第二章 加藤航空隊Ⅰ
第二章 加藤航空隊Ⅰ
【一】
そんなこんなで、数日が経った。
客船「ローマ」および「アウグストゥス」の空母――ではなくて護衛艦への改装工事を見学したり、飛行場の予定地を視察したりしていると、マリーニ中佐が電報を持ってきた。
封筒に駐伊大使の署名があるところを見ると、われらが大日本帝国海軍からの連絡だろう。
日本との連絡手段が限られるとはいえ、大使を連絡係にしているのもすごい話だ、と伊東大尉は思う。
加藤少佐が封を開ける。
「予算が通ったらしい。航空隊が認可されたぞ」
「まさか、ほんとうにやってしまうとは」
信じられないというように、マリーニが呟いた。
とはいえ、ここに来てから伊東が見た飛行機といえば、上空を飛ぶ「覗き魔」だけだ。われらの飛行機は書類の上にしかない。
「まあ、やっと第一歩ですがね」
「われわれはその第一歩を踏めなかったのだ。なにごとも一歩目がいちばん大きい」
水を差すような伊東の言に、マリーニが静かに、そして力強く反論する。
それもそうだ、何も言うまい、と伊東が思った矢先のことだ。いつもの調子で加藤が冷やかしてくる。
「さすがは偉大な元帥だ」
「そんなこと言ってますけどね、この航空隊の責任者は加藤少佐なんですからね」
「きさま、それを言うんじゃない」
伊東の反論は覿面で、加藤が声を荒げる。
だから伊東は追い討ちをかけてやる。
「大日本帝国海軍地中海航空隊か、長いですね」
「これは加藤航空隊だな」
その追い討ちにマリーニが乗ってくる。
加藤は心の底から厭そうにして、言葉に力を失っている。
「やめてくれ……」
「よっ、加藤航空隊司令官」
「きさま、このやろう」
などとすごんでみても、すでに加藤航空隊は動きだしてしまったのだ。
書類の上に並べられた飛行機は、空を求めてプロペラを回しはじめていることだろう。
そしてそれを率いる指揮官は、他ならぬ加藤少佐なのだった。
◇ ◇ ◇
翌日のこと、司令部に呼ばれていたマリーニが、戻ってくるなり吐き捨てた。
「空軍が文句を言ってきた」
「まあ、そうでしょうね」
伊東としては、それ以外の感想がない。発案者は伊東だが、こんなことで既得権益を脅かされればそりゃあ文句の一つも言いたくなるだろう。
「説明はしたんですか」
「もちろん。詭弁だろうと激怒していたよ」
加藤が確認するように聞くと、マリーニが肩を竦めて答えた。空軍の態度は予想できたものだったし、こういう物言いは今に始まったことでもない。
それになにより大日本帝国海軍地中海航空隊――加藤航空隊はすでに動きだしているのだ。マリーニには心の余裕があった。
そして、伊東と加藤も同じ気持ちだったのだ。
「まあ、そうでしょうね」
「完全に詭弁ですからね」
【二】
ヴェネツィア宮殿というのは、ふしぎな場所だ。
ヴェネツィアではなくローマにあるし、宮殿という言葉が思わせるほど豪華絢爛でもない。
城塞ともいうべき剛健さに、ぶあつい石壁が夜の冷気を蓄えている。
この張り詰めた静謐さを好み、イタリア王国首相ベニト・ムッソリーニは執務室を置いていた。
宮殿前の広場では、黒シャツを着た一団が景気のいい演説をぶっている。
熱狂した聴衆は拳を突きあげて、総統、総統と声を枯らす。
だがそれも、宮殿の中には届かない。それはなにも、石壁が厚いためだけではないようだ。
その一室には、重い空気がのしかかっていた。
陸海空軍の参謀総長と各省庁の高級官僚、そして城主のムッソリーニその人が会していたからだ。
その重圧に逆らうことなく、静寂のような声色で、空軍参謀総長のジュゼッペ・ヴァッレは口を開いた。
「総統閣下、加藤航空隊は海軍の越権行為です」
ムッソリーニはそれにはなにも応えずに、目だけでドメニコ・カヴァニャーリ海軍参謀総長を見た。
「総統閣下、これは伊日海軍の正式な協定に基づく協同研究です」
「いやはや、こんな方法があったとはね」
陸軍参謀総長のピエトロ・バドリオが、口の端に笑みを浮かべて野次馬っぽく言う。
それがヴァッレの気に障ったらしい。口調と声色はそのままに、バドリオのほうを睨みつける。
「陸軍は黙っていてもらおうか」
「はいはい」
「これを協同研究などと呼ぶのは詭弁のたぐいです」
バドリオの生返事を無視して、ヴァッレが訴える。
ここに至り、ムッソリーニが頷いて口を開いた。
「カトー・アヴィアツィオーネ。まあ、詭弁だな」
「では……!」
官僚気質の強いヴァッレだが、この言葉には喜色を滲ませた。
それに水を差したのは、外務次官のフルヴィオ・スーヴィッチだった。
お言葉ですが、と前置きしてから言を継ぐ。
「詭弁であっても筋は通っています。すでに署名があり、協定は発効しています。また、日本海軍とフィアット社との契約も締結されており、これを一方的に破棄することは、わが国の信頼に関わります」
「外務次官の意見は聞いていない。協定が有効であることと、それに基づく活動が違法であると糾弾することは両立するはずだ」
ヴァッレは努めて冷静に反論した。
スーヴィッチもまた、一般論を確認する事務方の調子で発言する。
「合法か違法かを問うならば、前者寄りになるでしょう。より適切に申しあげれば、脱法と呼ぶべきかもしれません」
「であればなおさら、法理念は蔑ろにされるべきではないのではないか」
ヴァッレとスーヴィッチの議論は静かに燃えていた。
法解釈の研究としては、きっとおもしろい題材になるだろう。だがここは、法学講座の場ではなかった。
再びムッソリーニが、その重い口を開く。
「ジュゼッペ、きみの言いたいことはわかる。だがその協定には海軍大臣の署名がある。そう、わたしの署名だ」
「は……」
「黄色い猿にしてやられたというわけですか」
消沈するというよりも、なにかを堪えるようにヴァッレの声色が下がる。
それを励ますつもりかなんなのか、バドリオが明るく言った。
ヴァッレがバドリオを睨む。
「陸軍参謀総長のおっしゃるとおりです。海軍としても、全く困ったものでして」
「しらじらしい」
カヴァニャーリに向けて、ヴァッレは文字通り唾棄するように声を出した。
それを宥めるように、ムッソリーニが呼びかける。
「だがな、ジュゼッペ。日本海軍は日本人から絞りとった税金で、わが国の飛行機を購入したのだ。そう考えれば、だれも損はしていない。ちがうか?」
「ちがいません。しかし斯様な前例を認めれば、空軍の独立性が脅かされることになります」
国家元首に対して、ヴァッレは真っ向から反論した。
陸海軍に言い分があるように、空軍にしてみれば必死で勝ち取った独立空軍の立場である。
海軍、あるいは陸軍航空の伸長が、空軍の存在意義を問うものになることは明らかだった。
ムッソリーニが、ひとつ小さな溜息を吐く。
「ジュゼッペ・ヴァッレ空軍参謀総長、われわれには大きな悲願があるな。言ってみよ」
「はい。“われらの空を取り戻せ”であります」
ヴァッレが大まじめな顔で言ったので、ムッソリーニは思わず笑みを浮かべた。カヴァニャーリが無表情を装う隣で、バドリオはにやにやと眺めている。
「そうだ。“われらの海”を手に入れるため、使えるものは何でも使う。神でも猿でも、なんでもだ。異論はあるか?」
「……いいえ」
さすがのヴァッレも、総統閣下に「異論があります」とは言えなかったらしい。
納得はしていない。だが総統にここまで言わせた、ということはヴァッレにとって収穫だった。
彼は総統に対して責任を負うと同時に、その代表する組織に対しても責任を果たさねばならないからだ。
そのヴァッレを横目に見ながら、バドリオがカヴァニャーリに耳打ちする。
「なあ、海軍さんよ。今度うちにも日本人を紹介してくれないか」
「ああ、いや、やめたほうがいい」
「どうしてだ、ひとり占めする気か?」
終始へらへらとしていたバドリオが、わずかに気色ばんだ。
カヴァニャーリは、そういうことではなくてだな、と前置きする。
「やれない理由を全て潰してしまうんだ。おかげで面倒ごとだらけだよ」
「ああ、そういう感じか……」
なにかを察したバドリオが、言葉尻を下げていく。
その雑談が終わるのを待っていたように、ムッソリーニがカヴァニャーリに向き直った。
「海軍参謀総長、ひとつだけ言っておく」
「は」
「わたしは海軍をかばったわけではない。わたしの署名を盾にしたのは見事というほかないが、このようなことは続かない。肝に銘じておきたまえ」
「深く、肝に銘じておきます」
話は終わった、もはやこのことには興味がないと言うように、ムッソリーニがスーヴィッチへ目配せをした。
スーヴィッチが頷いて、書記官や従兵、官僚事務方を人払いする。
ぞろぞろと何人かが退出するなかで、バドリオが再び耳打ちした。
「面倒ごとだねえ」
「だろう?」
などと苦笑していると、室内には限られた人間だけが残っていた。
単に高級ではなくて、最上位の人間たちだけだ。
レースのカーテンが引かれ、薄暗い部屋は、ひときわ温度を下げる。
影の色をした王国首相が、朗らかに発言した。
「さて、諸君。それでは本題に入ろう。かねてより進めてきたエチオピア調伏についてだが――」




