第9話 好きになったらあかん
翌朝。
美佐子はいつもより早く目を覚ました。
時計を見る。
まだ午前五時半。
「……早すぎるやろ」
布団から起き上がり、台所へ向かう。
いつものようにコーヒーを淹れる。
カップを持って椅子に座ったところで、昨日のことを思い出した。
『好きです』
「……」
美佐子は目を閉じた。
何度思い返しても、優斗の声が耳に残っている。
嬉しかった。
正直に言えば、ものすごく嬉しかった。
六十四年生きてきて、あんな真っ直ぐな目で「好き」と言われたことなんて、ほとんどなかった。
だが――。
「……あかん」
美佐子は首を振った。
「好きになったらあかん」
自分に言い聞かせる。
優斗は二十三歳。
まだ人生が始まったばかりだ。
仕事も、恋愛も、これからいくらでも経験できる。
結婚だってできる。
子どもだって望める。
普通の幸せを手に入れられる年齢だ。
それに比べて自分は六十四歳。
この先、体は少しずつ衰えていく。
病気になるかもしれない。
介護される側になる日も来る。
「……私と一緒になったら、あの子の人生どうなるんや」
美佐子はカップを強く握った。
昨日までは、ただ一緒にいるだけで楽しかった。
優斗が笑えば嬉しかった。
連絡が来れば嬉しかった。
それだけだった。
でも、優斗が「好き」と言ってしまった。
そして――。
自分も、嬉しいと思ってしまった。
「ほんま……何考えとんねん、私」
美佐子は立ち上がった。
その日から、少しずつ優斗との距離を取るようになった。
メッセージが来ても、すぐには返さない。
『今日、仕事終わりました』
いつもなら、
『飯行くぞ』
と返す。
しかし今日は、
『お疲れさん』
それだけ。
優斗は画面を見つめた。
「……」
何かがおかしい。
数日後。
仕事終わりに美佐子へ連絡する。
『今日、少し会えませんか?』
しばらくして返信が来た。
『今日は仕事や』
『何時に終わりますか?』
『遅くなる』
『待ってます』
既読がついた。
だが返信はなかった。
優斗はそれでも待った。
夜十時。
十一時。
結局、美佐子から連絡は来なかった。
「……嫌われたのかな」
その言葉が胸に刺さる。
翌日。
優斗は仕事帰りに、美佐子のダンプがよく停まっている場所へ向かった。
そこに美佐子がいた。
「美佐子さん」
「……優斗」
「昨日、どうして来なかったんですか?」
「仕事やった言うたやろ」
「でも、ダンプはここにありました」
「……」
美佐子が目を逸らす。
「何か怒ってます?」
「怒ってへん」
「じゃあ、どうして避けるんですか?」
「避けてへん」
「避けてます」
珍しく、優斗が強く言った。
美佐子は黙った。
「僕、何かしましたか?」
「……何もしてへん」
「だったら――」
「私が悪いんや」
「え?」
美佐子は深く息を吐いた。
「優斗」
「はい」
「昨日のこと、忘れてくれ」
「……」
「私のこと、好きとか言ったやろ」
「はい」
「あれ、なかったことにしてくれ」
優斗の顔から笑顔が消えた。
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
美佐子は言葉を探す。
「私ら、無理やろ」
「何がですか?」
「年齢や」
「……」
「私は六十四。お前は二十三」
「分かってます」
「分かってへん!」
美佐子が怒鳴った。
「お前はまだ若いねん!」
「……」
「これからいくらでも女の子に出会える」
「僕は――」
「私なんか選んだらあかん!」
優斗は黙って美佐子を見つめた。
「……美佐子さんは、僕の気持ちを勝手に決めるんですか?」
「そういうことちゃう」
「じゃあ何ですか?」
「お前のためや」
「僕のため?」
「そうや」
美佐子は苦しそうに笑った。
「私とおったら、お前は後悔する」
「どうして分かるんですか?」
「分かる」
「分からないですよ」
「私には分かる!」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
美佐子は拳を握った。
本当は言いたかった。
私も好きだと。
お前から「好き」と言われて、嬉しかったと。
できるなら、ずっと一緒にいたいと。
でも言えなかった。
「……帰れ、優斗」
「美佐子さん」
「今日はもう帰って」
「……分かりました」
優斗はゆっくり歩き出した。
数歩進んだところで振り返る。
「僕は、後悔しません」
「……」
「自分で決めたことなので」
そう言って、優斗は去っていった。
美佐子はその背中を見つめる。
姿が見えなくなる。
それでも動けなかった。
「……アホ」
声が震えた。
「ほんまに……アホや」
目から涙が一粒落ちる。
美佐子は急いで拭った。
「泣くな……」
何度も自分に言い聞かせる。
けれど、止まらなかった。
好きになってはいけない。
そう思えば思うほど――。
優斗の存在が、自分の中で大きくなっていった。




