【39】下宿屋のおばちゃん⑤/⑭
義雄さんは結婚前と変わらず実家の石田屋で働いている。休みの日を利用して力仕事をやってくれる。
このお屋敷は、風呂釜を国に供出してるみたいや。うちは生まれて初めて銭湯へ行ったわ。
新たに風呂釜を入れるのは、この物資不足の世の中では困難や。早よ日本が勝って戦争が終わればええのに……
1階は、うちら2人の住居部分。
この部分は時間のないなか、急ごしらえで最低限住めるようにしてもらった。
2階はほとんど手付かずや。
2階にも洗面台とお手洗いが欲しい。
義雄さんは、うちらと共同でええんちゃうか? なんて言ってたけど、女の子代表で、絶対に必要やとうちが押し切った。
まさかこないに大変やなんて、堪忍やで、義雄さん。
職人さんは、お父さんの伝手で見つけることができたけど、何しろ物資不足や
新品なんてなかなか手に入らへん
義雄さんが忙しいなか、いろんなところから少しずつ、ほんまに少しずつ集めてきてくれた
集めてきてくれた物は、2人で綺麗に磨く。排水や給水のための部品も中古品やけど、工事は職人さんにお任せや。これで洗面台とお手洗いはなんとかなるみたいや。
「部屋は、何個作るん?」
「そやなぁ、すでに6畳の部屋は2つあるからな……下宿屋にしては少し広い気もするけどな」
「この大広間は? どないするん?」
「6畳ずつの仕切りはあるけど、個室にするには板で仕切ってやらなあかん。板か……」
今は襖で仕切ってあるだけや。下宿屋にするならできればちゃんと壁にせんとあかん。そやけど壁にするための板が、このご時世、手に入るかわからんらしい。
義雄さんはまた、板を掻き集めるために動いてくれる。
うちは、ひたすら掃除や。畳は新しいものが欲しいけど、とてもこれだけの数を揃えるのは難しい。せめて綺麗に掃除して、いつか手に入ったときに少しずつ傷みが酷いところから替えていくことにした。
お屋敷の隅から隅まで、下宿屋にするために毎日少しずつ2人で整えていく。
作業だけを毎日できるわけやない。
近所の防空訓練に参加してバケツリレーや消火訓練をしたり、防空壕の場所の確認もする。
防空頭巾も作らなあかん。夜、灯りが外に漏れないように黒い布で照明を覆ったり、全ての窓に黒い布を掛けたり、やることがいっぱいや。
毎日忙しい。うちは初めてのことだらけや
そやけど義雄さんがいてくれる。うちの働きたい思いがどんどん形になっていく。
相変わらず料理はあまり好きにはなれへんけど、ご飯は上手に炊けるようになったで
寝所が別々なのが、ちょっと寂しいけどな
9月に入り、いつでも受け入れができる状態になった。
秋のお彼岸の頃には、2人の入居者が決まった。
いよいよや。緊張する
2人とも17歳で同じ職場。会社の寮が満室らしく、お父さんのところに話がきた。
女の子……とは言え、うちより年上やな
「大家の義雄と妻の千代子や。困ったことがあったら言うてな」
「千代子です。よろしくお願いします」
「田中節子です。よろしくお願いします」
「あ、よ、吉田トキです。よろしくお願いします!」
「千代子のほうが歳は下だが、千代子さん、と呼ぶように。よろしゅう、節子さん、トキさん」
「あの、せっちゃんとトキちゃんでええです」
え、年上やのに、ええのかな
義雄さんのほうをチラッと見ると頷いてくれた。
「せっちゃん、トキちゃん、よろしゅう」
2人は笑顔で応えてくれた。
このお屋敷、いや、下宿屋は今日から4人暮らしや。
せっちゃんは、しっかり者や。トキちゃんは少し頼りない。
そやけど2人とも、料理ができる……
「2人とも、すごいなぁ。うちどうしても料理は苦手で……」
「そないなことないですよ。大したもん作れません」
横でトキちゃんが、うんうん、と頷いている。
「……時間あるときでええから、うちに教えてくれへんやろか」
「え!? いや、そんな、教えるほどの料理作れませんよ」
「……お出汁も上手く取れへんのよ」
「あー……」
せっちゃんとトキちゃんは顔を見合わせる
「ほんま、教えるほどの腕やないけど、時々一緒にご飯作ります?」
トキちゃんは、うんうん、と頷いている。
「ええの!? おおきに!」
2人ともとてもええ子で良かった
義雄さんは、下宿屋を始めても石田屋の仕事を続けている。合間を縫って、うちに下宿屋の切り盛りの仕方を教えてくれる。
家賃収入や支出、配給の分配、今後の借り主も紹介制でなくてはならないことや、大家としての心得
「……うちが掃除や料理をするから、お金のことは義雄さんに管理してほしいわ」
「あかん。千代子もできるようにならなあかんで」
「なんで?」
「……わしら2人の下宿屋や。2人でしっかり把握してやってかんと」
「2人の下宿屋……そやな。うん。うちも把握しとかんとな!」
「そうや、それが働くっちゅうことや」
せっちゃんとトキちゃんがお休みの日には、うちら4人でのちょっとした避難訓練もしてくれた
「ええか、万が一、わしが留守中に空襲が来たら……」
義雄さんがいないときに、空襲……
うちは想像すると怖くなった
下宿屋の中には防火用水として水を張ったバケツが4つ。近所のどこに防火水槽があるかをしっかり確認する。
近所の防空訓練でもやったことがあるけど、念を押すように教えてくれる。
どこにいても避難ができるようにいくつもの防空壕を見て回る。
時間の取れる限り、何度も。
「わしがいなくても、それぞれがしっかり避難できるようにしとくんや」
怖い……
せっちゃんもトキちゃんも真剣に話を聞く。
「もし、下宿屋が攻撃されて火事になったら、どないする? 節子さん」
「バケツの水で火を消します」
「そやな。バケツの水がなくなったら? トキさん」
「えっ、えっと……防火水槽へバケツを持っていって、バケツリレーをします」
「うん。では、もしその間、爆撃が続いていたら? 千代子」
「え! ど、どないしよ」
「逃げるんや」
「え、そやけど……下宿屋が燃えてしまうわ」
「下宿屋が残っても住んどる人がいなくなったら本末転倒や。空襲されている間、バケツリレーなんかのんびりやっている余裕はない。命が優先や」
「そ、そやけど! 逃げるんはあかん! 火を消さんと逃げるんは、非国民や!」
せっちゃんもトキちゃんも、うんうん、と頷く。
「……千代子、もしわしが、目の前で敵に殺されそうなときに下宿屋が燃えていたら、わしを助けんとバケツリレーするんか?」
「そ……それは……」
無理や、義雄さんを助けん理由はない。そやけど、国の指針は、逃げんと火を消すように、となってるし……
せっちゃんとトキちゃんも顔を見合わせて困っている。
「あの……義雄さん。そやけど国は、逃げずに火を消すように言うてます」
せっちゃんが遠慮がちに言う
「わかっとる。そやからこれは、ここだけの話や。わしは3人には、下宿屋なんかほっといて逃げてほしい」
「千代子は、わしより下宿屋を取るか?」
「それはないわ! ……そやけど」
義雄さんはため息をつく
「はぁ……。生きてさえいれば、いくらでも再建できるんや。千代子は大家として、店子さんを守ったらな」
うちが、2人を守る?
「死んでしもたら守ることもできん。生きるんや」
3人で顔を見合わせる
わかったような、わからないような……
国が言うてることと全然ちゃう。そやけど義雄さんの言うことも間違ってるとは思えん
その日の夕方、3人でご飯の準備をしているときに、いつも大人しいトキちゃんがぽつりと呟いた
「……お二人は、とても信頼し合ってるんですね」
へ?
「ほんまですね、うちもそう思いました」
「な、なんなん! 藪から棒に」
「あ、あの、いつも、そう思ってました」
「うちも思ってました。千代子さんが義雄さんのこと頼りにしてはるだけやのうて、義雄さんも……なぁ?」
トキちゃんが、うんうん、と頷く。
「千代子さんが絶対自分のこと助けるやろう、と信じてはるから、あんな質問したんやと思います」
「そ、そやろか……」
なんや恥ずかしいわぁ
「ええなぁ。うちも千代子さんたちみたいな結婚……いつかしたいわ、なぁ?」
トキちゃんが、うんうん、と頷く。
……うちらみたいな結婚か
うちはまだ、本当の意味でお嫁さんにはなってへんのやで……
それからも、近所の訓練、義雄さんの訓練。
もしもに備えて寝る時も寝間着ではなく、いつでも避難できる格好で寝るように、とも言われた。
せっちゃんとトキちゃんとの料理、義雄さんからの下宿屋での仕事の指導……
そんなことをしながら日々は過ぎて秋が過ぎ冬がきた。
12月19日、大阪で最初の空襲があった。




