噛み締め、私を険しい目で見た。
沈黙ののち、口を開く。
「……しゃべって、よい」
屈辱の中で絞り出された声は、ひどく小さかった。
客の一人が、扇の陰から小さく言った。
「殿下。聞こえませんでしたわ」
「しゃべってよいと言っているのだ!」
殿下がもう一度、少し大きな声で言い直す。
先頭のグスタフ伯が、扉に手をかけた。
(この言葉を誰かに向けるのは、母を見送ってから五年ぶりだわ)
私は一つ息を吸い込んだ。
私は、エルスト語を声に出す。
「お待ちくださいませ、グスタフ伯」
扉へ向かう使節団の背中に向けて、呼びかけた。
「なんだ。ようやく通訳をさせる気になったのか」
グスタフ伯が足を止め、振り返らずに言う。
(もう少し言葉を重ねないと、振り返ってくださらないわね)
「非礼をお許しください。わたくしは通訳の任を負いながら、己の立場ゆえに声を封じられておりました」
「王太子の命令だったというわけだな」
使節団の客人たちは、扉の前で足を止めている。
私は伯の背中を見つめた。
「はい。ですが今、その命は解かれました」
グスタフ伯が低い声を出した。
「ならば、我々に何を伝えようというのだ」
「まずは、もてなしの席での無礼を謝罪いたします。そして、王国の事情をお聞き届けいただきたいのです」
背中越しに声が返ってくる。
「事情を聞く価値があるかどうかは、そなたの言葉次第だ」
(厳しい方。でも、筋は通していらっしゃるわ)
私はもう一度、頭を下げた。
グスタフ伯がゆっくりと振り返る。
伯の目が、私の襟元の母の国の刺繍に留まった。
硬い顔が、ふいにゆるんだ。
厳格な使節の長の瞳に、どこか懐かしむような色が浮かぶ。
「そなたの母を、若いころに知っている」
エルスト語で、伯は語りかける。
低く、穏やかな声だった。
「そなたの母によく似た声だ。その声で我が国の言葉を聞けてよかった」
私の目から、涙が一粒こぼれた。
私はすぐに背筋を伸ばし、指先で涙を拭う。
通訳の役目を果たすため、グスタフ伯の目を見据えた。
「我が国からの返答を伝える。よく聞きなさい」
伯が再び、使節の長としての威厳ある態度に戻る。
「この娘の声を封じた者とは、約束を交わさない」
グスタフ伯が、上座の殿下へ目を向けた。
「小麦の約束は、明日、この娘を通して陛下と交わす。今夜のところは我々も席に戻ろう」
殿下が口を開く。
「おい、あの老人は何と言ったのだ。早く訳せ」
苛立ちと不安が入り混じった声だった。
「『この娘の声を封じた者とは、約束を交わさない。小麦の約束は、明日、この娘を通して陛下と交わす。今夜のところは我々も席に戻ろう』と仰いました」
一語も足さず、和らげもせず、正確に伝えた。
殿下が青ざめる。
ミラが殿下の腕から手を離し、後ずさりをする。
使節団が向きを変え、ゆっくりと長机の席へ戻っていく。
殿下は椅子に沈み込んだ。
私は使節団に向かって深く一礼した。
通訳として、使節団の卓のそばに控えた。
楽団の奏者たちは楽器を下ろし、顔を見合わせている。
◇
翌朝、陛下が熱を押して起き上がり、殿下を外交の場から外した。
その日のうちに、私の通訳で陛下とグスタフ伯が小麦の約束を交わした。
陛下は私と殿下の婚約を正式に解き、テオドールへの投獄の命も撤回した。
殿下は冬に入る前に王太子の座を弟君に譲り、離宮へ移る。
ミラは婚約をそのまま認められ、望み通り殿下と共に離宮へ向かう。
新しい冬のドレスを仕立てる者がいないと文句を言っている。
数日後、宰相が来て、陛下が私を王宮の通訳官に任じたと告げた。
(あの六年間は、無駄じゃなかったわ)
私は王宮の近くに住まいを与えられ、父の屋敷を出た。
それ以来、毎日王宮へ通っている。
ひと月後。
エルスト国の小麦を積んだ最初の荷馬車が王都に着いた日の夕方、私は宮廷の書庫にいた。
古い革の背表紙がずらりと並ぶ棚の間を、ランプの温かな灯りが照らしている。
テオドールが、エルスト語の古い書物を抱えて待っていた。
私の姿を認めると、彼は歩み寄ってくる。
「宴の夜は、力になれず申し訳ありませんでした。結局、事態を動かしたのはグスタフ伯の決断でしたから」
テオドールが真摯な目で詫びる。
「とんでもない。あのような場で、殿下に立ち向かい、わたくしをかばってくださったではありませんか。とても心強かったですわ」
私が返すと、彼は丸い眼鏡を外した。
まっすぐに見つめてくる彼に、私は息を呑んだ。
「あなたの母上の葬儀の日、私もあの場にいました」
テオドールが五年前のことを言う。
「わたくしの、母の葬儀にですか」
「はい。父に連れられて参列していました。あなたの祈る声は、涙で最後まで続かなかった。私はその祈りの続きがどうしても聞きたくて、エルスト語の書物を読み始めたのです」
(私の祈りのために?)
「独学ゆえに、私の言葉は二百年前の響きのままでしたけれど」
「ええ。宴の席では、少しばかりおかしな挨拶になっていましたわね」
私が指摘すると、テオドールは再び耳を赤くした。
「恥ずかしい限りです」
私は小さく首を横に振った。
「どうしても、あなたの声を取り戻したかった。だから殿下に申し上げたのです」
テオドールは一歩、私に近づく。
「祈りの続きを、あなたの声で聞かせてほしい。これから先もずっと」
私は返事の代わりに、五年前に最後まで声にできなかった母への祈りの続きを、エルスト語で口にした。
「愛する母の魂が、星明かりの導きと共にありますように」
「星明かりの導き……」
テオドールが小さく繰り返した。
彼は少年のように笑った。
抱えていた書物と外した眼鏡を、そばの棚に置く。
私へ向かって、右手を伸ばした。
差し出された手を、私はためらわずに取る。
ランプの灯りが、二人の影を本棚に映し出していた。
(これから、たくさん声を出せそうだわ)
お読みいただきありがとうございました。
書庫のランプは、その冬のあいだ、毎晩少し遅くまで灯っていたそうです。
少しでも「すっきりした!」と思っていただけたら、【ブックマーク】やページ下の【★★★★★】で応援していただけると励みになります。
同じシリーズの『婚約披露の夜会で「全部持って帰れ」と言われたので、夜会ごと持って帰りました』も、よろしければどうぞ。




