【31】初出勤
喫茶アベルに到着。
カランカラン……
「いらっしゃい」
「あっ、おはようございます」
「みうちゃん、なんやえらい早いな」
「あ、はい、すみません」
「ははっ、いやええけど」
和夫さんが「荷物置きはこっち使ってな」と言いながら、レジの奥の方を指さして教えてくれる。
客席と奥を仕切る、パタパタと開く小さい木の扉を通って中に入る。お手伝いで何度も通ったけど、初出勤の今日は、なんだろう、店側の人になった、という実感が湧く。そういえばこの扉ってなんか名前あるのかな
一番奥に物置きがあって、そこにバッグを置いていいんだって。で、えっと、まず何をしたらいいんだろう……
振り返ると和夫さんがエプロンを差し出した。
「はい、これ付けてな」
「あっ、はい。ありがとうございます」
良かった〜。シンプルな黒い腰エプロンだ
なんか白いヒラヒラしたやつだったらどうしようかと思ってた
「帰るときはその辺に置いとってくれてええから」
「はい」
エプロンを着けて厨房を覗く。おばあちゃんいた
「おはようございます」
「はい、おはよう」
あれ? またすぐアレやれコレやれ、て言われると思ったのに
首をかしげながらカウンターの方に行くと和夫さんがコーヒーを淹れている。
「……あのぅ、何をしたらいいですか?」
和夫さんが私の方を見る
「ああ、基本的にホールの方頼むわ。暇な時間帯は補充やらあるけど、そん時はまた言うわな」
「はい」
……ホールかぁ。イヤな思い出が……
客席の方を見回す。あのおっさんは今はおらんな
「なんや和夫、新しいアルバイト雇ったんか」
カウンターに座ってタバコを吸っているおじさんが和夫さんに話しかけてきた。
「はい。今日からお願いしてるんですわ」
え、えっと、これは私もなんか言ったほうがいいのかな……とりあえず愛想笑いしとこ
へらっ
「お姉ちゃん、わし、しょっちゅう来るでな。よろしく頼むわ」
わ、え、えっと
「よ、よろしくお願いします」
「吉村や」
……何が?
突然名乗られて一瞬戸惑った。すると和夫さんが代わりに答えてくれた。
「この子は、みうちゃんです」
「あっ、あの、みうです」
「み……なんて?」
はい、またこれ。本当にめんどくさい!
和夫さんとアイコンタクト
すると和夫さんが、勝手にニックネームをつけた
「みーちゃん、と呼んでやってください」
「みーちゃんか、よろしゅうな」
……みーちゃんて。あと一文字やん。まあでもこれでめんどくさいくだりもしなくていいから、いっか
テーブルの客席の方から声が上がった
「おーい、おかわり頼むわ」
おっ、おかわり、えっと、コーヒーのことだよね? これは私が行くやつ?
和夫さんのほうを見ると頷きながらコーヒーポットを渡してくれた
「いけるか?」
「は、はい!」
初仕事だ! いやおかわり入れるだけだけど、ちょっと緊張
テーブル席の方に行き、おかわり、と言った人のコーヒーカップを見て「失礼します」と言いながら注ぐ。
「おおきに」
謎の達成感。自分でもウケる。おかわり入れただけで達成感て
ちょっとだけニヤニヤしながらカウンターに戻ると、吉村さんと和夫さんがこっちを見ている。心配してた? もしかして
すると吉村さんが
「初仕事やな」
と、ニコニコしながら言った。
「ふふ、はい」
優しいな、このおじさん
「ああ、ええな。店内が急に明るうなったわ。そうやっていつもニコニコしとき」
え〜、そーお? うふふ。自己肯定感爆上がり〜
そのあとは、お冷やを入れたり、注文を聞いたり、モーニングサービスを運んだり……特にバタバタすることもなく、心配していたセクハラもない。
うんうん、なんとかやっていけそう
そうこうしているうちに、お昼の賄いの時間になった。
ランチタイムの始まる前だ。
店内の状況を見て和夫さんが判断する。店内が落ち着いてきたタイミングで「先に食べ」と言ってくれた。
カウンターに座って賄いをいただく。
ごちそうさまでした
……えっと、和夫さんとおばあちゃんはどうするんだろ
「あのぅ、お2人はいつ食べるんですか?」
「ん? わしらは隙見て厨房でパパッと済ませるで」
うわー、ブラックや
……私の休憩時間とかどうなってんのやろ。それと、何時まで? 細かいところ何にも聞いてなかったわ
時給も……なんとなく聞きづらくて
普通なら、求人内容をしっかりチェックして規定通りに働く。勤務時間外に働くなんてことないけど……
なんだろ、拾ってもらった、て感じだし、昭和では何もできないから、雇ってもらえただけでも有り難いって思うと、とても聞けない
ま、今日一日やってみればわかるか
私は賄いのお皿を片付けてから物置きに行き、自分のバッグから、持ってきていた歯ブラシと歯磨き粉を出して洗面所へ向かう。
歯を磨いていると、トイレのために洗面所へ来たお客さんにギョッとされた。
……あ、ここでやっちゃダメだったかも
慌てて口をゆすいで物置きのバッグに片付けた。
厨房にいるおばあちゃんに聞いてみる
「あのぅ、歯磨きってどこでしたらいいですか?」
「はぁ? 歯磨きしてきてないんか」
「えっ! いや、あの、お昼ご飯のあとの歯磨きです」
「お昼ご飯のあとぉ? なんなんそれ」
え、しないの? ウソでしょ
だってこのあとも接客するのに……
「……あの、普通はしないんですか?」
昭和ルール?
「はぁ、普通がどうか知らんけどなぁ。別にせんでも死にゃあせんわ」
そうだけど……えー、どうしよう
困って固まっていると、おばあちゃんがため息をついた。
「はぁ……。なんやようわからんけど、和夫が言ってたわ、普通と違う環境で育った子やから、常識が違うってな。しゃあないわ、歯磨きがしたいんやろ? 付いといで」
おばあちゃんは厨房を出て、カウンターにいる和夫さんに声をかける。
「和夫、ちょっと離れるで」
「? ああ」
首をかしげる和夫さんを尻目に、レジと物置きの間にある階段へ向かう。
階段の登り口の手前にスノコがあり、そこで靴を脱ぐ。その先は狭い階段を登って2階へ行く。
な、なに? どこ行くの?
2階への階段を登りきって曲がると、小さなシンクがある。
横には棚があって、コップや歯ブラシが置いてある。
「ここ、使い」
「えっ、いいんですか?」
「ええよ。これな、何年か前に和夫が付けてくれたんや。うちもおじいさんも、そないな歳やないのに心配してな」
和夫さん、偉い!
「なんや知り合いが安うでやってくれるとかでなぁ、うちはそんなんいらん言うたんやけど……」
そう言いながら、ちょっと顔が緩んでますやん
……でもここって
「2階は、住まいなんですよね? 私が入っちゃっていいんですか」
「はぁ? かめへんかめへん。2階はうちと和夫が住んでるんや。歯磨きくらい好きに使い」
「ありがとうございます!」
良かったー! 助かる。……ん?
「あの、おばあ……」
あ、人のおばあちゃんをおばあちゃん呼びはヤバい、なんて呼べば!!
「おばあちゃんでええで。和夫と大して歳も変わらんのやし」
「え! いやいや! それはさすがにヤバ……ダメだと思います! ……すみません、お名前も聞いてなくて」
「あはは! あんた真面目やなぁ。フミやで」
「フミさん!」
あれ、何聞こうとしてたんだっけ?
首をかしげて、えっと、となっていたら下から和夫さんの声
「おーい! ばーちゃーん!」
はっ! ヤバい、忙しくなった!?
慌てて降りると和夫さんがいくつものグラスにお冷やを注いでいる
客席を見ると、さっきまで2組しかいなくてまったりした感じだったのに、一気に3組増えてる。5分も経ってないのに突然忙しくなったみたい!
私はお冷やを受け取り、おばあちゃん、いや、フミさんは厨房へ。
お冷ややおしぼりを出していると、注文が入る。和夫さんが対応しているとまた別の席から呼ばれる。かと思ったらもともといた2組がほぼ同時にお会計。
昔、飲食店でバイトしてたときも思ったけど、いつの時代も飲食店あるある、
みんな、なんで一斉に動くのー!!!
あるあるだよね?




