第六章 マルタ奇襲Ⅹ
第六章 マルタ奇襲Ⅹ
【二十一】
魚雷を撃つだけ撃ってから、ユーステノプテロン以下の即席水雷戦隊は急速に戦域を離脱していた。
さすがにどっと疲れが来て、プレストン大尉や軍曹たちは食堂で休んでいた。
ほんらい、海軍艦艇は士官と下士官以下で厳密に区分されているが、ここでの彼らは客人でもある。
怪訝な目を向けるものはいても、怒鳴りつけるようなことはなかった。
そこへ、ペンドルトンが顔を出した。
「陸軍の諸君、助かったよ。感謝する」
「いえ、貴重な体験をさせていただきました」
「大尉はジェーン年鑑を枕にしてますからね」
あいかわらずの調子で軍曹が茶化す。
「最近は海軍士官ですら読まないものもいる。立派なことだ」
「光栄です。――しかしこの艦は、どちらへ向かっているのです?」
「……命令としては、アレキサンドリアの地中海艦隊と合流する、ということだ」
「それは、つまり」
ペンドルトンは、黙して頷いた。
要はマルタを見捨てて戦力を温存するという戦略なのだが、血を流した陸軍将兵にそれを言うのは、ペンドルトンにはためらわれた。
だがプレストンと軍曹は――そんなペンドルトンを察してか、うまく話題をすり替えた。
「マルタから今度はアフリカ旅行ですか」
「どんなところか楽しみだな」
「あっしは行ったことがありますよ。新婚旅行でね」
「軍曹、妻帯者だったのか」
「なんですか、その目は」
そんなやりとりを見て、ペンドルトンはくすりと笑った。
「付きあわせてしまって、すまないな」
「いいえ。地中海艦隊といえば、フランス艦隊もいるはずですね。楽しみですよ」
「やれやれ、また始まりましたよ」
敗残兵とは思えないほど、ユーステノプテロンの食堂は明るい笑い声に満ちていた。
ひとしきり笑ったあとに、軍曹が少し声を低くした。
しかし、どうなんですかね。
「地中海艦隊は、どうしちまったんですかね」
ペンドルトンは、その問いに答えられなかった。彼自身もその問いを抱えていたからだ。
プレストンは諦めたように呟いた。
「こればっかりは、ジェーン年鑑にも書いてないからな」
【二十二】
アレキサンドリアは揺れていた。
地中海艦隊にも、フランス降伏とイタリア宣戦の報は届いていた。
本国政府は地中海艦隊司令カニンガムに対し、在アレキサンドリアのフランス艦隊「X部隊」を抑留するよう指示していた
X部隊は戦艦「ロレーヌ」を含む、重巡洋艦三、軽巡洋艦一、駆逐艦三、潜水艦一という一大勢力である。
これがドイツ、あるいはイタリア側につくことを、ウィンストン・チャーチル英国首相は大いに警戒していた。
さいわいなことに、X部隊の指揮官エミール・ゴドフロワ中将は、きわめて紳士的な人物だった。
それは、カニンガムがそうだったためでもあり、この英仏艦隊の司令ふたりは良好な関係を構築していた。
だからこそカニンガムの求めに応じ、ゴドフロワは麾下の艦艇に武装解除を命じていた。
ゴドフロワは休戦政府を正当と認めていたものの、これに与することはしなかった。
カニンガムもその姿勢と立場を尊重し、X部隊を「平和的な抑留」とした。ゴドフロワも、それを受け入れた。
だが一部の将兵は、それを受け入れなかった。
X部隊の巡洋艦の一隻、あるいは複数が「本国艦隊と合流する」ことを主張した。
当該艦と乗組員の名誉のため、艦名は伏せることとするが、ともかく彼らは動きはじめた。
係留を解き、出港を企てた。
参ってしまったのがゴドフロワである。紳士協定により、紳士的に決着するところが、ご破算になってしまう。
実力をもって行動すれば、実力をもって決着される。
そして今や実力の差は明白なのだ。
ゴドフロワ、あるいは戦艦ロレーヌの艦長などは、そのあたりを理解していた。
そしてカニンガムもまた、まずはフランス人同士で決着することを望んでいた。
だからゴドフロワはロレーヌを動かした。
巡洋艦の航路を遮ることで、その企てを阻もうとした。
だ巡洋艦の艦長と乗組員の決意は固かった。
ロレーヌと巡洋艦は衝撃し、連鎖的に複数の艦船が接触事故を起こしてしまう。
巡洋艦による「謀反」は避けられることになったが、結果として軍港アレキサンドリアは閉塞された。
カニンガムもゴドフロワも、またロレーヌや巡洋艦の艦長――そして、アレキサンドリアにいるすべての人間が「こんなことをしている場合ではない」と思っていた。
そこにはイギリス人もフランス人も関係なかった。
なお、戦後の調査により、巡洋艦の「謀反」には駐伊フランス大使の関与を示唆する証言が確認されている。
だが物的証拠はなにもなく、大使も終戦の日に服毒死しており、今なお真相はわからないままである。
わかっているのは、この事故による閉塞を解消するのに、二十四時間が必要だったことだ。
そしてX部隊の武装解除と協定の確認に、さらに二十四時間がかけられた。
こうして、黄金より貴重な四十八時間が喪われた。
【二十三】
フランスが降伏した。
イタリアが奇襲してきた。
航空隊が壊滅した。
敵部隊の上陸を阻止できなかった。
地中海艦隊が来られない。
食糧も燃料も不足している。
どれかひとつ、ふたつなら、要塞マルタ島は耐えられただろう。
あるいはそのすべてが揃っていても、総督ドビーには戦い抜く自信はあった。
だがグランド・ハーバーの沖合で、ロイヤル・サヴリンが静かに姿を消したとき、同時になにかが喪われた。
それはイギリス軍かもしれないし、島民からかもしれない。
とにかく大きな喪失感が、マルタの肩を落とさせていた。
上陸部隊は首都ヴァレッタに迫っている。
各拠点は粘り強く戦っていたが、ひとつ、またひとつと白旗が揚がっていく。
敵空母の航空隊は、ヴァレッタと総督府の上空を悠然と旋回している。
なにもしてこないのは、なんでもできるということだった。
総督府の執務室に、優しいノックの音が転がった。
「……だれだ」
「イタリア王国陸軍元帥、ピエトロ・バドリオと申します」
「――お入りください」
一九四〇年六月二十二日、イタリアはイギリスへ宣戦布告した。
イタリア軍はマルタ島を奇襲攻撃し、同島を占領した。




