第二章 加藤航空隊Ⅲ
第二章 加藤航空隊Ⅲ
【六】
加藤航空隊の朝は早い。
マリーニは軍港に到着すると、工廠の詰め所に顔を出す。
「おはよう、親方」
「中佐か、今日も早いな」
「親方には敵わないよ」
親方は、客船ローマの改装工事責任者だ。
当然ちゃんと名前もあるし役職もあるが、誰しもが彼を「親方」と呼ぶ。
恰幅の良い体格に口ひげを蓄えて、いかにもイタリアの職人という風情である。
その彼が、湯気の立つ濃いコーヒーを飲みながら、新聞を開いている。
それを横目に見ながら、マリーニが棚から鍵を摘まみだした。
「今日も六二一を借りていくよ」
「ああ、それだけどな。もう返しに来なくていいぜ」
「どういうことだ?」
「加藤航空隊への、おれからの餞別だよ」
親方が、にやっと笑ってそう言った。
マリーニは鍵を握りしめ、親方を見つめた。
「親方……」
「どうせそいつは、廃品から組みあげた員数外の車両でな。礼は要らねえよ」
まるで照れ隠しでもするように、親方は新聞に目を落とす。
その親方に、マリーニは言葉を繋げた。
「この六二一が引けるような転圧機とかは作れないかな?」
「ああん?」
礼じゃないのかよ。
厚かましいともいえる要望に、親方はすごい声を出した。
「あと、これからは一台じゃ足りなくなると思うんだよな。人も資材も燃料も、全部トラックで運ぶしかないんだよ。そうか、そうなると定期整備も見てもらわないといけないな」
「中佐、あんたずいぶん日本人に毒されてんな」
「そうかな」
「そうだよ」
親方が半眼で呆れた声を出す。
「でも、まあ、せっかく海軍が飛ぶんだからな。手伝えることは手伝うさ」
「助かるよ。それじゃ、またな」
ぱたんと扉が鳴り、マリーニが去っていく。
まったく、朝の潮風みたいなやつだ。親方はコーヒーに口をつける。そのときだ、大きな音で再びマリーニが扉を開けた。
「親方、礼を言っていなかった。ありがとう、がんばるよ」
言うだけ言って、今度こそマリーニは去っていった。しばらくすると、遠くで六二一のエンジンが唸りをあげた。
やけどした舌を空気に当てながら、ふんとひとつ鼻息を鳴らした。
【七】
さっきまでの晴天はどこへやら、もくもくと湧いた黒雲が空を埋めている。
そして遂には降りだして、滑走路を無数の雫が叩く。
そのさまを加藤と伊東は見ていた。
「イタリアにも雨が降るんだな」
「初日から雨とは、ついてないですね」
当たり前のことを加藤が言うが、つまりは伊東の言葉が真意である。
今日は加藤航空隊として、初飛行の日なのだ。
すでに搭乗員と整備員、甲板作業員も待機所に詰めている。
「まあ、空軍とお天道様には敵いません」
マリーニが悔しそうに、だが諦め慣れた男の口調で言った。
天気予報も空軍の所管だから、もしかするともしかするかもしれないが、それを言っても空が晴れるわけでもない。
だからマリーニは、当然のこととしてこう言った。
「今日の訓練は予定を変更しましょうか」
「「は?」」
「……え?」
それに対して、加藤と伊東は、まったく同じ間と声色で聞き返した。
マリーニは、ずいぶんこの二人の日本人の考えに慣れてきたと思っていた。
だから、この反応は完全に予想外だった。
困惑の声が、喉から漏れた。
「予定どおりやりますよ」
「海軍ですからね、濡れるのも仕事のうちですよ」
加藤と伊東が続けて言った。
べつにマリーニを責めているわけではない。
この二人は、ほんとうに、心の底からそう思っているだけなのだ。
だからマリーニは、知っている日本語でそれを理解しようとした。
「これが月月火水木金金ですか」
「今日はふつうに平日ですが」
「そういうことではない」
日本海軍の猛訓練と言いたかったのだが、伊東の冷静な指摘を受けて、マリーニも憮然とした声が出る。
それを励ますつもりかなんなのか、加藤は明るい口調で言った。
伊東もそれに続く。
「まあ、訓練に制限はありませんよ」
「戦争に雨天中止もありませんね」
「そういうことではないんだが……そういうことなのか……?」
わたしだけがおかしいのか?
マリーニの頭には、「?」が無限に湧いていた。
【八】
しとしとと、雨が掘っ立て小屋の屋根を濡らしている。
集められた搭乗員や作業員たちは、だらだらと雑談をして過ごしていた。
そこへ加藤と伊東、マリーニが入っていく。
日本人はともかく、海軍中佐がいるとなっては、彼らも居ずまいを正した。
加藤が、マリーニに耳打ちする。
「中佐、通訳を頼んでいいですか」
「もちろん」
「……まあ、いいんですけどね」
伊東が小さく呟いた。
もはや伊東が通訳のために来たことなど、本人以外は覚えていない。
そんなことは気にもかけずに、マリーニを介して加藤が喋る。
「本日はあいにくの天候で残念だ。きみたちは、さぞ飛びたかったことだろう」
「ほんとだぜ、司令官」
「飛ばせてくれよな」
みなから野次のような声が上がる。
飛べないと思っているからこその反応だ。
マリーニは自分がおかしくないと確認して、少しだけ安堵する。
だがそれを伝えれば、加藤の答えは一つしかない。
「よろしい。飛ぼうじゃないか」
「「「「……え?」」」」
なにを言っているんだ、この日本人は。
ぽかんとした搭乗員たちの口から、困惑の音が漏れてでた。
それに構わず、加藤が続ける。
「今日は飛行日和だからな。こんな日に飛ばないのは勿体ない。そういうわけで準備したまえ」
「本気で言ってるのか?」
小柄で短い黒髪、郵政省で飛んでいたベッリ中尉だ。
先任ということもあって、搭乗員たちの纏め役のようなことをしている。
加藤が「もちろん」と答えると、次の異論の声が上がった。
「危険なのでは?」
こちらは新聞社で経験を積んできたモレッティ中尉である。
ベッリより年上だが、軍歴の都合で彼の後塵を排している。
ただ、別段それを気にすることもない。
加藤は、大いに頷いた。
「雨だから危険、当然である。だが、きみたちはもっと危険なことをするんだろう?」
海軍航空、空母航空隊というのは、べつに遊覧飛行をするわけではない。
戦争をするのだ。戦争とは敵がいて、そこで命の取りあいをする行為である。
搭乗員たちが押し黙る。
それを見て加藤は、理解されたと判断した。だから続けて言った。
「それにおそらく、きみたちは今日この日に飛んだことを感謝するだろう」
「どういうことです」
すかさずモレッティが反応した。
加藤が疑問に答える。
「理由は二つ、雨天飛行の経験は多いほうがいい。戦争に雨天中止はないからな」
ちらりと、加藤と伊東の視線が合った。
べつに伊東も、おれのネタじゃないかと怒ることはない。
もう一つは、と問うたのは、通訳に徹していたはずのマリーニだった。
加藤は笑顔で、その肩を力強く握った。
「これがイタリア海軍航空隊の前途そのものだということだ」
「……準備かかれ!」
マリーニの号令一下、全員が椅子を蹴って飛びだした。
なお、このあと雨足が異様に強くなり、滑走路が崩れるおそれがあるということになった。
もちろん初飛行は延期になって、かれらは軍港に戻って昼飯を食べた。
おいしかった。
【九】
どの国でも、海軍というのは少し階級意識が強い。
将校と下士官兵は食事の場所も違えば、「同じ釜の飯を食う」こともない。
給仕がついて皿を出したり下げたりされるのが一般的だ。
加藤と伊東は、何年経っても、なかなかこれに慣れなかった。
しかも今は日本海軍、大日本帝国の代表としてイタリアにいるわけで、それなりに丁重な扱いをされている。
食事はうまいが、どうにも尻の座りの悪さを感じていた。
そして今は、食後のコーヒーを飲みながら、マリーニが口を開いた。
「司令官、これは聞きにくいことなんだが」
「なんですか?」
「リポソは取らせられるか?」
聞きなじみのない単語が出てきた。
加藤が、歩く伊日辞典の伊東に訊ねる。もっとも、今は座っているが。
「なんだそれは」
「午睡です。イタリア人は昼休みを長めに取って、昼寝をする習慣があります」
なるほど、と呟いて、加藤はマリーニに向き直る。
「航空隊の搭乗員にとって、休息はむしろ必要だ」
「では」
「たとえば戦闘中でも、弾薬や燃料を補給するために一時着艦したとする。その五分、十分を貪るように寝られるか。それが航空戦の勝敗を決める」
マリーニが若干引いているのを、伊東は見逃さなかった。
休息の話をしているのに、なぜか戦闘の話になってしまった、とでも言いたげだった。
なので、それを取り持つように伊東は言った。
「となると、リポソよりもパウザのほうが概念としては当たるでしょう。いったん手を止めて休む、という感じです」
「ならばリポソよりもパウザを推奨させましょうか」
少しほっとした表情で、マリーニが言った。
「それがいいでしょう」と加藤が答えると、マリーニも頷いた。
ここが落としどころになりそうだと、彼も判断したのだろう。
それはそうと、伊東としては、率直な気持ちが浮かんでくる。
「搭乗員は寝るのも仕事というわけですか。大変だなあ」
「元帥は寝る暇などないからな」
「航空隊司令ほどではございませんよ」
加藤と伊東の視線が、ばちばちと交錯する。
そのようすを見たマリーニが、コーヒーに口をつけてから笑顔で言った。
「これこそ月月火水木金金ですね」
「もう言いたいだけじゃないですか」
半眼で、伊東が呻いた。
◇ ◇ ◇
マリーニが、搭乗員たちのテーブルに顔を出した。
隣の卓から椅子を引っ張ってきて、よいしょとその輪に入りこむ。
「昼寝はしてもいいらしい」
「意外ですね」
最先任のベッリが、ほんとうに意外そうな声でそう言った。
そうだろう、とマリーニは思う。なので、「ただし」と付け加える。
モレッティが訝しげに訊いた。
「なんですか」
「上手に昼寝しろ」
マリーニの言に、どっと四人が笑いだす。
「任せてください」
「飛ぶよりも、そっちのほうが得意ですよ」
農家出身のコンティ少尉と、最年少のロッシ少尉まで加わった。
そこにベッリがロッシを指さして言う。
「なに言ってやがる。おまえこないだベッドから落ちてたじゃねえか」
「おいおい、昼寝で墜落するんじゃないぞ」
マリーニが渋い顔で言うものだから、四人の搭乗員は手を叩いて腹を抱えての大騒ぎだ。
ベッリなどは涙まで浮かべて、文字通り笑い転げていた。
◇ ◇ ◇
マリーニが、加藤と伊東のところへ戻ってくる。
搭乗員たちの盛り上がりを見ていて、伊東がマリーニに声をかける。
「盛り上がっていましたね」
「ああ。昼寝は歓迎されたよ」
口をつけたコーヒーが、ぬるくなっていたようだ。
マリーニが手を上げると、給仕が新しいものを持ってくる。
加藤と伊東は、それを断った。べつにぬるくてもコーヒーはコーヒーだ。
マリーニが新しいコーヒーを啜って、再び口を開く。
「あと、昼寝で墜落したやつがいる」
「器用なことしますね」
呆れるように、伊東も笑う。
だがそれを聞いて、加藤は神妙な顔でマリーニに言った。
「次に落ちたやつは記録しておいてください」
「構わないが、なんのために?」
「われらの航空隊の、最初で最後の墜落事故ですからね」
ぬるいコーヒーを飲み干して、加藤が言った。
なるほど、とマリーニが承知の意を表した。
「ところで、きみたちは昼寝するのかね?」
「元帥は寝相が悪いので」
「司令官は寝言と歯軋りがひどいですけどね」
「きみたちは搭乗員に昼寝を教わりたまえ」




