第六章 マルタ奇襲Ⅰ
第六章 マルタ奇襲Ⅰ
【一】
護衛艦「アクィラ」および「スパルヴィエロ」は、洋上にあった。
地中海を南下、のちに西進する。
艦尾の向こうで、水平線が白んでいる。
ぐっと舵が効きはじめ、艦首が風上に立つ。
気流旗が、いっそう大きくはためいた。
伊東少佐がアクィラの甲板に出ると、その合成風を全身に浴びた。
六月、夜明け前の潮風は驚くほど冷たい。
だが飛行甲板には熱気があった
加藤航空隊は、複葉戦闘機のCR.42を使っていた。
フィアット社の戦闘機を、レッジャーネ社が複製したものである。
もちろん無許可だが、フィアットも色々な準備で忙しい。もはやそんなことに構ってはいなかった。
レッジャーネもレッジャーネで、完全自社製の戦闘機を設計していた。だが、今日までに数が揃わなかった。
だから加藤航空隊の主力機は、今も泥棒商売の産物だった。
ずらりと並んだそれらが、ひとつ、ふたつ、プロペラを回しはじめる。
フィアットにせよレッジャーネにせよ、あるいは官民の団体や企業も、今日のためにあらゆる準備をしてきたのである。
「ここにいたんですか」
「ああ」
航空隊が発艦を待っている。その脇に、ひとりの日本人将校がいた。
加藤中佐である。この航空隊の司令官だ。
「いよいよですね」
「そうだな」
加藤の口数の少なさが、伊東は気になった。
「……もしかして、緊張してます?」
「そりゃあ、するだろ」
「それもそうですね」
今さらながら、加藤航空隊は妙な組織だった。
イタリアの国内法において、海軍は航空隊を保有できない。
だから日本海軍が委託した研究部隊にしてしまおう、という脱法航空隊である。
母艦もない、基地もない、飛行機すらない。
それが足かけ五年の歳月を経て、多くの訓練を積み、何度も実戦を経験した。
今や百機百人の定数を満たし、ここにいる。
そして、ついに大国イギリスに立ち向かうのだ。緊張しないわけがない。
「でも、まあ、なるようにしかなりませんよ」
「それもそうだな」
搭乗員や飛行隊長が、加藤のもとへ駆けてくる。
ふたこと、みこと、何かを話している。
わっと盛り上がって、彼らは愛機へ戻っていった。
加藤も日常会話くらいはイタリア語ができるようになった。
だが、むしろ加藤航空隊においては、加藤の日本語にイタリア人将兵が合わせるようなところがあった。
つくづく、変な組織である。
だがその変な組織は、間違いなく地中海の洋上にあったのだ。
「時間だな」
加藤が呟く。今ごろ独仏間の休戦協定が調印されているだろう。
そして、同時に――
〈艦長より達する。本日未明、わがイタリア王国は大英帝国に宣戦を布告、戦争状態へ突入した。各員は所定の準備をなせ〉
電子伝声管からの声に、艦内は静まり返る。
しかし、それも一瞬のことだった。
興奮とも熱狂ともつかぬ喧騒で、飛行甲板は慌ただしくなる。
軽快だが力強い発動機の音が、飛行甲板を駆け抜ける。
一機また一機と発艦し、艦の上空で編隊を整える。
ぱたぱたと翼を振って、各飛行隊が西を目指して飛んでいく。
スパルヴィエロから発艦した機と合流し、百機の襲撃隊ができあがった。
いまだ朝日は昇らない。
だがその光を背に受けて、加藤航空隊は飛んでいた。
目標は地中海のへそ、マルタ島だ。
加藤と伊東は、しばらくその姿を見送っていた。
【二】
「ロイヤル・サヴリン」はイギリスにとって、高貴で格式ある艦名である。
ただ、寄る年波には抗えない。
どうにも足腰に自信がないので、若い艦に気を遣わせてしまう。
だが今は、根拠地アレキサンドリアではなく、グランド・ハーバーにあった。
マルタ島の最重要港ではあるが、僚艦の目がないのは気が楽だった。
それに、なにか事が有ったとしても、主な仕事は港湾を守ることになる。
そうであれば、足の遅さは問題になりにくい。
ただ、島の防衛という意味では、戦艦を置くよりも航空機のほうが重要だった。
マルタは多数の沿岸砲台と城砦が配されており、島自体が要塞として機能している。
それでも大英帝国地中海艦隊は、この島の防衛のために戦艦一隻を割くこととした。
ほんらい、マルタの防衛はアレキサンドリアの地中海艦隊が保障します、というのがイギリスの戦略である。
だがマルタの市民からしてみれば、とりあえず殴られたあとになんとかしてやると言われているようなものだ。
それはどうなんだと現地政府の議員たちが訴えていたし、総督であるウィリアム・ドビー陸軍中将もその心情は理解していた。
マルタ島はイギリスの植民地である。
そこには市民が住んでおり、生活がある。支配していることと、無碍にすることとは違う。
ドビーにとって、それがイギリスの帝国主義だった。
よってドビーはウィルブラハム・フォード海軍中将を通じて、地中海艦隊からロイヤル・サヴリンを引き抜いた。
軍艦とは、実力のみで成立するものではない。その存在感〈プレゼンス〉を示して、それははじめて機能するのだ。
そういう意味で、ロイヤル・サヴリンの存在は、たしかに存在感〈プレゼンス〉を発揮していた。
マルタの市民はグランド・ハーバーに浮かぶ戦艦に、イギリスの決意と覚悟を認めたからである。
その日の夜明け前、ロイヤル・サヴリン艦長のバークリー大佐は電信室からの報告で叩き起こされた。
いわく、フランスとドイツの休戦協定が締結したという。
マルタにおける海軍司令部はセント・アンジェロ砦にある。
問い合わせても返事がない。
おそらく同じような連絡が殺到していることだろう。
こうなると、情報がほしいのはみな同じだった。
グランド・ハーバーに在泊する駆逐艦や潜水艦も、「うちならともかく、戦艦ならなにか知ってるかも」ということでロイヤル・サヴリンへ問い合わせる。
もちろん、わからない。
わからないので、総督府へも問い合わせる。わからない。
そのうちに陸軍や空軍からも問い合わせがある。やはり、わからない。
わからないままでは仕方ない。
バークリーは新米少尉を呼びつけて、セント・アンジェロまで走らせることにした。
バークリーはいら立ちながら、艦橋と艦長室、電信室を往復していた。
そこへレーダー員が、おずおずと声をかけた。
「あのう、艦長、ちょっといいですか」
「なんだ」
「妙な反応がありまして、なんていうか、よくわからないんですが――」
「すまないが、とても忙しいんだ。確認してから聞かせてくれ」
「……失礼しました」
最近の若いやつは、どうにも優先順位を知らなくて困る。
ドイツとの戦争で人材に苦労するのもわかるが、これが世界に誇る大英帝国の海軍軍人なのか。
バークリーは、彼の背中を見て溜息を吐いた。
艦橋に入ると、幕僚や艦橋員が窓の外を見て騒いでいる。
ロイヤル・ネイビーたるもの、軽挙妄動は慎むべし。
そんなことから教えなければならないのか。全く嘆かわしい。
喝を入れてやらねばならぬ。
諸君、と低いがよく通る声を艦橋に響かせる。
「あっ、艦長!」
「あれ、あれを見てください!!」
参謀にまで促され、バークリーは渋々ながら双眼鏡を向ける。
窓の向こう、東の空は暗闇から濃紺へと表情を変えつつある。
白みはじめた光を受けて、無数の黒点がときおり鈍く反射する。
「……まさか」
バークリーは呻いた。
そのとき、新米少尉が帰ってきた。
息を切らせて艦橋へ駆けこんだ彼は、さながらマラトンの伝令だった。
「イタリアが我が国に宣戦布告しました」
それだけ伝えると、彼は医務室へ運ばれていった。
艦橋では、フランスの件が片づかないばかりか、新たな謎が生まれてしまった。
イタリアが? 我が国に宣戦布告?
話によれば、イタリアはフランスの弱体化を待っていたのではなかったか。
フランスの対独降伏が決定的となった時点で、イタリアは対仏宣戦する、というのが情報部の見立てであった。
実際にイタリアは演習と称して大部隊を移動させていた。
まさに対仏開戦の兆候として、この見立てを裏づけるものだとイギリスは認識していた。
イタリアが宣戦布告、参戦するのは織り込み済みだ。
だがそれはフランス相手であり、イギリスに対してするものだとは、だれも思っていなかった。
まさか、とバークリーは再び口にする。
艦橋の電話を取り、レーダー室に繋ぐ。
「さっき言いかけたのは、なんだったのかね」
「はい。多数の正体不明機が接近している、ということです」
なにも言えず、バークリーは受話器を置いた。
そして港に爆弾が降り注いだ。




