第二章 加藤航空隊Ⅱ
第二章 加藤航空隊Ⅱ
【三】
タラント軍港のドックには、仮設屋根越しの陽光と、すさまじい喧騒が降り注いでいる。
優美な船影を持つはずの客船ローマは、今この瞬間にも武骨な空母――護衛艦へと近づいている。
そのようすを眺めながら、マリーニは楽しそうに言った。
「空軍がめちゃめちゃ怒っているらしい」
「そりゃそうだ」
「大丈夫なんですか」
そりゃそうだという加藤の言には、そりゃそうだと言うしかないが、伊東としては心配である。
自らの発案が他国の海軍と空軍の喧嘩の種になっている。
いたずら心で擦ったマッチが、河川敷を火の海にしたような、思ったより大ごとになっている感がある。
マリーニは上機嫌のまま、伊東の問いに答える。
「なんでも総統が収めたとか」
「総統お墨付きですか?!」
伊東の喉から素っ頓狂な声が出た。
彼の起こした大火事をおさめたのは、この列強の一角で全権を治める人間だった。
そんな伊東を見て、加藤が嬉しそうに頷いた。
「さすがは元帥、総統も丸め込んだか」
「これでカトー・アヴィアツィオーネは総統公認というわけだ」
しみじみとマリーニが言う。
彼としては海軍航空隊など、生きているうちに見られるとは思っていなかったにちがいない。
それが総統公認で存在するというのは、もはやなにかのまちがいを疑うような次元のことだった。
だが、それはそれとして、伊東は大事なことを聞きのがさなかった。
「聞きました? 加藤航空隊は総統公認ですって。めでたいですねえ」
「ちくしょう、このやろう」
苦虫を噛み潰した顔で、加藤が嘆いた。
【四】
タラントは、世界屈指の軍港である。
それは単に地形が適しているためだけではない。
汽船の時代になってからは、飲料だけでなくボイラーその他にも大量の真水を必要とする。
豊富で良質な水源に近いということは、海岸や海底の地形と並ぶ良い軍港の条件だった。
「つまり、貯水池用地として確保して、そのまま使われていない海軍の土地があるというわけですか」
「軍港に向けた水道があって、その引込線まであるらしい。水に困らないのはいいことだな」
がたがたと土煙を上げて、未舗装の道路をトラックが走っていく。
その荷台の両端に向かいあって、伊東と加藤が喋っていた。
字面ではわかりにくいが、かなりの大声だ。
工廠から借りたフィアット六二一型トラックは、使い古されて、ずいぶんくたびれている。
それが舗装されていない道を走るのだから、荷台での騒音は相当なものだ。
その運転室は、三人が肩を寄せあえば乗れなくもない。
だが、いつだったか、マリーニにこっぴどく叱られたのだ。
いつもの調子で喋り倒したうえ、あれはなんだこれはどうすると質問攻めにしたため、運転手のマリーニを辟易させたというわけだ。
それ以来、トラックで移動するときは、伊東と加藤は「お荷物」になってしまった。
「しかし、海軍なのにトラックが運転できるのはすごいですね」
「うちじゃあ考えられないな」
イタリアにおいて、自動車は珍しいものではない。
海軍の軍人がトラックを運転することは、ここではごく当然のことだった。
対する日本では、自動車の運転そのものが特殊技能とされている。
陸軍ですら運転できない者は多いのだ。
そして、そのトラックが停車した。
「着きましたかね」
「そのようだな」
荷台からの景色は、後方に開いた幌の隙間しかない。
もうもうたる砂煙のせいで、外の様子はわからなかった。
運転席の扉が開いた気配を確認して、二人は荷台から飛び降りた。
そこには扉も閉めずに立ち尽くす、マリーニの背中があった。
その肩がかすかに震えて見えるのは、きっとまちがいではないだろう。
彼の視線の先には、四機の複葉機が座っていた。
加藤が声をかけると、マリーニは鼻を啜ってから振り向いた。
それはいつもの、洒落たイタリア海軍の将校だった。
「マリーニ中佐、おめでとうございます」
「……加藤少佐、伊東大尉。なんと礼を言ったらいいか」
マリーニが、固く、加藤と伊東の手を順に握った。
再び複葉機を眺めるマリーニを視界の隅に、伊東は飛行場を眺めていた。
そこは丘の空き地という趣になっていて、手を伸ばせば森に触れそうな距離である。
もちろん滑走路は未舗装だし、待機所は掘っ立て小屋に毛が生えた程度のものだ。
風向袋だけがやたらぴかぴかで、これが元気にはためいている。
この調子だと水道はあっても、電気や電話はこれからだろう。
当面は軍港から通いで訓練ということになりそうだ。
だが、それはそれとして、伊東にも、
「まさかイタリアに日本海軍の滑走路ができるとは思いませんでしたね」
という感情が湧くのも自然であった。
マリーニが嬉しそうな笑顔を向ける。
「まさに、元帥のおかげです」
「やめてください」
「ほら、ご覧なさい」
伊東の抗議も、いつも以上に軽く無視される。
マリーニの指さす先には複葉機、その翼面には日の丸がある。
二枚の翼を繋ぐ支柱が斜めになっていて、こうして見ると「W」字のようだ。
この特徴はフィアット社の一部の複葉機に見られるが、加藤は機種を看破したようだ。
「CR.30、再生整備品というところですか」
「ええ。空軍のお下がりを仕立てなおしたものです」
話によると、空軍が用途廃止したものを、フィアット社が引き取って分解修理したものらしい。
新鋭機にして空軍主力機のCR.32など、加藤航空隊に売ってくれるはずもない。
また、買える予算もない。
よって空軍のお下がりの旧式機を、後生大事に使うほかない。
「飛べば十分ですよ」
「まずは四機ですが、最終的には二十機が揃う予定です」
二十機あればいいかといえば、全然そんなことはない。
客船より改装工事中の空母――護衛艦は一隻につき五十機が搭載できる。
二隻で百機の計画に対し、目の前にはたった四機しかない。
だがこの四機と百機の差は、〇機と四機の差よりも、ずっとずっと小さいはずだ。
「搭乗員と整備員は?」
「郵政省や新聞社、航空会社の協力を取りつけてありまして、一通りの訓練は積ませてあります」
飛行機だけでは、だれも飛べない。
結局のところ、なにをするにも人の力が必要になる。
そう問う加藤に、マリーニは胸を張って答えた。
加藤が、にやりと笑う。
「やることはやっていた、ということですか」
「とはいえ航空隊ではなかった。昨日までは」
そう言うマリーニが、引き結んだ口の端をわずかに上げる。
さわやかな潮風に、木々が騒がしく揺れる。
加藤は諦めたように、小さく、だが深く息を吐いた。
「……伊東」
「なんです」
「やるか」
「そうですね」
【五】
さて、とマリーニが向き直る。
今は感慨に耽るのも許されるだろう。だが、それだけではなにも進まない。
「司令官、まずは何からやるのがいいかな」
「まあ、しばらくは滑走路に線を引いて発着艦の訓練ですね」
加藤が答える。陸上の滑走路なら一メートル「走りすぎ」ても、はみ出すだけで済むだろう。
だが護衛艦の航空甲板で同じことをすれば、海に落ちてしまうのだ。
それはそうと、伊東はべつのことが気になった。
「洋上航法も必要なのでは」
「そりゃあ必要だ。でも洋上航法で失敗しても、死ぬのは一人だ。発着艦で失敗すれば、死ぬのは一人では済まないんだよ」
洋上では、常に陸の地形を参照できるわけではない。
その航法には熟練が必要になる。
加藤の言葉は、必ずしも正しくないはずだ。
たとえば偵察に出た飛行機が洋上航法に失敗すれば、艦隊が丸ごと沈む可能性もある。
だが、加藤が言っているのは、そのはるか以前の問題なのだ。
伊東は飛行機を、偵察に便利な道具だと思っていた。
つまり結果を求めていた。
加藤は結果に至る過程を考えている。
そして自分も、今はそちら側に立たねばならない。
「……なるほど」
伊東の納得を見届けて、加藤はマリーニへ振り返る。
「マリーニ中佐はアクィラ、あるいはスパルヴィエロの進水予定をご確認いただきたい」
「進水予定ですか」
「ええ。進水していれば、艤装は済んでいなくても発着艦の訓練はできますからね。やはり本物で練習するのが一番いい」
「了解した。すぐに調べてこよう」
言うが早いか、マリーニは運転席へ駆けだしている。
その背中を、加藤が「ああ、いや、失礼」と呼び止めた。
「中佐。やはり進水予定だけでなく、工事の全体的な日程がほしいですね」
「お安いご用だよ。他に必要なものは?」
「進水したら整備員と甲板作業員も艦で訓練させます。それまでは彼らもここで一緒に訓練させましょう」
「承知した」
マリーニが運転席へ飛び乗って、六二一型フィアットが砂の煙幕を上げながら走っていった。
くたびれているくせに、エンジンだけは調子がいい。
手持ち無沙汰になった伊東が、CR.30に歩みよる。
その下翼に触れて、翼端を丸く撫でてみる。
斜めの支柱が洒落た感じを見せていたが、意外に造りはしっかりしている。
「こいつは、どんな飛行機なんですか」
「空軍の、一世代前の主力機らしい。今は新型の後継機が配備されているそうだ」
「へえ」
伊東には飛行機のことがわからない。
だが、CR.30とCR.32では数字が二しか変わらない。
ということは、性能差も言うほど大したことないかもしれない――そんなことを伊東は思った。
あるいは大したことがあったとしても、画に描いた新型機よりも、会いにいける旧式機ということなのだろう。
「じゃあ運用や整備も希望はありますね」
「元帥は楽観的だな、うらやましいよ」
「司令官の苦労が偲ばれますね、お察し申しあげます」




